日本中國學會

The Sinological Society of Japan

『日本中国学会便り』2006年第2号

2006年(平成18年)12月20日発行

彙報
中国における日本中国学の翻訳──現代文学の場合(補遺)
理事長 丸尾常喜
「東アジアの經典解釋における言語分析」 第一回國際學術シンポジウム参加報告
近藤浩之(北海道大学)
第13回唐代文学会に参加して
土谷彰男(早稲田大学)
人文学における個人研究と共同研究
片岡龍(東北大学)
明清イスラーム文献からの視点
――回儒の著作研究会の歩み――
青木隆(日本大学)
中国学にとっての学理的反省
馬場公彦(岩波書店)
国外流出資料の発掘と中国学の新たな展開
~イベリア半島における漢籍調査をもとにして~
井上泰山(関西大学)
各種委員会報告
[大会委員会]竹村則行


[論文委員会]三浦國雄


[出版委員会]委員長 川合康三


[選挙管理委員会]委員長 竹下悦子


[将来計画特別委員会]委員長 池田知久


新役員一覧




平成18年度学会員動向
平成18年度新入会員一覧
学会展望へご協力のお願い
学会ホームページの一層の充実をめざして


中国における日本中国学の翻訳
──現代文学の場合(補遺)

理事長 丸尾常喜

先号で「中国における日本中国学の翻訳──現代文学の場合」と題して、日本人研究者の研究書の翻訳状況を整理してみた。私の研究分野である現代文学の場合についてまとめ、できれば“抛磚引玉”の役割をはたしてくれればとねがったものであるが、目録は急に思い立って作成したため、やはり漏れたものがあり、ここで四月以降に刊行されたものも含めて、補遺を加えておきたいと思う。

私がこの欄に執筆するのは今回が最後であり、来年3月までまだ重要な会務がのこっているが、ここでひとこと会員の皆さんにお礼を申し上げることをお許しいただきたいと思う。
第58回大会は10月8、9日に、完成したばかりの大東文化大学板橋キャンパスで開かれた。林克教授を代表者とする準備委員会では周到な準備を重ねられ、多数の院生の活躍ぶりが目立つ活気のある運営を行われ、成功裡に幕を閉じることができた。「中国学への提言─外から見た日本の中国学研究」と題するオムニバス講演会は、わが国における人文学をめぐる深刻な問題、中でも中国学が遭遇している内外の困難をどのように認識し、どう打開していくか、存立の基盤そのものが問われている状況の中で、私たちがどこにその存立の意義を見出し、研究者としての責任をはたしていくかを考えるうえで、きわめて時宜にかなったものであった。
講演者はそれぞれよく論旨を練り上げられてのぞまれた。最終プログラムであったが、160名の会員が参加して熱心に聴講した。講演の要旨は本号にも収められているが、全文を冊子にまとめ全会員にお届けできるよう、理事会で予備費からの支出を決定したので、参加されなかった会員もぜひお読みいただき、今後の議論に活かしていただきたいと思う。
私自身は現役退職後の身で思いもかけず大任を与えられ、非力を恥じることがしばしばであったが、ひとまず今日をむかえることができたのは、役員をはじめ『学会報』の刊行、大会の開催などの会務を着実にはたされた会員のお力によるものである。中でも、大上正美氏には新会則の施行以来三期にわたって副理事長の任にあたり、御尽力をいただいた。心からお礼を申し上げる。

さて、近年『学会報』の学界展望が担当校および執筆者の御努力と出版委員会のゆきとどいた協力によって、たいへん充実したものとなってきたことは、すでに以前にもふれたことがある。ただ目録自体は日本で出版された刊行物に掲載されたものを著録することになっているため、中国における翻訳書の刊行状況はつかめない。今年刊行の第58集の「学界展望(語学)」(佐藤昭氏執筆)には、音韻分野の特筆すべき収穫として『平山久雄語学論文集』(商務印書館)が紹介されている。これは日本で刊行された単行本を翻訳したものではなく、直接中国で刊行された中国語による著作である。今後このような刊行形態も少しずつふえていくのではないかと思うのであるが、ともかく哲学・思想、古典文学の分野でもすでに少なくない単行書が翻訳されている。どなたか分野別に紹介の労をとっていただければありがたいと思う。以下本題の図書10点を挙げる。

①楽黛雲編『国外魯迅研究論集(1960─1981)』北京大学出版社、1981
これは日本人研究者の論文のみを収めたものではないため、前回割愛したものである。文革後海外の研究を重視しはじめた中国の動向を先駆的に示したもので、高田淳、竹内実、伊藤虎丸、丸山昇、木山英雄の5氏の論文を含む19編が収録されている。

②内山嘉吉、奈良和夫著、韓宗琦訳、周燕麗校『魯迅与木刻』人民美術出版社、1985
③伊藤漱平、中島利郎編、楊国華訳、朱雯校『魯迅・増田渉師弟答問集』華東師範大学出版社、1989
④伊藤虎丸監修、小谷一郎、劉平編『田漢在日本』人民文学出版社、1997

③は増田渉氏が魯迅の『中国小説史略』(増田渉訳『支那小説史』、サイレン社、1935)や佐藤春夫・増田渉訳『魯迅選集』(岩波文庫、1935)の翻訳中に魯迅との間に交わした書信(問答)を集めた同名の書(汲古書院刊、1986)の中国語訳。④は劇作家田漢の留日時代に関する文章と同氏と交流のあった佐藤春夫、谷崎潤一郎等の関連文章を集めた資料編に加えて劉平・小谷一郎「田漢留学日本大事記」、小谷一郎「田漢与同時代日本作家交流大事記」、「田漢与日本─以在日時的田漢及其与日本作家的交流為中心─」を収める。伊藤虎丸氏の序文からは文革後同氏が積極的にすすめられた日中間の研究交流の経緯を知ることができる。

⑤釜屋修著、梅娘訳『玉米地里的作家─趙樹理評伝』北岳文芸出版社、2000
⑥鍾敬文著/訳、王得后編『尋找魯迅・魯迅印象』北京出版社、2002
⑦樽本照雄編、賀偉訳『新編増補清末民初小説目録』斉魯書社、2002
⑧丸尾常喜著、秦弓訳『“人”与“鬼”的糾葛』(増訂本)人民文学出版社、2006
⑨樽本照雄著、陳薇監訳『清末小説研究集稿』斉魯書社、2006
⑩渡辺晴夫著『日中微型小説比較研究論集』(東京)DTP出版、2006
⑤は『中国の栄光と悲惨─評伝趙樹理』(玉川大学出版部、1979)の翻訳。訳者梅娘は日本にも留学し、日中戦争期に淪陥区となった北京で活躍した女性作家、新中国では北京市大衆文芸創作研究会で趙樹理とともにはたらいていたことがある人である。⑥は後半に前回の④に掲げた増田渉著、鍾敬文訳『魯迅的印象』を収めている。⑦は清末小説研究に属するため前回は割愛したが、今回⑨とともに掲げる。ちなみに樽本氏の主宰する清末小説研究会の機関誌『清末小説研究』は現在29号まで出されているが、中国人研究者の中国語論文も多く掲載され、さながら日中研究者の研究交流の場になっている。⑧は前回掲げた⑨を増訂改版して“毛頭鷹学術文叢”の1冊としたもの。⑩は著者が中国の雑誌に中国語で発表した論文を収める。日本で出版されたが、中国その他の研究者向けの発信である。今後このような出版形態もふえることが考えられる。
昨年、北京魯迅博物館編『韓国魯迅研究論文集』(河南文芸出版社)が刊行された。今日では周知のとおり中国の諸大学での外国人留学生の中で韓国人の数は日本人をしのぐほどになり、中国文学の研究者も増加し、中国の研究誌上で韓国人学者の論文を見ることも多くなった。そこで中国現代文学研究における日・韓両国の交流についても若干ふれておくことにしたい。
韓国で中国現代文学研究が解禁になったのは1980年であった。1980年代に韓国の研究界に大きな影響を与えたのが、丸山昇氏の研究で、『魯迅─その文学と革命』(平凡社東洋文庫、1965)が1982年、『魯迅と革命文学』(紀伊国屋新書、1965)が1986年に韓国語訳された。韓国における中国現代文学研究の過渡的状況を反映したものであろうが、解禁された魯迅の作品の系統的な翻訳・紹介は、最初竹内好訳『魯迅文集』全6巻(筑摩書房、1977─78)の韓訳本によってなされた(1985─87)。竹内好『魯迅』(日本評論社初版、1944)はややおくれて2003年に韓訳本が刊行されている。
中国現代文学研究における日・韓交流は1990年代に入ってしだいに深まり、1999年12月に東京大学で行われたシンポジウム「東アジアにおける魯迅の受容」には、中国、香港、台湾からの参加者とともに韓国からソウル大学金時俊教授(当時韓国中国現代文学学会会長)、韓国外国語大学朴宰雨教授(同学会第2代会長)はじめ9名の韓国人研究者が参加している。今年7月に東京大学で「東京・ソウル中国現代文学研究対話会」(東大中文研究室・東京現代中国文学研究会・韓国中国現代文学学会共催)が開かれ、韓国側発言者7名(コメンテーター8名)、日本側発言者7名(コメンテーター7名)が報告を行った。報告者が、多く若手研究者で、そのテーマも多様であったことに、日・韓の研究交流の進展の状況がよく示されている。


「東アジアの經典解釋における言語分析」
第一回國際學術シンポジウム参加報告

近藤浩之(北海道大学)

北海道大学と台湾大学は、2005年3月に大学間交流協定を締結し、学生の交換留学等が実現し、学術の交流と協力が積極的に進められている。
その交流協力活動の中でも重要な活動の一つとして、「東アジアの經典解釋における言語分析」第一回國際學術シンポジウム(首屆東亞經典詮釋中的語文分析國際學術研討會 Inaugural International Symposium on Interpretations of Classics in Philological Analysis in East Asia)が、2006年8月23日~25日に、北海道大学文学研究科と台湾大学人文社会高等研究院および国科会経典詮釈中的語文分析研究計画の共催で、北海道大学百年記念会館大会議室において開催された。
開会式では、共催する双方の代表者、佐藤錬太郎教授(北海道大学文学研究科)・鄭吉雄教授(台湾大学中国文学系)の挨拶、北海道大学・台湾大学両学の副学長の祝辞の披露が行なわれ、さらに、体調不良のため已むなく参加されなかった伊東倫厚教授(北海道大学文学研究科)からの祝辞も伝えられた。今回のシンポジウムは、経典・解釈・文献学の三者間の密接な関係に着目し、東アジア地域における、儒家と仏教、言語と哲理、文献と思想、解釈と言語分析などの間の、異なった研究方法や理論を融合して、経典の文化的価値及び東アジアの精神的伝統をより深く広く探究し継承していくことが目指されている。
また、今回のシンポジウムは「文献と解釈研究フォーラム(2006~2010年)」の第一回に当たるので、開会式では、フォーラムの構成と計画について簡単な紹介もなされた。本フォーラムは、国境の枠を超えた学術共同組織であり、主にアジアと北米の学界の研究者150人余りによって構成される。2006年から2010年まで、台湾大学の鄭吉雄・甘懐真、東京大学の平勢隆郎、関西大学の吾妻重二、北海道大学の佐藤錬太郎、ペンシルバニア州立大学の伍安祖、シンガポール大学の労悦強、北京大学の顧歆藝・顧永新の九名の構成員によって、順番に学術シンポジウムが開催される。来年以降は台湾大学で第二回、北京大学で第三回、シンガポール大学で第四回が予定されている(詳しくは、文獻與詮釋研究論壇のホームページ:http://eastasia.csie.org/fsctt/zh/ を参照)。
さて、本会議の内容については、あらかじめポスターで「発表者および発表題目」は公表されており、各発表内容についても、日中両国語で予稿集が用意されて関係者に事前に配布され、その予稿集に収められなかった原稿は発表当日に受付で配布された。発表は基本的に中国語で行なわれ、適宜、通訳もなされた。実際の発表順に従って紹介すれば、発表者および発表題目は次の通りである(なお、ポスターの「発表題目」と若干異なるものもあるが、ここに示すのが実際に発表された題目である)。
鄭吉雄(台湾大学中国文学系)「論易道主剛」、楊秀芳(台湾大学中国文学系)「從詞族觀點看「天行健」的意義」、近藤浩之(北海道大学文学研究科)「「神明」的思想――以『易』傳爲中心」、沈婉霖(清華大学博士研究生)「從甲骨、金文辭例重看《易經》〈屯〉卦之意象」、三浦秀一(東北大学文学研究科)「十六世紀中國における陽明學と老莊思想の出會い:朱得之《莊子通義》を手掛かりに」、林啓屏(政治大学中国文学系)「儒家思想中的知行觀――以孟子、象山、陽明爲例」、佐藤錬太郎(北海道大学文学研究科)「「心外無法」の系譜――禪學、心學、陽明學、そして武道」、松江崇(北海道大学文学研究科)「略談《六度集經》語言的口語性――以疑問代詞系統爲例」、羅因(台湾大学中国文学系)「漢譯説一切有部中兩種佛傳中對於佛陀的不同詮釋」、殘和順(北海道大学文学研究科)「『論語鄭氏注』の思想的特色」、水上雅晴(北海道大学文学研究科)「明經博士家の『論語』解釋――清原宣賢の場合――」、魏培泉(中央研究院語言学研究所)「《關尹子》非先秦作品之語言證據」、佐藤將之(台湾大学哲学系)「「變化」的象徴化與秩序化:〈易傳〉的聖人與《荀子》的君王」、徐富昌(台湾大学中国文学系大学)「論簡帛典籍中的異文問題」、劉文清(台湾大学中国文学系大学)「惠棟《九經古義》之解經觀念──「經之義存乎訓」探微」、名畑嘉則(藤女子大学文学部)「二程子の“經”學――朱熹の批判を通して見る程・朱の立場の相違――」、王家泠(台湾大学博士研究生)「魏晉南北朝「神明」觀念的變遷」、松本武晃(北海道大学博士課程)「日本における『春秋胡傳』の受容」、田村將(北海道大学博士課程)「劉逢祿の經世思想に對する再檢討――「通三統」説を中心として――」、以上、三日間にわたって台湾側から10、日本側から9、合計19の発表が行なわれた。
会議全体を通して、仏教経典・儒家教典などの経典解釈に関する言語学・文字学・訓詁学、および解釈と思想の各方面からの新たな方法や視点が報告されて、それぞれの専門分野の研究者が相互に刺激を受け合い、活発に質疑し意見を交換していた。このような広い分野にまたがるシンポジウムの場合、往々にして個別的でつながりのない報告の羅列のようになってしまうものだが、このシンポジウムでは、発表の組合せや順序がよく工夫され、さらに会議後の和やかなレセプションなどを通して、異なる専門分野の研究者同士が対話する機会が多く、本当の意味で学際的交流とその深化がなされたという印象を受けた。例えば、思想の分野を専門とする私個人にとって言うならば、松江崇氏と魏培泉氏による言語学の分野からの発表は、疑問代詞の用法や「即」「是」「所以」「可V+O」「不V之」などの語法の丹念な分析から、かなり明瞭な傾向と結論が導き出せることを示しており、思想的分析だけでは得られない確かな証拠やデータの抽出の方法について、学ぶべき所が多かった。おそらく同様に、各分野の研究者がその他の分野の研究者から多くの啓発を受けたはずである。引き続き、今後の「文献と解釈研究フォーラム(2006~2010年)」の活動と展開が大いに期待される。
本シンポジウムの成果は、各発表内容の推敲を経て、来年には台湾と日本で、それぞれ中国語と日本語の論文集として出版・公開される予定である。

本シンポジウムについての問合せ先:
北海道大学大学院文学研究科中国文化論講座
〒060-0810 北海道札幌市北区北10条西7丁目
電話・FAX:011-706-3018/3051


第13回唐代文学会に参加して

土谷彰男(早稲田大学)

去る8月21日より26日まで、第13回中国唐代文学会国際大会(中国唐代文学学会第十三届年会暨唐代文学国際学術研討会)が、中国唐代文学、首都師範大学文学院、および首都師範大学中国詩歌研究センターの共催のもと、北京市海淀区・中江大厦、および懐柔区寛溝・北京市政府招待所において行われた。大会期間中、参加者は120名余り、論文は90篇以上を数え、われわれ日本からの参加者のほか、香港、台湾の代表も数多く顔を揃え、活発な意見交換がなされた。
大会初日の開幕式では、首都師範大学校長の許祥源氏が中国詩歌研究センターについて紹介され、また中国唐代文学会会長の傅璇琮氏は、前回2004年の華南師範大学(広州市)の大会以降における学会の展望について所感を述べられた。ついで、社会科学院文学研究所所長の楊義氏、台湾大学中文系主任の何寄澎氏、岡山大学文学部の下定雅弘氏が、それぞれ発言された。何氏は、台湾における唐代文学研究の動きを大陸との関わりから紹介され、また下定氏は、近年白居易研究における日中間の接近について述べられた。
ところで、主催のひとつである首都師範大学中国詩歌研究センターは、教育部より人文社会科学の重点教育基地として批准を受け、これまでにも『中国詩歌研究』(中華書局)をはじめ、『文学前沿』(学苑出版社)などを刊行するといったように、古典詩歌研究の領域にとどまらず近現代文学を含む鑑賞や創作といった幅広い方面において活動を行っている。余談ではあるが、筆者はかつて留学中にこの研究センターの有志が主催する『古詩源』読詩会なる活動に参加したことがあるのだが、中国各地から集まった若い学生が故郷の口音によって古詩を高らかに歌い、また意見を出し合って熱心に討論する様子に感銘を受けたものである。
さて、開幕式につづき、大会の基調をなす大会発言が行われた。この席では、羅宗強氏(南開大)、葛暁音氏(北京大)、陳尚君氏(復旦大)、陶文鵬氏(社会科学院文学遺産編集部)、李浩氏(西北大)、呉湘洲氏(首都師範大)が、各自の研究領域に基づいた発言をされた。葛暁音氏は、近年北京大と香港浸会大(Hong Kong Baptist University)との間を定期的に往復されていることから、香港における古典文学研究の方法と最近の動向について詳細に報告された。陳尚君氏は、最近出版された『全唐文補編』『旧五代史校注』の編纂過程における所感と晩唐詩人研究の展開などについて述べられた。また李浩氏は、唐代園林研究の現状と私家園林研究の意義について、呉湘洲氏は楽府詩と音楽の関りについて、それぞれ最新の知見を披瀝された。
グループセッションは30名ほどが一組となり、大会期間中にそれぞれ計4場が設けられた。日本からの参加者は、戸倉英美氏(東大)、下定雅弘氏、佐藤浩一氏(早大非常勤)、渡部れい子君(早大院)、紺野達也君(同)、それに筆者であった。筆者は、下定氏、渡部君とともに第四組に分配されたことから、ここではその様子を中心として紹介していきたい。
第四組は、葛景春氏(河南省社会科学院)、羅時進氏(蘇州大)、呂正恵氏(台湾淡江大)、および下定氏の進行のもと発言と討論が繰り広げられた。発言者は総勢25名。内容から大別すれば、李杜、白居易に関連する報告が半数を占める。いまその報告を発表順に挙げると、渡部れい子「論李白詩歌中的“逸”」、董就雄(香港城市大)「仇注杜詩〈秋興八首〉四区分截説析論」、廖美玉(台湾成功大)「李白記憶身世的両種譜系」、湯華泉(安徽大)「七言歌行的体式与李白歌行的特徴」、葛景春「李杜律詩之変及其原因」、盧燕平(紹興文理学院)「試論李白的武功意向及其嘗試」、李子龍(安徽馬鞍山市李白研究所)「李白“採石捉月”考論」、下定雅弘「従白居易的詠“裘”詩看其“共生思想”」、呂正恵「白居易的“中隠”観及其矛盾」、呉湘洲「杜詩“沈鬱頓挫”風格含義弁析」、張蜀恵(台湾東華大)「従白居易蘇軾“歴杭”作品看其南方意識的形成」、雷喬英(首都師範大院)「江州貶官与白居易詩歌思想二元結合的転換」など、計13編。
各論の詳細については、今度の『唐代文学研究』などにおいてそれぞれ発表がなされるであろうからそれに譲るとして、ここでは議論の様子をごく簡単に紹介したい。
李白については、その身分と生平の問題のほか、席上では葛景春氏の報告にみられるように、詩人の個性と詩型との関わりについて、活発な意見のやり取りが見られた。また、白居易については、その後半生の作品に着目した報告が少なくなかった。下定氏は、白居易の「裘」を詠む作に込められた共生思想によって、白居易における独善の意味をあらためて提示した。これに対して、査屏球氏(復旦大)は、杜甫の詠「裘」詩にも白居易と同様の傾向が見出せること、呉湘洲氏は、白居易の共生思想が彼の自己満足と密接に関わることを意見として加えた。さきにも述べたように下定氏は、開幕式にて白居易研究における日中間の接近について、とくに後半生の作品研究の重要性について述べておられたが、今回の議論の様子を見てみると、中国の研究者もこの辺りに十分注意を払っていることが理解された。
報告はこのほか、筆者「関于皎然《詩式》与大暦貞元文学的劃分」、孫学堂(山東大)「孟浩然“沖淡中有壮逸之気”別解」、査屏球(復旦大)「“趙倚楼”“一笛風”与禅宗語言」、張明非(广西師大)「論李商隠詩的象徴芸術」、張学松(広東省海洋大)「晩唐詩人在農民起義中的心態表現及命運」、羅時進「晩唐詠史詩的修辞策略」(分類の問題として「詠史」と「懐古」の関係)、蔡阿聡(復旦大)「論岑参入仕時期貶謫作品及其家世之関係」など。晩唐詩歌の研究は、さきにも触れた陳尚君氏の発言に見られるように、近年資料が整備されつつあるなか、今後質量とも長足の進歩を遂げるものと思われる。
グループセッションをひととおり終えたのち、最後の大会発言では、各々のグループ代表による総括が行われた。第一組・陳鉄民氏(社会科学院)、第二組・劉明華氏(西南大)、第三組・杜暁勤氏(北京大)、第四組・羅時進氏の発言に続き、周勲初氏(南京大)が今大会の総括と学会についての所感を述べられた。つづく閉幕式では、董乃斌氏(上海大)、閻琦氏(西北大)、傅璇琮氏などが発言され、この席にて次回2008年の開催校として、なおも未定としながらその候補に、蘇州大学、安徽師範大学の名が挙がっていることが知らされた。
四日間に亘る大会期間中、研究発表のほか出席者相互の親睦を図るべくいくつかの催しが企画された。そのうち、北京市内の老舎茶館での観劇と北京郊外の金山嶺長城の参観は忘れがたいものとなった。
大会主催者が参加者に対するホスピタリティを表すものとして、彼地では「考察」などと称してこのような催しを設けることは通例である。参加者にしてみれば、遠路はるばる足を運ぶもうひとつの目的ともなり、よって学術討論という本来の目的に「観光」の色が滲むことになる。一方で、このような学会の運営に対して批判の声が上がっているとも伝え聞く。大陸には古典文学の領域に限っても、日本の比にならぬほど数多くの学会が存在し、それこそ月に一度は何かしらの学会が開かれていてもおかしくはない。地方の人民政府の肝いりとなれば、えてして観光的側面が強く出てしまうのもいたしかたないことであろう。だが、筆者は今回、このような催しが決して不要となるものではないことに気づかされた。というのも、このような機会を借りてこそ、参加者が相互に人事の消息や学会開催の情報交換を行ったり、それのみならず、依頼や招聘状の受け渡しといったやり取りを行うのにちょうどよいものだからである。情報の疎通が便宜のやり取りと重なるところに、いかにも大陸的なるものを感じさせるのであるが、情報交易の場としてこのような催しの存在意義は、今後も変わらないであろう。
今回、主催者のホスピタリティはまことに周到であった。大会期間中に会場を灼熱の北京市内から郊外の湖畔の避暑地に移したのも、そのひとつである。ただ、ここで特筆すべきは、これまで外国人参加者に課せられてきた高額な参加費が今回は撤廃され、彼此分かたずみな一律になったことである。参加費は主催者の裁量によって決められているものと思われ、今回このように至った経緯は明らかではないが、これまでの不均衡が除かれたことは喜ばしくもあり、また近年成長著しい中国の片鱗をうかがわせる思いでもあった。いずれにしても、学会開催の苦労は並大抵ではないはずである。大会を成功裏に進めた首都師範大学の関係者に対し、ここに謝意を記しておきたい。(文中一部敬称略)


中国学への提言──外から見た日本の中国学研究
第58回日本中国学会オムニバス講演会要旨

人文学における個人研究と共同研究

片岡龍(東北大学)

1、中国学と日本思想史学の異同、科学の専門分化
かつて中山茂氏は、学問の類型として、古代バビロニアや中国の天文学型の「記録的学問」と、ソフィストや諸子百家流の「論争的学問」という二つの類型を立てた。前者は、地味で視野は狭く保守的な傾向があるが、着実に知識を蓄積していく。しかし新しい問題を生む力が弱く、知識を積み重ねていっても、いっこう天人の相関法則が見出せないため、次第に飽きられ、後継者を引きつける魅力を失っていく。後者は、問題提起そのものが主な機能で、つねに新しい問題を生み出すが、たいていは論争しっぱなしで結論にいたらず、論争相手がいなくなり関心が薄らぐと、記録されず跡形がなくなり、学問的伝統を形成しない(『歴史としての学問』中公叢書、1974)。前者は中国学の、後者は日本思想史学の、それぞれある側面を言い当てている。両学とも、現在等しく「人文学全体の危機」の流れの中にいるが、いたづらに古きよき時代を懐かしむのでなく、それぞれの学問的個性に即して、自らの過去を対象化し、行く末を見定め、この事態に処すことが必要である。特に世界に冠たる日本中国学の遺産は、人文学全体において突出した特色をもつものであって、その保全と活用は、斯学界の重要課題と思われる。『東洋学の系譜』、同第二集(大修館書店、1992、1994)、『東方学回想』Ⅰ~Ⅸ(刀水書房、2000)、『岩波講座:「帝国」日本の学知 第3巻 東洋学の磁場』(岩波書店、2006)等に続く更に多様な試みが、当学会を発信源として、展開していくことを望む。
一方、人文科学の危機は、大きく科学全体の危機の中で捉える必要もある。科学が体制として確立した19世紀以来、科学は専門主義をとり、それは必然的にさらなる専門分化を生み出してきた。この科学の縮小再生産・細分化のプロセスは、藤垣裕子『専門知と公共性』(東京大学出版会、2003)に詳しい。自然科学の場合、専門分化とそれに伴う弊害は、現に医療ミスや環境問題における責任の所在などの問題として顕在化し、喫緊の対応を迫られている。人文科学でも、たとえば宗教学において、専門的な制度領域が広がるにつれ、それと同時に近代科学にのっとった訓練を受けた専門家では対処しきれない領域も露わになり、そうした領域に従来の宗教概念では捉えられない、たとえばオウム真理教のような宗教現象が現れてくるという指摘もある(島薗進「死生学試論(一)」『死生学研究』2003年春号、同『現代宗教の可能性』岩波書店、1997)。藤垣氏は、現代科学者の専門主義の源泉を「レフェリー制度によって保たれているジャーナル共同体の知識の審判機構」に認めているが、この機構自体の制度疲弊を疑わせるかのような実験結果も、同書には紹介されている(24頁)。

2、共同研究の必要性と難しさ
このような専門化の進展に伴う問題に対応する可能性の一つに、共同研究という方法がある。「人文学における共同研究」というテーマで、ただちに思い浮かべるのは、1968年に行なわれた桑原武夫氏の最終講義である。その講義録(中村真一郎・坪内祐三編『最終講義』実業之日本社、1997所収)や、斎藤清明『京大人文研』(創隆社、1986)などを見ると、共同研究の楽しさや、それを引っ張っていった桑原氏や今西錦司氏等の人柄の魅力が強く印象付けられる。共同研究を成功させるために、こうした雰囲気作りやリーダーシップが必要なことは、多田道太郎氏も強調している(「共同研究の手法と取組み」明治学院大学立法研究会『共同研究の知恵』信山社、1994)。しかし、鶴見俊輔氏が言うように、京大人文研西洋部の成功は、参加者が「第二次世界大戦での日本の敗北についての共通の記憶、その共通の価値意識」をもつ世代であったことが、より大きな要因と思われる(「共同研究の方法」『鶴見俊輔集4 転向研究』筑摩書房、1991)。この共通の価値意識を、現代の我々はもてない、事は科学の細分化だけでなく、かくもバラバラになった世界において、果たして共同研究に必要な共通の問題意識をもち、それを練り上げていくことは可能かという問題がある。この問題はすでに、大学紛争時代に、京大人文研の助手会の企画委員会宛ての公開質問状においても指摘されている(『人文科学研究所50年』京都大学人文科学研究所、1979。前掲『京大人文研』)。今や、そうした一種の共通の価値意識をもった全共闘世代すら定年を迎えつつあり、加えて社会全体の個人主義化傾向と相俟って、共同研究を行なう基盤は崩壊に瀕している。また、今年の新年号の『日本歴史』(692号、吉川弘文館)では、「共同研究の成果とゆくえ」と題した特集が組まれていて、これを見ると、現在、史学において、どれほど研究テーマが細分化しており、そのためある大きなテーマを扱うためには、共同研究を進めざるを得ず、しかしさらにその共同研究自体の数が無数にあって、それらの成果を共有し、全体像を獲得することがいかに困難な状況にあるかが分かる。

3、 学問の歴史の共同研究
『渋江抽斎』の中で鴎外は、抽斎の考証学は決してディレッタンティズムではない、道に至るための手段である。それがために一人の生涯、あるいは数世代の時間を費やすかもしれない。しかしほかに手段がなければ、学者はここに従事しなければならないと述べている。同書の中で、めずらしく鴎外が饒舌に語っている箇所である。
日本の近世後期の学問は、近世なりに行き詰まっていた。しかし、例えば考証学という「下学」が、全体に到達しないのではないか、「上達」しないのではないかという漠たる不安よりも、それを上回る道への信念、それにもとづいた「下学」の努力、これが近代と比較したときの、近世の学問の特色である。中世の宗教的世界から、近世の世俗的世界への転換が起こり、「宗教」は「学問」という形をとるようになった。一般に、日本の学問のタコツボ化は、欧米の学問を輸入した19C後半が、ちょうど近代学問の専門化・分業が始まったときだったからと言われるが(丸山眞男『日本の思想』岩波新書、1961)、タコツボ化は、すでに近世から始まっているようにも見える。しかし、それはまた、近代のタコツボとは異なる。
このような学問の性格、またそれがどのようにして始まり、どのような経路を辿って、次第に行き詰まり、そして当時の学者はそれにどう処そうとしたのかといった学問の歴史を探る事は、私にとっては興味深いテーマである。しかし、言うまでもなく一人ではとうてい太刀打ちできない課題なので、これを、まさに「共同研究」のテーマとして掲げたい。共同研究といっても、何も実際に集まって行なう必要もないので、同じ目的意識を共有してさえいれば、それぞれ自由に進めればよい。要は、共通の問題意識さえあれば、個別研究がそのまま「共同研究」になるというのが、私の結論である。
共同研究の歴史を「共同研究」するというのも、半分冗談みたいだが面白い課題である。いわゆる「総力戦体制論」の中での人文科学・自然科学における共同研究の位置づけに関しては、山根幸夫『東方文化事業の歴史』(汲古選書、2005)、沢井実「戦時期日本の研究開発体制」(『大阪大学経済学』54-3、2004)、青木洋・平本厚「科学技術動員と研究隣組」(『社会経済史学』68-5、2003)等がある。リーダーシップや事務処理能力に欠ける私の性格からは、彼らを架空の「共同研究」仲間と見做して、自分は共同研究の歴史を近世にまで遡って見ることができたらと空想している。


中国学への提言──外から見た日本の中国学研究
第58回日本中国学会オムニバス講演会要旨

明清イスラーム文献からの視点
――回儒の著作研究会の歩み――

青木隆(日本大学)

回儒の著作研究会は、2001年度まで5年間行われた文部科研費創成的基礎研究「イスラーム地域研究」という研究プロジェクト(佐藤次高代表)のワーキング・グループとして1999年3月に発足した。中国イスラム思想の代表的文献である劉智『天方性理』を取り上げることになり、岸本美緒先生や小島毅先生を中心に、主として東京大学の東洋史、中国思想文化、イスラム学専攻の院生たちが集まったのである。桑田六郎、田坂興道といった従来の中国イスラーム思想研究には中国イスラーム思想文献の内容を詳細に分析する作業が欠けていた。この作業を改めて行うに際し、中国学専攻者とイスラム学専攻者の双方が集まり、双方の視点から中国イスラーム思想を立体的に捉えようというのが当初の目的であった。
「イスラーム地域研究」プロジェクトの下にあった3年間、研究会は主に劉智『天方性理』の読み合わせを行い、ときには関連のある多彩な研究者をお招きして研究報告をいただいた。研究会のメンバーも、1年目は東大の院生ばかりであったが、2年目からはプロジェクトの費用で、この問題に深い関心を持つ関西大学と京都大学の大学院生に参加してもらうことができ、10名を超える院生が読書会に参加した。この3年間に研究会は『天方性理』全五巻のうち巻1と巻5の二つを読み、そのうち巻1の訳註を発表した。
周知の通り、回族はモンゴルの時代までに中国に定着した西方ムスリムの末裔であるが、明代になるとイスラームの信仰を保ちつつも、アラビア語・ペルシャ語の使用が絶えてしまう。しかし明末に胡登州(1522-97)がペルシャ語・アラビア語教育を始めるようになると、中国ムスリムの間にイスラームの信仰を知的に反省する機運が生まれ、崇禎の終わりごろには、宋学の知識を持ち合わせ、漢文でイスラームの思想を著すムスリム知識人が登場するに至る。劉智(1655?-1745?)はこれら漢文著作を行う中国ムスリム知識人の最高峰と目されている。劉智『天方性理』は、イブン・アラビー(1165-1240)の思想、すなわち存在一性論と完全人間論を軸に、スーフィズムの信仰とその世界観をコンパクトにまとめたものである。
『天方性理』は、『本経』部分と『図伝』部分の二つに分かれている。『本経』は西方イスラーム文献の引用からなる漢訳文である。たとえば、『本経』第一章の最初の引用には双行註で昭微経とある。これは、ペルシャの著名なスーフィー詩人ヌラルディン・ジャーミー(1414-1492)の『ラワイフ』を指す。また『図伝』の方は、劉智による図にその説明文を付し、最後に『天方性理』の刊行者の黒鳴鳳のコメントを置く構成になっている。
中国思想文化専攻の院生にとって、初めて見た劉智『天方性理』はあたかも中国思想のSFのようであった。宋学の用語でイスラーム思想を表現するとどうなるのか。たとえば、『本経』の一行目に「象数いまだ形れずして衆理すでに具わる」とあるのは、まったく朱熹『易学啓蒙』の太極の箇所と同じ文言である。しかし、そこになんとなくよそよそしい印象が漂うのは、太極を連想させる宋学の用語体系を利用していながら、しかも肝心の太極という用語を峻拒するところにその理由があり、そこに劉智の思想表現の工夫が存する。
劉智以後の学者による『天方性理』注釈には、漢文で書かれたものとアラビア語で書かれたものとが存在する。漢文によるものには、劉智と同時代の黒鳴鳳『性理本経注釈』がある。アラビア語によるものには、馬徳新(1794-1874)『本経五章訳解』および馬聯元(1841-1903)『シャルフ・ラタイフ(性理微言注解)』があり、馬聯元には別に『本経』のアラビア語訳『ラタイフ(性理微言)』もある。アラビア語訳の一例を挙げれば、『天方性理』図伝の最初無称図の円の真ん中の「有」を、馬聨元はウジュード(存在)とアラビア語訳している。
中国学専攻者が漢文文献を用いて『天方性理』の訳文と注釈を作成し、イスラム学専攻者が劉智の典拠として挙げているペルシャ語・アラビア語文献の引用箇所の同定と、アラビア語で書かれた『天方性理』の注釈書の内容を報告する、という形で研究会はスタートした。両者の報告をつつきあわせ、劉智のイスラーム思想用語辞典を作成しようというのが当初の目論見であった。ところが、巻一を読み終わった段階で、この構想は頓挫した。劉智の翻訳の仕方が厳密な逐語訳でないため、イスラームの思想語の訳語として確認できる劉智の漢語が意外にも数えるほどしかなかったのである。劉智のターミノロジーがつかめなかったため、中国学専攻者の側の報告とイスラム学専攻者の側の報告とをうまく接合することができず、このとき私たちが作った巻1の訳註は、漢文世界の劉智とイスラム世界の劉智に分裂してしまった。アラビア語による清末の『天方性理』注釈を見ると、劉智『天方性理』の理解をめぐっておもしろい問題点がたくさん出てきているのに、なかなか肝心の『天方性理』の翻訳や解説に有機的に結び付けて議論することができず、歯がゆい思いをした。
2002年3月にプロジェクトは終了したが、その後も回儒の著作研究会は活動を続けた。このときの継続メンバー5名がそのまま現在に至っている。アラビア哲学の仁子寿晴(東京大学助手)、中央アジア文化史の中西竜也(京都学園大学講師)、回民社会史の黒岩高(武蔵大学助教授)、中国科学史の佐藤実(関西大学講師)、中国文学思想の青木隆(日本大学助教授)である。プロジェクト終了後しばらくは研究会のための旅費の工面に困ったが、近年になって三菱財団の助成金や文部省の科研費により、時間の許す限り研究会を行うことが可能になった。研究会と合宿を通算して、現在年間で3週間程度を費やしている。
プロジェクト終了後は、前回の失敗を反省し、『天方性理』の訳註と、アラビア語の『天方性理注釈』の両方を有機的に接合して『天方性理』の注釈史にもなるような訳註を作成しようと考えた。そのため、アラビア語・ペルシャ語文献担当のメンバーにも『天方性理』図伝の訳註作成を積極的に担当してもらい、イスラム学専攻者のメンバーの意見を訳註作成に反映しやすくした。すると狙いがあたり、研究会の議論が活性化した。それぞれの専門の立場から提出する劉智像が一致することがないのはもちろんのこと、お互いの解釈がお互いに理解できないことさえしばしばだったが、とにかく議論ができるようになった。その結果、『天方性理』には一般的な中国思想とイスラーム思想のどちらにも還元できないような劉智独自の思想が含まれていることが次第にわかってきた。また、拙いものながら研究会の成果として刊行している『天方性理』訳註も、議論を尽くし全員が納得した上で訳文を決定し、その議論の過程がある程度わかるような記録として語釈と解説を書くというスタイルに変わってきた。
中国とイスラームを往来する細かい議論を繰り返していると、やはりお互いに中国思想やアラビア・ペルシャの思想文献の日本語訳がもっとたくさんあったら、とつくづく思う。日本にはイスラム学と比較にならないくらい中国学の蓄積があるけれども、少なくとも『天方性理』の訳註を作るうえで参照したい近世の中国思想にかんしてはそのほとんどが現代日本語訳に翻訳されていない。たとえば、朱子学の立場に立った四書の翻訳はあっても、朱熹の四書集註の全訳はない。イスラム学専攻者たちにとっては、朱熹の四書解釈そのものよりも、四書を解釈するにあたって彼がどのような議論を展開しているかの方に興味がある。イスラーム思想を漢文で記述するにあたって劉智が朱熹の漢文表現を取り入れているのだから当然である。
いま、外部の視点を中国学の内部に取り入れることによって中国学を活性化させる試みが考えられているとすれば、中国学の外部の人にわれわれのふだん親しんでいる文献を利用しやすい形で提供するのは、とても意義のあることである。回儒の著作研究会の乏しい経験から言っても、中国学の外部の研究者はきっとわれわれと異なる視点で研究をするに決っているからである。


中国学への提言──外から見た日本の中国学研究
第58回日本中国学会オムニバス講演会要旨

中国学にとっての学理的反省

馬場公彦(岩波書店)

大東文化大学で行なわれた第58回日本中国学会大会で、「中国学への提言――外から見た日本の中国学研究」というオムニバス講演会で話をする機会を与えられる光栄に浴した。だが勤務先の公務のため出席できず、ビデオ参加というおそらく前代未聞の異例の形で務めを果たすことになった。聴衆の方々はずいぶん戸惑われただろうが、主催者の三浦國雄学会理事がご提案なさった窮余の一策に甘えさせていただいた。
公務というのは毎年ドイツ・フランクフルトで行なわれる国際ブックフェアへの派遣を命じられたのだった。私個人としては今年が三回目の参加となったが、101カ国から7千社あまりの出版社が集う、世界最大のブックフェアであって、8つの巨大ホールを埋め尽くす各出版社ブースの壮観さにまたも圧倒された。版権の売買が主な目的だが、日本の出版社はコミック系を除けば総じて売る成果はほとんどなく、商談の大半は欧米系出版社の英語・ドイツ語・フランス語の出版物の版権を買う事に費やされる。
ただ近年、ささやかな異変がある。一つは日本の版権が韓国・中国を中心に売れるようになってきたことだ。逆に日本の出版社が韓国・中国の版権を買って翻訳出版する例は寥々たるものだから、東アジア域内の書籍コンテンツ市場においては、いまだに日本が一頭地を抜いていると言えるだろう。もう一つは欧米系の出版社における中国関連の出版物の増加ぶりだ。その多さは日本関連の書目と比べると歴然としていて、中国への関心の高さがうかがえる。今回、ハイデルベルグとパリに足を伸ばして高等社会研究院や国立東洋言語文化大学の数名の日本学研究者にヒアリングしたが、日本学に比して中国学の学科規模のほうが大きくなりつつあるという。
日本人のアジアに対する関心が広がり、アジアに対して抱くイメージが様変わりしたのは、80年代以降の中国の改革開放政策の拡がり、とりわけ88年のソウル・オリンピックが大きな契機だったと思う。それを牽引したのは映画・ポップス・漫画・アニメ・テレビドラマなど大衆文化のアジア域内での相互浸透であって、『冬のソナタ』『チャングムの誓い』などの韓流テレビ・ドラマや、「女子十二楽坊」といった中国ポップスや、『JSA』『カンフー・ハッスル』などのアジア映画の興行的成功が記憶に新しい。
翻って出版業界を見ると、その間せいぜいユン・チアンの『ワイルドスワン』(講談社、1993年)、宋強等『ノーと言える中国』(日本経済新聞社、1996年)くらいしかベストセラーが思い浮かばない。中国特需、中国市場進出、日中の企業合併など、実業界に見られるような活況が広告業界を含む文化産業にも波及しているわけだが、そのような景気のよさは、出版業界には見当たらない。
かつてよく読まれた岩波文庫の孫文『三民主義』、毛沢東『実践論・矛盾論』などは、久しく品切れのままだ。孫文や毛沢東がもはや経典としての光彩を放たず、たんなる歴史文献程度の意味合いしか持たなくなってしまったのかもしれない。では出版界は孫文・毛沢東に代わる近代の古典を発掘し普及する努力をしてきただろうか。かろうじて厳復『仁学』(1989年刊)、『章炳麟集』(1990年刊)があるが、それもどこまで在庫を抱えていられるかどうか。出版業界では、現実の中国との距離はむしろ遠ざかっているというが率直な印象だ。
理由の第一は出版業界の保守性。百%近い識字率があって、日本語という共通言語を解する国民一億二千万人を擁する国内市場に支えられた日本の出版業界にあっては、言語を異にする中国市場への進出など顧慮する必要はなかった。『論語』『三国志演義』『唐詩選』といった古典の定番の受容層を当て込んで置けばよかった。いわば商品開発の立ち遅れ。
第二は編集者の不作為責任。言語の壁があって意思の疎通が難しいとか、翻訳に手間とコストがかかるとか、読者の顔が見えにくとかいったことを口実に、現実中国との接点を模索する努力も、常に新たなテーマと書き手を開拓する手間も惜しんできた。いわば研究開発の立ち遅れ。
第三は学術界の不振。中国との学会交流や研究者の往来、大学間の単位交換・留学生交流などの提携はますます活発になっているが、学術界の国境を越えた活動や成果が学会内部のみで消費されていて、一般読者への関心に応えていない。いわば社会的貢献の不足。講演ではこの第三の要因を取り上げ、日本の中国学の現状に対し、学理的反省を呼びかけた。
おりしもこの10月、私にとっては岩波講座の『「帝国」日本の学知』全8巻を完結させる節目の時期でもあった。この講座は近代日本の「帝国」化の過程で構築されていった諸学の形成と展開を歴史的文脈のなかに位置づけようというもので、諸学の来歴を問い学理的反省を通しての批判的継承を目指した。とりわけ末廣昭編『第6巻 地域研究としてのアジア』、岸本美緒編『第3巻 東洋学の磁場』は、アジアを対象とする学知のありようを、かたや地域研究から、かたや中国学からトレースしてみたものだった。
中国学は、かつて漢学に淵源し、近代以降、ヨーロッパのシノロジーの影響下に発展し、豊穣な東洋学の中核を占め、同時に中国現地での組織的調査の成果をも吸収しながら発展してきたアマルガムであって、近隣諸学との提携を通して総合的な学知として機能してきた。
ところが、日本の敗戦によって中国という研究フィールドを失った。中国革命から新中国成立にいたる歴史的現実を目前にして、伝統中国との連続性と断続性という問題に決着をつけられなかった。朝鮮戦争、台湾海峡危機、中ソ対立、中国国内の路線対立とめまぐるしい変化に翻弄され、文化大革命の認識と評価をめぐって沈黙を貫いた。いまの中国学は、現実中国のめまぐるしい変化と表面的にはほとんど何の接点も見当たらず、漢学的(より狭義には経学的)要素に純粋化していく先祖返り現象を起こしているかのように映る。
中国学が現実の中国に対する関心に応えていないという現状は、中国学が時代的な要請を受けながら意識的に現実中国から退却し、アマルガムのごく一部のみを純潔化した結果に過ぎないのではないか。中国学は伝統中国を対象にし、現実中国を対象にしないとの認識があるとすれば、それは決して中国学本然の姿ではなく、後知恵の理由付けでしかないのではないか。
その一つの証左として、戦後直後に創刊された月刊誌『世界』での最初の中国特集である「中国の現状をどう見るか――シナ学者のこたえ」(一九四九年八月号)では、新中国成立を目前にした中国革命の歴史的意義について仁井田陞、吉川幸次郎、平岡武夫、松本善海、貝塚茂樹などの中国学界の重鎮たちが、中国の変革に瞠目し、自らの研究の視角を問いなおし、新たな枠組みの構築を訴えている。伝統中国を研究対象としてきた彼ら中国学者にとって、共産中国という新たな政権が確立したことのインパクトの大きさが伺える。
第二の証左として、竹内好(「現代中国論」1951年など)、武田泰淳(「新漢学論」1935年、「『経書の成立』と現実感覚」1947年など)といった現地派の中国文学者は言わずもがなだが、津田左右吉(「日本における支那学の使命」1939年など)、吉川幸次郎(「支那学の問題」1940年、「支那学の任務」1941年など)、支那学者の支那学方法論議を見ても、方法的対立、学理的立場の相違を超えて、現実中国に対する鋭い問題関心が濃厚に読み取れる。短絡的に現代中国を直接に研究せよとは言っていないが、どこにも伝統中国への回帰など提唱していない。
中国学と地域研究者とのつながりが希薄になることで、地域研究がその方法として備えていた政治学・経済学・社会学といった社会科学諸学理とのつながりが失われつつある。また、考古学・人類学・民俗学・宗教学・言語学・科学史といった隣接の諸科学との連携も弱まっている。東洋学という名の近代に源を発する大河は、いまやさまざまな支流へと枝分かれして、ますます細い流れになっていき、中国という現場を離れていきつつあるのではないだろうか。


中国学への提言──外から見た日本の中国学研究
第58回日本中国学会オムニバス講演会要旨

国外流出資料の発掘と中国学の新たな展開
~イベリア半島における漢籍調査をもとにして~

井上泰山(関西大学)

中国と西欧諸国との文化交流の歴史を問い直すにあたって欠かせない作業は、西欧諸国に流出した漢籍の総量を把握することである。それは西欧における漢学発達史や東西交渉史に関連する様々な問題を考える上で前提条件となるだけでなく、そこに、わが国における今後の中国学が取り組むべき課題に対するヒントも隠されているように思われる。
西欧諸国における漢籍の収蔵状況に関しては、近年、次第に個別の情報が公開されつつあるが、イベリア半島の状況については、いまだに充分な調査は行われておらず、最も情報の乏しい地域であるといえる。
こうした状況をふまえ、筆者は、勤務先である関西大学から、平成17年度前期在外研究員の資格を与えられ、4月から9月までの半年間にわたって、イベリア半島各地の修道院や宮殿の図書館、あるいは公共図書館などに収蔵されている漢籍の調査を行い、一定の成果を得ることができた。調査のために訪れた機関は、スペインでは14、ポルトガルでは8、合計すると22の機関に及ぶが、ここでは、それらのうち、質量ともに重要な位置を占めると判断されるマドリッド及びその近郊の2つの都市にある4つの機関、乃ち、(1)マドリッド国立図書館、(2)トレド聖堂参事会図書館、(3)エスコリアル修道院図書館、(4)マドリッド王宮王室図書館、における漢籍の収蔵状況について、その概要を報告し、併せて、中国学が直面する課題について、若干私見を述べてみたい。

(1)マドリッド国立図書館の漢籍
同館には合計70種類の中国関連書籍が現存するが、うち10点は中国近世白話小説であり、『説岳全伝』(1801年刊)『飛龍伝』(1805年刊)『雷峯塔』(1806年刊)など、書名自体は特に珍しいものではないが、書肆に注目してみると、中には「敬業堂」版や「禅山會文堂」版など、珍しい版本も含まれており、今後詳細に調査すべき貴重な書物であると考えられる。なお、同図書館の収蔵漢籍及びその書誌については、『関西大学中国文学会紀要』第27号(2006)誌上に「スペイン国立図書館所蔵漢籍目録(古典の部)」と題する報告を掲載した。

(2)トレド聖堂参事会図書館の漢籍
同図書館には、以下に示す6点の漢籍が保管されていることが判明した。
1 『大方廣佛華嚴經』卷第54/1345(元至正5)年抄本
2 『少微先生高明大字資治通鑒節要』5‧6‧7卷/刊本、明代?
3 『明解增和千家詩集』3‧4卷/1574(明萬暦2)年、金陵王氏廣勒堂刊本
4 『新鐫梅竹蘭菊四譜』黄鳳池緝/1620(明萬暦48)年、集雅齋刊本
5 『妄推吉凶辯』南懷仁著/1669(清康熙8)年刊本
6 『坤輿圖説』下卷、艾儒著/1674(清康熙13)年刊本
6点のうちの4点までが明代以前の抄写又は刊行に係るものと推定される。収蔵点数こそ少ないものの、刊行年代が相当に古く、特に、1の抄本『大方廣佛華嚴經』、及び3の刊本 『明解增和千家詩集』は、これまで存在が知られていなかった稀覯本である可能性がある。現地滞在中に全ての資料を電子化する作業を完了したので、今後詳細に研究した後、各文献に関する報告を執筆する予定である。なお、3の 『明解增和千家詩集』に関しては、既に、『汲古』第49号(2006)誌上に小論「トレド聖堂参事会図書館蔵『千家詩』(万暦刊本残巻)について」を寄稿した。また、『関西大学文学論集』第56巻第2号(2006)誌上にも、「トレド聖堂参事会図書館の蔵書について」と題する報告を執筆した。

(3)エスコリアル修道院図書館の漢籍
同図書館には、16世紀にもたらされた漢籍として、以下の6点が存在する。
1 『少微先生高明大字資治通鑒節要』20卷/張氏進賢堂板/1541年刊本
2 『徐氏家傳捷法鍼灸』2卷/明德堂板/1531年刊本
3 『三國志通俗演義史傳』10卷/1548年刊本
4 『新刊補訂源流總龜對類大全』
5 『類編暦法通書大全』
6 『風月錦囊』/1553年重刊
同図書館に収蔵されているこれらの書物に関する書誌その他については、孫崇濤氏の『風月錦嚢考釈』(中華書局、2000年7月刊)に詳しい。

(4)マドリッド王宮王室図書館の漢籍
同館においては、4点の漢籍の存在を確認することができた。
1 『舞劍集』3卷/崇德堂/1672年刊
2 『易經大全』24卷/1750年刊
3 『易解』6冊/1750年?刊
4 『仁安堂四書真本』仁安堂/1762年刊
これらの他にも、例えば、清代の北京で実際に行われていたと思われる大道芸の様子を描いた線画や、満州族の風習を描写したと思しき極彩色の絵画、様々な想像上の動物を描いた絵画などもある。因みに、1の 『玲州鹿』は、草書に関する指南書である。

西欧各国に流出した漢籍は膨大な量にのぼるはずである。仮にそうした資料が全面的に公開されれば、これまで存在しなかった全く新しい学問分野が開拓される可能性がある。
そこで考えるべきことは、新資料の発掘という課題に対して今何ができるか、という問題である。現段階では誰もが個別の勤務先を通して海外に赴き、単発的に調査を行っている状態であるが、そうした個人的な作業に頼っていては、早期の全面的な調査は望めない。そこで、敢えて提言すれば、学会としても、特別の漢籍調査プロジェクトチームを結成して、年次計画的に西欧に流出した漢籍所蔵調査に乗り出すくらいの意気込みがあっても好いのではないか。もちろん、そのための独自の予算化も必要となるであろうし、場合によっては、科学研究費などとの連携も視野に入れる必要があろう。そして、将来的には、西欧各国所蔵漢籍の全てのデータベースを日本で構築管理し、中国はもちろんのこと、全世界に向けてサービスを提供するくらいの気構えがあっても好いのではあるまいか。
筆者は、資料の存在こそが学問の方向を決定づける、と信じるものである。新資料の発掘は常に新たな学問分野を生む可能性を秘めている。新たな理論の構築、実証的手法による新事実の解明、あるいは研究組織の見直し等も、中国学の未来像を展望する際に必要であるに違いないが、それらはひとえに新資料の発掘とも密接に関わっていると考えられるだけに、当面取り組むべき喫緊の課題の一つとして、西欧各国に散在する漢籍のデータベースをできるだけ早期に構築することの必要性を改めて問いかけたいと思うのである。


新役員一覧

日本中国学会 平成19・20年度役員構成

理事長
池田 知久
副理事長
池田 秀三   竹下 悦子
理事
神塚 淑子   川合 康三   金  文京
佐藤錬太郎   竹村 則行   土田健次郎
富永 一登   花登 正宏   藤井 省三
堀池 信夫   渡邉 義浩
監事
安藤 信廣   大木  康   林  克
幹事
齋藤 希史   中川  諭

日本中国学会評議員会平成18年10月7日確定

日本中国学会 平成19・20年度評議員

相原 茂    青木 五郎   浅野 裕一
吾妻 重二   安藤 信廣   池田 秀三
池田 知久   市川 桃子   市来津由彦
伊東 倫厚   井波 律子   岩佐 昌暲
植木 久行   宇野 茂彦   江上 幸子
大上 正美   大木  康   大島  晃
岡崎 由美   尾崎 文昭   門脇 廣文
釜谷 武志   神塚 淑子   川合 康三
金  文京   合山  究   後藤 秋正
小松 建男   小南 一郎   坂元ひろ子
佐竹 保子   佐藤  進   佐藤普美子
佐藤錬太郎   柴田  篤   白水 紀子
杉山 寛行   須藤 洋一   高木 重俊
竹内 弘行   竹下 悦子   竹村 則行
土田健次郎  戸倉 英美   富永 一登
中嶋 隆蔵   野間 文史   野村 鮎子
花登 正宏   林  克    平田 昌司
藤井 省三   古屋 昭弘   堀池 信夫
松本  肇   三浦 國雄   三浦 秀一
向嶋 成美   吉田 公平   渡邉 義浩

日本中国学会選挙管理委員会平成18年7月1日確定

平成18年度学会員動向

●会員動向(平成18年11月1日現在)
総会員数1,994名、準会員数62機関、賛助会員数6社

●本年度『学会便り』第一号発行以来判明した、11月1日現在の物故会員は以下の通りです。(五十音順 敬称略)
関東地区     佐藤 隆則
藤塚 明直
近畿地区     金谷 治
九州地区     隈本 宏

●退会会員
○退会申出会員    計30名
○四年会費未納による退会会員    計30名

●住所不明会員           計54名


平成18年度新入会員一覧

10月7日開催の評議員会で入会が承認されたのは、以下の通りです。

●通常会員 20名
池田昌広    頴川 智    王 閠梅
加賀沼伸江   韓 燕麗    草野 友子
高 彩雯    鈴木 崇義   田中 靖彦
張 新力    張 文菁    鄧 慶真
冨永 鉄平   冨山 敦史   永田 真一
巻田 洋平   舛田 佳弘   山田 和大
吉田 文子   林 桂如

尚、以下の6月入会者については、本年度の名簿に掲載されています。

●通常会員  20名
伊崎 孝幸    一澤 美帆    岩田 和子
王 俊文     大角 紘一    岡本 淳子
嘉村 誠     蔡 麗玲     猿渡 留理
白井 重範    鈴木 拓也    石 立善
髙井 龍     田村 彩子    陳 文輝
野村 友平    平塚 順良    古橋 紀宏
水本 圭亮    劉 岳兵

●賛助会員  1社
株式会社 亜東書店


学会展望へご協力のお願い

『日本中国学会報』には毎冊、文献目録が載せられています。これは担当校の尽力によって可能な限り広く収集しているものですが、出版物が増加する一方の昨今、捜求はいよいよ困難になっています。執筆された御本人からのお知らせをお願いするゆえんです。
次号第59集(2007年10月刊行予定)には、2006年度(平成18年)の文献目録を掲載します。2006年1月~12月に刊行された著書・雑誌論文等をお知らせ願います。

なお郵便による御報告は廃止しておりますので、E-mailでのみお知らせください。
論文も書物も一篇、一冊ごとに、部門・分野をご記入のうえ、以下にお送りください。

〔哲学部門〕
〔文学部門〕
〔語学部門〕

各部門の 分類は以下のとおりです。
○哲学部門 一、総記 二、先秦 三、秦・漢 四、魏・晋・南北朝 五、隋・唐・五代
六、宋・元 七、明・清 八、近・現代 九、朝鮮 十、日本 十一、書誌
十二、その他

○文学部門 一、総記 二、先秦 三、漢・魏・晋・南北朝 四、隋・唐・五代
五、宋 六、金・元・明 七、清 八、近・現代 九、民間文学・習俗
十、日本漢文学 十一、比較文学 十二、書誌

○語学部門 一、総記 二、文字 三、音韻 四、語彙 五、語法 六、方言 七、教育・学習(教科書は含みません)
○国内発行の刊行物に限ります(発表言語の種類は問いません)


学会ホームページの一層の充実をめざして

学会ホームページが設けられてから、今日まですでに数年が経ちました。この間、ホームページにアクセスして学会の諸情報を入手された経験のある会員も少なくないことと思います。このたび、学会と会員との双方向の意思疎通をさらにスムーズにするために、学会ホームページの一層の充実をめざして、新たにホームページ特別委員会(正式発足は平成19年4月)を設置することになりました。
委員会を設置するためには「委員会規約」の改正が必要ですが、去る平成18年10月の理事会・評議員会において、将来計画委員会委員長池田より提案が行われ、審議の結果、原案を一部修正して以下のように決まりました。

「委員会規約」(該当部分のみ抜粋、下線部が改正箇所)
1 ……当分の間、将来計画特別委員会・ホームページ特別委員会を置く。
3 委員会の任務
(7)ホームページ特別委員会
a ホームページ(日本語版・英語版・中国語版)の作成と更新。
b 学会諸事業の予告と案内、各種委員会の議事報告、電子メールによる照会・問い合わせの窓口対応、中国学関連のホームページへのリンク、などを行う。
c データベースの作成・管理・公開(学会報や学会発表要旨を含む)など。
d その他

ホームページ特別委員会の委員長には、正式発足する平成19年4月より2年間、担当理事の渡邉義浩氏が就任されます。
学会ホームページや、その他、学会のあり方についてご意見がありましたら、ふるってホームページ特別委員会にお寄せください。

2006年10月10日
将来計画委員会委員長 池田知久