日本中國學會

The Sinological Society of Japan

『日本中国学会会報』2001年第2号

2001年(平成13年)12月20日発行

彙報

私の日本中国学会初体験
理事長 興膳 宏

「第1 回」蘇軾逝世900 年記念学会に参加して
野村 鮎子(奈良女子大学)

中唐文学会の説
静永 健(九州大学)

中国古典小説研究会の紹介
中里見 敬(九州大学)

大会委員会           合山 究
論文審査委員会         丸尾 常喜

研究推進・国際交流委員会   筧 文生
将来計画特別委員会      池田 知久
出版委員会           川合 康三

日本で開催される 中国語国際会議(IACL -11 )の
御案内とお願い

IACL -11 組織委員会委員長 岩田 礼(愛知県立大学)

第17 回 ISO 国際会議に参加して
研究推進・国際交流委員会委員 松岡 榮志(東京学芸大学)


彙 報

1 0 月5 日の総会における決定事項及び諸報告は次の通り。

[議決事項]
(1 )平成1 2 年度決算及び平成1 3 年度予算案が承認されました。
(2 )平成1 3 年度事業計画が承認されました。
(3 )次年度の大会開催校は、東北大学(平成1 4 年10 月12 ・13 日)に決定しました。

◎会費納入について
会費未納の方には振替用紙を同封いたしますので、至急ご送金願います。 なお、数年にわたった未納の方は特にご注意願います。4
年にわたって滞納されますと、除名となります。(郵便振替口座:0 0 1 6 0 ―9
―8 9 9 2 7 )

◎『学会報』送付停止について
平成1 2 年度会費未納の方には『学会報』を送付いたしません。会費納入が確認され次第、送付いたします。また、納入の際には、振替用紙通
信欄に未送付の『学会報』号数をご記入下さい。

◎住所変更について
住所・所属機関等の変更は亟やかにご通知下さい。通知は書面もしくはFAX にてお願いいたします。電話及び会費振替用紙でのお届けはご遠慮下さい。


私の日本中国学会初体験

理事長 興膳 宏

私がはじめて日本中国学会の年次大会に参加したのは、一九六四年(昭和三九年)に慶応義塾大学で開かれた第十六回大会である。当時、私は京都大学大学院の博士課程二年次に在学中だった。
主任教授だった吉川幸次郎先生から、「君たちも、 そろそろ大学の外で自分の研究成果を発表する機会をもつべきではないか」という助言があって、 その気になったと記憶する。同級生だった中鉢雅量
・西村富美子両氏といっしょに学会に入会し、 その年の大会で三人そろって研究発表を行なった。

この一文を書くために記録を調べてみると、「大会は、十二月五・六日の両日に亘って、慶応義塾大学を会場に開催された。秋のオリンピック東京大会のためその開催を繰下げたが、参加者約三百
名を数え、三田山上を賑わす盛会であった」(『日 本中国学会報』第十七集彙報)とある。『日本中
国学会五十年史』によれば、この年の会員数は六 百八十七人だったとあるから、その半数近い三百人が参加したとあれば、文字通
りの「盛会」といってよい。意外だったのは、十二月初旬という例 外的に遅い時期に開かれていたことである。

遅い開催時期となった理由は、「彙報」に記さ れるように、その年の十月十日から二十四日まで
開催された東京オリンピックのためである。今まですっかり忘れていたが、そういえばあの女子バ
レーボール決勝戦のテレビ放送を、どこかで興奮 しながら見ていた記憶がある。それにしても、十
二月に開催された大会というのは、学会五十年の歴史の中でもこのときだけである。なるほどオリ
ンピックとはすごいものだと、妙なところで改め て感心した。因みに、王貞治が年間ホームラン五
十五本の日本新記録を樹立したのも、この秋の話 題だった。

東海道新幹線は、オリンピックに照準を合わせて、この年の十月一日に開業している。東京・新大阪間を四時間で結ぶと記録にはあるから、在来線の所要時間をほぼ半分に短縮したわけで、画期的なことにはちがいない。だが、私は新幹線に乗
って上京したわけではない。学生の身分で、新幹線の料金はとても及ぶところでなかった。そんなところにお金を使うくらいなら、少しでもましな駅弁を食べて空腹を癒したかった。

振り返ってみると、私の東京体験はそれまでに ただ一度だけである。大学に入学する年の春休みに、あこがれの東京見物をして以来、京都より東への旅行といえば、ただいちど友人を訪ねて名古屋まで二時間の旅をしたにすぎない。だから、これは私にとって二度目の東京大旅行、しかも学会発表という任務(?)を背負っての旅立ちである。
いやが上にも緊張感が増そうというものではないか。第三者から見れば、お上りさんも同然の様子だったにしても。

慶応義塾大学の三田校舎を目にしたのは、もちろんはじめてである。母方の叔父が慶応の出身で、ことあるごとに慶応の話は聞かされていたから、名にし負う大学に来た感激があった。私の当日の
発表題目は、「左思詩論─詠史詩を中心に─」と いうもので、発表時間十五分、質疑応答五分だっ
たと記憶する。私は六朝文学を研究テーマとしていて、そのころ手を着けかけていた三世紀末西晋の詩人左思の「詠史詩」について、初歩的な考察の成果
を中間報告したのである。

発表の準備中に先輩から受けた助言によれば、二百字の原稿を普通のスピードで読めば、ほぼ一
分、したがって原稿用紙十五枚程度に内容をまとめれば、まあうまくゆくのではないかとのことだった。だから、その助言にしたがって原稿を用意し、何度も朗読のリハーサルを一人で試みた。ところが、今から顧みてほとんど信じがたいことだが、私は発表のための資料を全く準備していなかった。ずぼらだったのかも知れないが、聴講者に資料を配付するなどということに全然注意が向いていなかったのである。ほかの発表者がガリ版刷りの資料を配付しているのを見て、しまったと後悔したが、すでに手遅れ、なるようになれと、腹をくくって演壇に登った。

とにかく無我夢中のうちに二十分が過ぎた。いくつか質問もあったが、概して好意的な反応だったようなので、一安心した。どうやらいいたかったことは理解してもらえたように感じたからである。そのころは、院生レベルでの他大学との交流はほとんどない状態だったから、学会にはどんな
人がいて、どんな研究をしているのかを垣間見ただけでも、ずいぶん世間が広くなったような気がした。同じ六朝文学を研究していた九州大学の林
田慎之助さんや、広島大学の森野繁夫さんとはじめてことばを交わしたのもこの時である。ただ、自分の発表に神経を集中していたせいか、他の人の発表内容については、まったく覚えていない。
文学関係の発表やシンポジウムはすべて聴講したはずなのだが。

記憶が鮮明なのは、夜の懇親会である。会場は、有名な留園だった。もっとも、そこが有名だと知ったのはずっと後の話で、その時はえらく豪勢なところだ程度の印象を持ったに過ぎない。雰囲気が豪華というだけでなく、やがて薦被りの鏡開きがあり、慶応のマンドリンクラブの女子学生によ
るハワイアンスタイルの演奏というアトラクションまでついて、たいへん華やいだ楽しい気分になった。料理の美味だったことはいうまでもない。
学会の懇親会とはかくもすばらしいものかと感激した。それは恐らくホスト役だった慶応の奥野信太郎先生の肝いりによるものだったろうが、後で聞くと、慶応の先生方はこの饗宴の始末でかなり苦労されたらしい。当事者には申し訳ない話だが、
私にはひときわ印象鮮やかな懇親会だった。

この慶応での大会がきっかけで、やがて就職してからも毎年の大会にはきわめて勤勉に参加しつづけた。海外に滞在していた期間を除いては、現在に至るまで、ほとんどすべての大会に出席しているはずである。もっとも、研究発表という主体的な意欲を持って参加したのはかなり以前のこと
で、近年は役員会のしごとや、研究発表の司会という役目のために出かける方が多くなってしまっ
た。やはり自分の中に強く求めるものがあってこ そ、学会も有用な存在たりうると思うのだが、今は残念ながら参加すること自体が目的化している。
困ったことだが、さしあたってこの状態から抜け出せそうにはない。

かつては、地方での大会には別の目的もあって、心待ちにしていた。札幌や秋田での大会の折りには、そのあと友人たちと近隣の景勝地を旅行して楽しんだ。土地の名物料理を味わうのも、大きな
楽しみの一つだった。だが、最近のように会員数 が二千人を超える規模になると、人手などの関係で、地方の大学に大会開催をお願いしにくい状況が生じている。これも頭の痛いことである。何かよいアイデアはないものだろうか。
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「第1 回」蘇軾逝世900 年記念学会に参加して

野村 鮎子(奈良女子大学)

今年2001 年は蘇軾没後900 年にあたる。これを記念して、蘇軾逝世900
年記念学会が8月20 日~ 23 日の4日間、故郷四川省眉山市で開催された。 参加者総数は約150
名。日本から参加したのは13名だった。

夏休み前、締め切りを過ぎても発表原稿が出来上がらず、出席を取り消そうかと思っていた矢先のことである。四川大学古籍整理研究所の元所長で、蘇軾研究学会の重鎮曾棗荘教授からのメールが届いた。「2101年には没後1000年を迎えるものの、今の我々は誰一人としてそれに立ち会うことはできない。この百年に一度の機会を逸してはならない」。

私は昨年、筧文生氏との共著で『四庫提要北宋五十家研究』(汲古書院)を上梓したが、曾教授
はこの本に長文の序を寄せてくださった。長年蘇軾研究に携わってこられた曾教授にとって、地元で開かれる記念学会は特別の意味をもつ。曾教授の誘いを断ることなどできそうにもない。

眉山市は昨年12月、周辺の彭山県や青神県など6つの県を合併して市に昇格し、人口340万を擁する都市となった。もとの眉山県は東坡区と名を変えていた。かつての白壁瓦葺の落ち着いた町並みは消えうせ、拡張工事によって6
車線となった 大通りにはビルが雨後の筍のように林立している。 到るところに掛けられた「眉山熱烈歓迎蘇軾研究専家」の横断幕が歓迎ムードを演出していた。

記念学会は第13回蘇軾学会を兼ねたものだが、今回は中国共産党眉山市委員会、眉山市人民政府との合同開催である。そのため開幕式や閉幕式では最前列に市の幹部が並び、市の共産党書記長や市長の挨拶が延々と続いた。「東坡精神と三蘇文
化を発揚して眉山の改革開放を大胆に進めよう」 という内容で、眉山がいかに将来性のある町で投資の価値が高いかを力説するものだった。「東坡精神」「三蘇文化」というのはこの町のスローガンらしいが、正確には何を意味するのかはわからない。これら幹部の講話にはすべて英語の通
訳がついた。欧米からの参加者は全員流暢な中国語を話すので通訳の必要はないのだが、国際学会であることを演出しようというものらしい。学会の模様は連日、眉山電視台のトップニュースとして放映され、『眉山日報』の紙面
は学会と記念行事に関する特集記事で埋まった。

学会開催中の一幕。会議だという呼び出しで会場に駆けつけてみると、眉山に投資する企業の経済合作調印式だったことがある。我々外国人はニ
ュース用の恰好のお飾りである。そんなこともあって学術研討会のスケジュールがタイトになり、
討論の時間が少なくなったのは残念だ。

日本人の発表者は全部で8名。全体会で筧文生 氏(立命館大学)が日本側を代表して祝辞を述べ、
池澤滋子氏(中央大学)が「《寿蘇会》―日本明治大正時代的東坡熱」についての報告を行った。
中原健二氏(仏教大学)「蘇軾与“羽扇綸巾”」、 保苅佳昭氏(日本大学)「蘇軾与楊絵有関之詞」、
松尾肇子氏(愛知教育大学)「対日本近衛家族所 蔵蘇軾詩文集研究」、三野豊浩氏(愛知大学)「陸
游在黄州回憶的蘇軾」、伊藤晋太郎氏(慶応大学 院生)「三蘇与諸葛亮」、野村鮎子(奈良女子大学)
「蘇軾〈保母楊氏墓誌銘〉之謎」、以上は分科会で の発表である。いずれ記念論文集が出版される予定なので、発表内容についてはここでは触れない。
学会第2日目はマイクロバスに分乗して市内の三蘇祠と郊外にある蘇墳山を見学した。ガイドはもちろんのこと救急医療班まで同行し、パトカーが
先導するVIP 待遇である。この日は明け方に雨が降ったのだが、蘇墳山までのぬかるんだ道に村
人が砂利を入れて整備してくれていた。道の両側に渡してある歓迎用の横断幕は村の宣伝班による手作りだ。蘇墳山では村人総出の歓迎で、あっという間に子供たちに囲まれた。我々外国人の一挙手一投足を食い入るように見つめている。これではどちらが見学者なのかわからない。

ガイド嬢によれば、蘇墳山は明代に発見された 蘇氏の墓園とのこと。荒廃と再建を繰りかえし、現在のものは1986年の建造。さらに学会の開催に
あわせて補修を終えたばかりだった。墓石は全部 で4基ある。蘇洵と程氏の合葬墓、蘇軾の嫡妻王弗の墓、それに蘇轍と蘇軾の墓である。しかし、
蘇軾は海南島から北帰する途上、常州(江蘇省)で亡くなり、蘇轍によって汝州(河南省郟
県)に 葬られた。蘇轍の墓もかの地にある。ここ蘇墳山 の蘇軾と蘇轍の墓は記念碑というべきものだが、
事情を知らない一般の人々はこれを墓だと錯覚するに 違いない。研究者の中にもこれは文化財に対する冒
だという人もいた。しかし、 「是る処の青山骨を埋む可し」と言った蘇軾のことである。墓がどこに何基造られようとあまりこだわらないのではないか。私はそんな気がしている。

夜には市委宣伝部と市文化体育局のプロデュースに よる文芸晩会が開催され、幼稚園児による東坡の詩詞
の朗誦、眉山中学の女生徒が半年かけて練習した創作舞踊「蘇祠瑞蓮」や新曲「我愛―東坡故郷」の女声合唱が披露された。

仄聞するところ、没後900年の記念学会をどこで開催するかについては、眉山市、常州市、郟
県の三者の間で熾烈な争奪戦が繰り広げられたと いう。結局、故郷が勝って今回の記念学会となっ
たものらしい。たかが学会にこれほど躍起になる背景には、地の利に恵まれぬ地方都市は国際学会を誘致することで対外開放をアピールするしかないという切実な事情がある。

さて、学会終盤に聞いた話である。この逝世900年の記念学会、来年は郟 県、再来年は常州でと3年連続して開催されることになったとのこと。す
なわち今年は「第1回」目。1年や2年の違いにこだわらず互いの面子を立てるのは、中国らしい裁定だと妙に納得した。ただ、「百年に一度」の
セリフに誑かされた(?)身としてはいささか心中複雑。曾教授の別れ際の言葉「来年の逝世900
年記念学会でまた会いましょう」に、笑って「はい」といえなかった私はきっとまだ修行が足りないのだろう。(2001
.10 .20 )


日本で開催される 中国語国際会議(IACL -11
)の 御案内とお願い

IACL -11 組織委員会委員長  岩田 礼(愛知県立大学)

 来年、2002年8月20日-22日、愛知県立大学(愛知県愛知郡長久手町)を会場として、中国語の国際会議が開催されることになりました。中国語学の領域では我が国初の本格的な国際会議となります。

 スポーツの国際大会は当たり前のことです。自然科学では国際会議が日本でも頻繁に開かれています。ところが、我々の世界ではそれが当たり前のこととはなっていません。
いろいろな理由があると思います。まず中国研究は外国研 究であり、従って我々が中国を訪れ、かの地の研究者を招
くことは自明かつ自然であっても、こちらで国際会議を開くべき必然性が感じられないこと。加えて、国内に伝統的な研究体制と近年の中国語学習人口の膨張に支えられた分厚い研究層が存在し、自足的な世界が形成されていること。
この点は日本の長所でもあり、批判されるべきではないと思います。しかし近年、海外の会議に出席する日本の研究
者が増えるにつれ、一方では日本の研究に対する関心が高 まり、また一方では、かように研究・教育の盛んな国がなぜ国際会議を主催しないか、という声も聞かれるようになりました。日本から海外への研究者の流れがその逆より圧倒的に多い、というアンバランスを解消する必要がある、これがこの国際会議を開催するに至った直接の動機です。
しかしこの会議は単にノルマを果たすだけのものであってはなりません。

 日本の中国語研究はかつて世界的にも先端に位置する業績を生みました。有坂秀世、河野六郎、頼惟勤に代表される音韻史研究、太田辰夫に代表される語法史研究などです。
『中国語学事典』(1 9 5 8 年,江南書院)や『中国文化叢書1 ・ 言語』(19
6 7 年,大修館)をみれば、特定の分野に限らず、 中国語学全体としての研究の厚みが理解できます。学会
(IACL )では、日本での大会開催に合わせて、「橋本萬太郎 歴史音韻学賞」の創設が決定されました。この賞は余靄芹
(Anne Yue‐ Hashimoto )教授のお志と御寄付(今後毎年5 0 0 米 )に基づくものですが、故橋本萬太郎教授の厖大な業
績の中で、特に歴史音韻学の分野が選ばれたのは、それを 生んだ我が国の学統に対する敬意の表れでもある、と私は
考えています。しかしそれで喜んでいては洒落にもなりま せん。先達に対する評価は、いうまでもなく現在の日本の
研究に対する評価とイコールではないからです。“分厚い 研究者層”がハイレベルの研究を生むとは限りません。私
達は私達の時代の研究を提示する必要があります。また先 達の時代とは異なり、日本の大学で教える外国人の先生も
確実に増えています。いまや、“日本人の研究”ではなく、 国籍を超えて“日本の研究”を構築し、国境を超えて研究
交流を進める時代になっていると思います。国際会議は、 新世紀における日本の研究の成果
と研究のあり方を示す場 ともなるよう願っています。

 大会開催には意志と条件の双方が必要です。条件には、 資金、施設、運営体制等があります。私達の場合は、意志
のみ先行し、条件作りは後回しになりました。資金ゼロ、 大学院生ゼロ、アクセスが悪い上に、2
0 0 5 年万博の会場と なる公園以外は何もないロケーションでどうやってやれば
よいか、知恵をしぼってきました。

  資金については、幸い日本中国語学会会員を中心とする 皆様から予想を越える個人寄付が集まっております。語学
会会員以外の皆様の中でも、もし私達の志に共鳴して下さ る方がおられましたら、御協力をお願いします。連絡先、
振込先は下記の通りです。ただ、草の根募金に依存する現 状は、主催者として誠に忸怩たるものがあります。せっせ
と財団助成申請書を書いているところです。

 またできるだけ多くの方に会議に参加していただきたい と思っています。特に若手研究者には、論文発表を期待し
ています。論文はすべて事前の審査によって選ばれます。 年々競争が厳しくなっておりますが、腕試しの絶好のチャ
ンスです。なお論文発表への応募資格はIACL 会員に限ら れますが、会議へのオブザーバー参加は参加費(登録費)
さえ払えばオープンです。詳しくは下記ホームページをご 覧下さい。

 日本中国学会には、後援を御決定いただき、有難く思っ ております。どうぞよろしくご支援のほど、お願い申し上
げます。

[連絡先]
〒48 0 -11 9 8 愛知県愛知郡長久手町熊張
愛知県立大学外国語学部IACL -11 組織委員会
E‐ mail:iacl11@for.aichi-pu.ac.jp

Tel.0561 ―64 ―1111 内線2516,2403;
Fax.0561 ―64 ―1107
ホームページ http://www.aichi-pu.ac.jp/for/person/iacl11/

[寄付金の払い込み方法]
郵便振替:0 0 8 6 0 ―0 ―9 6 5 2 5 IACL -11 組織委員会
*「募金要項」を上記ホームページに掲載しております。 [会議の概略]

(1 )名称
國際中國語言學學會第1 1 届年會(中国語)/The 11th Annual Conference of the
International Association of Chinese Linguis‐ tics (IACL -11)(英語)
*The International Association of Chinese Linguistics (IACL ) は、中国語言語学の領域で唯一の国際組織(本部はアメリカ・南カリフォルニア大学)。

(2 )過去の開催地・機関(開催順)
シンガポール国立大学(第1 回,第9 回),フランス・東 アジア言語研究所/パリ第七大学,香港城市大学,米国・
ウィスコンシン大学(Madison ),台湾・清華大学,オラン ダ・ライデン大学,米国・スタンフォード大学,メルボル
ン大学,米国・カリフォルニア大学(Irvine )

(3 )会議の内容
全体集会における講演(Keynote Speech ):6 件
分科会における一般発表:1 0 0 -12 0 件
特別ワークショップ(テーマ未定)。
「若手研究者賞(Young Scholars Award )」及び「橋本萬太郎歴史音韻学賞」(Mantaro
J.Hashimoto Award )候補論文の発表会

(4 )主なスケジュール
平成14年
2月22日 論文発表(特別賞に応募する場合は、論文全文)の締切
3月    発表要旨・論文査読
4月末   査読結果の通知
6月末   参加登録一次締切
7月末   参加登録最終締切、プログラムの確定
8月20-22日  大会


第17回 ISO 国際会議に参加して

研究推進・国際交流委員会委員 松岡 榮志(東京学芸大学)

 去る6月18日から5日間、香港で開催されたISO (国際 標準化機構)の国際会議に日本代表の一人として参加してきました。この会議は、正式にはISO/IEC
SC2 /WG2 /IRG といい、1990年からほぼ半年に一度開かれています。今回 は17回目で、4年前に中国返還のセレモニーがとりおこなわれたHKCEC
(香港会議展覧中心)の6階会議室で、中国、日本、韓国など9カ国、地域の代表45名を集めて開か
れました。

  今回の主要なテーマは、何といっても「ISO/IEC 10646 - 1 」に付け加えるExtension
-B の最終案作りです。この「ISO /IEC 10646 -1 」とは、世界のすべての文字や記号にコード
(符号)を振り、コンピュータの中で一元的に処理するための国際規格です。すでに、1993年に最初の規格が発行さ
れ、95年には我が国の工業規格「JIS X 0221 」として制定、 公布されています。(さらに、昨年その改訂版、「ISO/IEC
10646 -1:2000 」が発行され、本年4月、「JIS X 0221 -1:2001 」 が制定されています)

  この「ISO/IEC10646 -1 」の中には、20,902の漢字コー ドが収められています。さらに、改訂版では6,692の漢字
コードが追加されました。ここで、20902 個の「漢字」と言わないのは、その符号の場所に、中国、台湾、日本、韓
国、ベトナムの「漢字」が並べられているからです。実際 に数えてみると、実に4万以上の「漢字」が埋め込まれています。我が国の規格で言えば、「JIS
X 0208 」(第一、第 二水準)と「JIS X 0212 」(補助漢字)はすべて含まれています。日常生活の上では、十分すぎるほどの漢字が収められていると言ってよいでしょう。
しかし、私たち中国の古典を研究する場合には、もちろ んそれでは足りない場合があります。『四庫全書』や『四
部叢刊』などの大型の漢籍データベースを作る場合にも、 より多くの異体字を必要とします。(ただ、実際には、『四
庫全書』でも約3 万字で済んでしまったようですが。『大漢和辞典』や『漢語大字典』などの字書を作るためだけに必要な異体字が山ほどあるのです)そういうかけ声で、拡
張(Extension )作業が始まりました。まず、先に挙げた「Ex‐ tension -A 」が何とか終わり、今回の「Extension
-B 」の作業が何年にもわたって続けられました。そして、今回の42,711の漢字コードが追加されたのです。こうして、理論的には70
,205の漢字(コード)を使うことができるようになりました。『大漢和辞典』も『漢語大字典』もすべて収められました。「理論的には」と言いましたのは、実際に使われることは多分ないだろうと思われるからです。(ちなみに、皆さんのPC
(パソコン)で「補助漢字」を搭載しているものは、ほとんどありません。) この「Extension
-B 」の全容は、まもなく公開されるでしょうが、たしかに多くの問題を含んでいます。各国、地域の代表は、自分の国、地域の声や利益を代表して議論に臨みます。そこでは、議論がしばしば情報処理や文字論の
枠を超えて、一種の外交交渉となり、いわば妥協点をどこ に見つけるかで一日が終わってしまうこともよくあります。
それは、きわめて根気と情熱と忍耐力を要します。ただ、 最終案が多くの問題を含んでしまいがちなのは、何よりも
日常的に漢字を使わない国々の圧力をもろに受けるからです。ここに、漢字を「国際」規格に収める難しさがあります。
ところで、この国際会議は通常英語で行われますが、議論 が白熱すると突如中国語のるつぼと化します。そして、思い切り議論したあとで、また英語の世界にもどります。漢字を議論するのに中国語を使うのは、わたしたちにとって
は当然のことですが、英語しかできない人たちにとっては我慢のならない、耐え難いことのようです。(ここで誤解
しないでいただきたいのは、アメリカの代表もベトナムの代表も中国語を話します。)
さて、次に何と「Extension -C 」という話もありますが、 もうそろ「ネットバブル」のような話はひとまずおいて、日常必要とする基本的な漢字セットの標準化に取りかからねばなりません。この基本的な漢字セットの構想は、私たちが95年くらいからずっと提唱してきたのですが、「大きいことはいいことだ」の大合唱の中でほとんど見向きもされませんでした。今年になって、ようやく情報処理学会の試行標準として、検討が始まりました。
最後に、ここ数年、日本中国学会からの派遣という形で 旅費の一部を援助していただいていることに深く感謝申し上げます。私としては、日本の中国学(文学、哲学、語学)
の専門家の利益のみならず、多くの国や地域の人々の利益 に広く寄与することを念頭において、活動を行っています。
その結果、Bulldog Award (1999)及び「標準化貢献賞」(2001) を受賞しました。
これまでは情報処理委員会報告として、理事会に対して報告を行ってきましたが、今後はいっそう多くのかたに活
動を知っていただく機会を多く持ちたいと願っています。 なお、活動に興味ある方は、以下のものをお読み下さい。

◎石川・松岡:『漢字とコンピュータ』(1997 ,大修館書店)

◎松岡榮志:「漢字の危機」は杞憂にすぎない(『中央公論』 1998
年3月号)

◎『漢字文献情報処理研究』第2 号(2001 ,好文出版)

E‐ mail:JCF10470@nifty.ne.jp