日本中国学会第63回大会
研 究 発 表 プ ロ グ ラ ム
| 哲学思想部会 | 文学語学Ⅰ部会 | 文学語学Ⅱ部会 | 漢文教育部会 | 特別講演 |
十月八日(土) 午前
十月八日(土) 午後
- 1―4 張衡『霊憲』の科学思想 (13時30分〜14時) 発表要旨
- 前原あやの(関西大学大学院)
- 司会 南澤 良彦(九州大学)
- 1―5 二十四孝の成立における『晋書』の位置づけ (14時5分〜14時35分) 発表要旨
- 梁 音(愛知県立大学非常勤講師)
- 司会 渡邉 義浩(大東文化大学)
- 1―6 中国近世以降における『開元占經』の流傳と受容について (14時40分〜15時10分) 発表要旨
- 佐々木 聡(東北大学大学院)
- 司会 二階堂 善弘(関西大学)
- 1―7 佐藤一斎の静坐説とその思想史的考察 (15時15分~15時45分) 発表要旨
- 野村 英登(二松学舎大学非常勤講師)
- 司会 湯浅 邦弘(大阪大学)
十月九日(日) 午前
十月九日(日) 午後
十月八日(土) 午前
十月八日(土) 午後
- 2―4 夏丏尊における近代小品文の創出と日本 ――『文章作法』と水野葉舟『小品文練習法』との異同から―― (13時30分〜14時) 発表要旨
- 鳥谷 まゆみ(立命館大学)
- 司会 伊藤 徳也(東京大学)
- 2―5 東亜同文書院の中国語教育――『華語萃編』初集を中心として―― (14時5分〜14時35分) 発表要旨
- 石田 卓生(愛知大学非常勤講師)
- 司会 佐藤 晴彦(神戸市外国語大学)
- 2―6 奪権なき「革命」 ――魯迅一九二七年言説の再考と「同伴者作家」をめぐって―― (14時40分〜15時10分) 発表要旨
- 湯山 トミ子(成蹊大学)
- 司会 長堀 祐造(慶應義塾大学)
- 2―7 曹乃謙の世界――その特異性と可能性について―― (15時15分~15時45分) 発表要旨
- 渡邊 晴夫(元國學院大學)
- 司会 加藤 三由紀(和光大学)
十月九日(日) 午前
十月九日(日) 午後
十月八日(土) 午前
十月八日(土) 午後
十月九日(日) 午前
十月九日(土) 午後
十月九日(日) 午後 (14時40分〜16時10分)
十月八日(土) 16時〜17時
- 1 九州の漢学者たち 発表要旨
- 町田 三郎(九州大学名誉教授)
十月九日(日) 11時10分〜12時10分
- 2 韓国の中国学研究の現状紹介 発表要旨
- 金 文 京(京都大学)
発表要旨
哲学思想部会
本発表では、磬という楽器そのものの意味をさぐることにより、「子撃磬於衛」章にて孔子が演奏していた楽器が磬である理由を考察する。これまで『論語』憲問篇「子撃磬於衛」章の解釈にあたり、楽器についての考察はあまり注目されてこなかったのではないだろうか。論語における楽器の音色は、みずからの志の発露である。「子撃磬於衛」章でも、「荷簣而過孔子之門者」が孔子の撃つ磬の音色を「鄙哉、硜硜乎。」と評しているのであるから、同じ流れで解釈するのがよいと思われる。さて、この章において孔子が演奏していたのが磬であるとされていることには、何ら思想的意味はないのだろうか。もちろん、実際に衞国滞在中の孔子の屋敷に磬が備えられていて、『史記』孔子世家にあるように楽師を招いて磬の演奏を学んでいたのではないかとも考えられよう。しかし磬という楽器の特徴を把握し、思想的にいかなる楽器であるかということを明らかにすることによって見えてくるものもあるのではないだろうか。
そこで、次のような方法で論を進める。まず『詩経』や『春秋左氏伝』などの文献により、磬の用途や用いる場所などをさぐる。孔子が撃ったとされる磬はいかなる形状をし、いかなる演奏方法をされていたのか。これについては出土文物を参考にして考察する。さらに『荀子』楽論篇や『礼記』楽記篇には、楽やそれを奏でる楽器の思想的役割などが記されている。これらの思想的役割は、孔子の時代に既に存在していたか否かは分からない。しかし『論語』が編纂され、伝承されていく中で、「子撃磬於衛」章における磬という楽器の名前は省かれずにいたのである。磬という楽器は、「子撃磬於衛」章の持つ意味をさらに強めているのではないだろうか。以上の方法で、磬という楽器そのものの意味を通して「子撃磬於衛」章を考察したい。
1―2 春秋経(左氏経)の作経メカニズムとその成立の構図について
諸侯の策(史記)の一つとしての「魯の春秋」が孔子の筆削により「春秋経」(公羊・穀梁型)と成ったとの経学的通説は、孟子の「春秋」の成立についての言説との矛盾を指摘されて久しいが、近代の実証的研究は春秋経の暦が一国の暦には到底収まらないという事実を明らかにし、経学的通説の成立が不可能なことを提示している。かねて発表者は、春秋経は左氏経が原型に近く、左氏経は「原左氏伝」(今本左伝に相当部分が伝文として残存)に拠り抽出・編作の手法を基本として成立したとの仮説を提起してきた。
この仮説においては、春秋経(左氏経)の全ての経文は次の四種のカテゴリーに分類しうる。即ち、①抽出文(原左氏伝文からの抽出によると見られる経文)、②抽出的編作文(原左氏伝文の内容を要約しその字句を採りつつ独自の筆法で編作したと見られる経文、経の事実に関する情報は全て原左氏伝中に存する)、③編作文(原左氏伝文と内容的に関連するが原左氏伝文にない情報を記載し、別の史料によるか、創作によると見られる経文)、④無伝の経文(対応する伝文のない経文)である。①と②は主として「抽出」の手法により、原左氏伝文(今本左伝に残存する文)からの復原を想定し得るものであり、③と④は主として「編作」の手法により他史料(諸侯の策の一つとしての「魯の春秋」や魯の宮廷記録など)の援用を想定する必要のあるものである。今回、春秋左氏経文の全一九五三条をこれにより分類すると、①は四八四条(25%)、②は三五九条(18%)、③は五○九条(26%)、④は六○一条(31%)、という結果が得られた。これは、左氏経文の作経メカニズムについて、右の仮説により合理的説明を与え得ることを示す。
本発表では、右の分類の分析をふまえ、春秋経(左氏経)の作経メカニズムとその成立の構図についての卑見を報告したい。(本発表は本年度科研「基盤研究(C)」の研究活動の一環である。)
西周時代に東西交流があったことは林俊雄氏など、多くの学者が語るところである。広範囲に伝播しているエジプトの神、ベスもまた中国に到来し、変化発展していったのではないかと思われる。ベスは新王国時代(前16世紀~前11世紀ごろ)に流行した神である。ベスは、目を見張り舌を吐き、蹲踞し、大きなお腹を出し、ライオンまたは豹の皮を被っていることが多い。悪霊を追いはらう魔除けの役割をもち、そのことから、中央アジアにまで広がっていたと考えられ、貿易の中心地点であったスーサ(アケメネス朝ペルシア、イラン)でも発見されている。ベスは、ギリシアではゴルゴンとなり、アッシリアではパズズとなったとされている。ゴルゴンは騎馬遊牧民であるトラキアのひざ当てに描かれている。ベスは子供や妊婦の守り神としても活躍した。エジプトでは鏡の柄に描かれたり、アミュレットとしても使用されていた。
このようにお守りのように使用され、類型的なものであるほど広がりをみせる。
中国では西周の青銅器の文様に人が虎をかぶっているものがある。林已奈夫氏は人が虎に食われているところとしている。けれども人は虎の口から顔をのぞかせており、むしろ、頭がついた虎の皮をかぶっているのであろう。これは、豹の皮をかぶるベスと似ている。後漢の画像石には、蹲踞し、豹の皮をかぶる神の図像があり、玉にも豹の皮をかぶり、牙をむく神の像がある。青銅器にも画像石にもベスの痕跡が見られるが、中国では、ベスは力士になり、さらには西王母になったのではないだろうか。図像の伝播は、波状に何度も広がりをみせているのだろう。
後漢の張衡(七八~一三九)は、太史令の職につき、渾天説を唱えた天文学者として、中国古代の天文学を検討する上で重要な人物である。その著書『霊憲』も、古くから渾天説に関する重要な文献と看做されてきた。しかし、『霊憲』の内容は難解な箇所が多く、その思想的特徴について、宇宙生成論の観点から研究されることはあるものの、天文学的内容に関してはあまり研究されていないのが現状である。また、『霊憲』は佚書であり、類書などに佚文が残されているものの、それらを収集・整理した厳密な校定はなされていない。
『霊憲』には「魄」、「闇虚」といった天文に関する語があり、それぞれが地球照や月食に関わると考えられる。また、「姮娥」、「蟾蜍」、その他三足烏といった日月に関わるエピソードや、「朱雀」、「白虎」などの四神に関する記述も存在する。テキスト校定を進めていく中で、『霊憲』がこれら天文現象を説明する内容とともに、易や尚水思想に関わる内容を有することが明らかになってきた。たとえば星の数に関して、微星の数は一万一千五百二十あると述べられるが、これは易の万物の総数と対応する。また「至大なる」天と「至厚なる」地についての記述の後に、「至多なる」水の記述があり、水の精(エッセンス)が漢(天の川)となったという記述も見られる。これらの内容は、渾天説の思想的基盤を検討する重要な資料となるだろう。
そこで本発表では、『霊憲』の記述を中心に、張衡の科学思想を明らかにし、渾天説の宇宙観との関わりを検討する。これまで渾天説については、宇宙構造をどのように捉え説明しているかという観点から述べられてきた。その形成過程についても、天文観測器である渾天儀の発展に関係するといわれるものの、理論の具体的背景は明らかではない。『霊憲』の記述を検討することで、渾天説の実像、ひいては古代中国の宇宙観を究明する手掛かりとしたい。
二十四孝は舜を始めとする二十四人の孝子説話をまとめたもので、中国で成立して以来、朝鮮半島、日本にも広く流布した。だが、その成立については未だ不明な点が多い。
かつて道端良秀氏は、「二十四孝と仏教―二十四孝押座文について」において、現存「二十四孝」という名称の初見である敦煌文書「故圓鍳大師二十四孝押座文」に着目し、それが仏教徒によって作成されたことから、その本講である二十四孝変文ともいうべきものも、仏教徒の手によって作られたのではないかと推測され、それが通説となっている。
しかし、拙稿「孝思想の観点からみる「故圓鍳大師二十四孝押座文」」で既に指摘したように、九名ほどの孝子しか記されていない「押座文」のタイトルが「二十四孝」となっているのは、二十四孝が流布した後に付け加えられたものと考えられる。よって、改めて二十四孝の成立を検討する必要がある。
本発表では敦煌文書の中、丁蘭・王裒・王武子妻・閃子の四人を記す伯三六八〇に注目する。これらの四人は、出土した宋・遼・金の二十四孝図の孝子名と一致し、二十四孝の一部であると考えられる。親の墓を守る王裒は、唐の房玄齢らが編纂した『晋書』巻八八「孝友」に記載されて以降、孝子として位置づけられ、その不仕が評価された。二十四孝の中では、同様に『晋書』「孝友」にその伝がのせられるのは劉殷であり、その「幾諫」が評価される。彼らが『晋書』に記される理由は、唐太宗と皇帝の座を争った隠太子が殺された後、太宗に諫議大夫として仕えるようになった魏徴への批判と関連があると思われる。孝子説話の成立には初唐の政治状況が影響しているようである。『晋書』を一つの源流とする二十四孝の成立にも、唐代の社会状況が関係しているのではないかと考えられる。
1―6 中国近世以降における『開元占經』の流傳と受容について
唐代天文暦学及び占卜術を集大成した瞿曇悉達等奉勅撰『開元占經』は、北宋には既にほぼ散佚していたとされ、現存する百二十巻本は明の萬暦年間に偶然古仏の胎中より発見されて民間に流布したとされる。近年、本書は簡牘などの出土文献中に見られる日書や敦煌文献中の占卜書・具注暦などとの比較資料として注目が高まっている。しかし、その一方で『開元占經』は日本・中国・台湾に二十種類以上も抄本が伝存するにも関わらず、書誌的研究が不十分であったため、テキスト的性格や問題点も十分に理解されていない。
この状況を踏まえ、報告者は近年各国機関を巡り、実地調査を行い、各抄本の系統や特徴の整理を進めてきた。その結果、現存する諸本は巻九一から九七の内容の違いから凡そ三系統に分けられ、現在の通行本(四庫全書本、明大徳堂抄本、清恒徳堂刊本など)はいずれもその中の一系統、すなわち萬暦に発見された抄本の系統に属することが明らかとなった。その一方で、調査の過程で明成化年間の御製序を持つ抄本(復旦大所蔵)も発見された。陳鱣の旧蔵になるこの抄本は、通行本とは別系統、つまり黄丕烈が『圖絵寶鑑』の題識中で触れている「明成化年間閣本」系統の『開元占經』抄本と思われる。本系統のテキストは長らく実在が確認されてこなかったが、今回の発見により、萬暦以前の伝存状況が裏付けられたと言える。内容については、やはり巻九一から九七が他系統と異なり、そこに新出の佚文資料が多く含まれることが注目される。加えて、清代ではこの系統本が御製序の紀年を削ることで出自を隠して流布していたらしく、無紀年の御製序を持つ同系統本がいくつか見つかっている。そこから明代以前と清代における『開元占經』の受容のあり方の変化も窺える。こうした諸点を踏まえ、本発表では近世以降の『開元占經』の流傳と受容について、考え得る状況を整理し、私見を提示してみたい。
本報告では、幕末の儒者佐藤一斎の修養論について静坐説を中心に論ずる。まず具体的な技法としての静坐に注目し、江戸時代に行われた養生法と接続する。そしてそこから明治大正期にかけて流行した静坐法を再考してみる。
東洋思想の体験実践の核として静坐の実践を主張されたのは、故・岡田武彦九州大学名誉教授である。朱熹の「半日静坐。半日読書。」の言葉通りに、静坐によるある種の境地体験を基礎として、ある思想が構築されているとしたらどうだろう。朱子学にしろ陽明学にしろ、その全体像を了解するためには、そもそもが言語化しがたい経験を織り込んだ議論をする必要がある。そこでは語りえないことを語る困難に向きあわなくてはならないだろう。岡田氏は、大学で行われる哲学史の講義にない、哲学それ自体の実践の可能性を静坐に見出していた。
しかし、大学を離れてみれば、静坐それ自体は現代においても健康法として実践されている。つまり現代の儒教研究から静坐の実践が排除されているだけだともいえる。この「読書」と「静坐」の決定的な分離は、その淵源をたどると、理論的には、大学制度の中で近代学術としての中国哲学史が立ち上げられた時代に遡ることができるだろう。儒学の修養論のうち、理論を語る部分は倫理学として哲学史の対象となったが、実践的な要素は近代的な体育や修身の分野へと分離された。そして、静坐法こそ近代的な健康法に抗するかたちで立ち上げられた伝統的な養生法を代表するものであった。
中国哲学史という叙述からいったん離れて、過去の儒学の文化からその総体がどのように継承されていったかに視点を移せば、明治大正期に始まり現代までつづく伝統的な健康法の伝承を、中国思想史の一水脈として捉え直すことはできないだろうか。佐藤一斎の静坐説の検討を通じて、その可能性を探究してみたい。
1―8 朱熹における「天」の意義――「主宰」する天と「天地の心」をめぐって――
かつて溝口雄三氏は、朱熹のいう「天」が理法化されているとし、それまで意思をもつとされてきた伝統的な「天」観念を一変させたと論じた。確かに、朱子学において天が理と観念されたことからすれば、そのような理解には一定の説得力がある。
しかし、朱熹の言説をよく検討すると、事情はもっと複雑なことがわかる。朱熹は「主宰」する天にしばしば言及しているからである。この点をとらえて考察を行なったのが大河内孝史氏であって、その見解は示唆に富むものである。しかしながら、朱熹のいう「天」観念の広がりについてはなお十分にとらえきれていないように思われる。
朱熹のいう「天」がきわめて多義的であることは山井湧氏によっても指摘されているとおりであるが、「天」が朱子学において重要なキー・ワードの一つであったことを考えれば、より仔細に検討する必要があると思われるのである。
たとえば、朱熹は「天」が万物を生み出してやまない「生々」のはたらきをもつといっているが、そのような能動的なはたらきをもつ「天」は抽象的な理法としての「理」ではありえない。
さらに、大河内氏は「主宰」と「天地の心」のつながりを提示した。人格神としての「天」の捉え方を否定すれば、「天地の心」も難解な問題になり、かつ「無心」と「有心」というアポリアが生じる。つまり、朱熹の思索の重層性と曖昧性には検討する余地があり、また、『朱子語類』等に記述される言説と朱熹本人の意図の乖離の可能性も考えられる。
本発表では、これまでの先行研究をふまえつつ、主に二つの論点をめぐって朱熹における「天」の意義につき再検討してみたい。
一、天の「主宰」について
二、「天地の心」について
また、この検討を通じて、朱子学の理論の特徴についても指摘を行ないたいと考える。
朱熹の哲学において、心という概念が、その思索の中核に位置することは異論を俟たないであろう。ところで、朱熹の言う心は、従来多くの見解において、日本語の「気持ち」や「思い」に置き換えられて理解されてきたように思われる。しかしながら、朱熹の言う心はそのような意味をも有しつつも、その内実は到底それらの代換え表現にはなりえないものだったのではないか?
朱熹は心という語を、人間にのみならず、全く同様に天地に対しても使っていたことはよく知られている。朱熹にとって天地の心とは、元享利貞から成る、天地に内在する自発的・自律的な営みの原理を指していた。だとするならば、朱熹の言う心とは、存在するものをそのものとして成らしむる、自らに備わる原理的核心・根源といった方がその真意に近いのではないか。朱熹は、また心そのものを説明するにあたって、心とは主宰(何らかの刺激を受けた際、それに対して喜んだり、怒ったり、心配したり、怖れたりなどして反応)することであり、主宰とは理であると言っている。とするならば、心とは、この身にあって、何らかの刺激を受けたとき気が働くのに際し、気の働きが本来的に具備するリズムに由来する、我々自身に備わっている我々を適切ならしめ生かしむる理が、個体全体レベルの反応となって、主宰の実行となっている、我々にとって核心・根源としての位置をもつものを言っているということになるであろう。ここにおいて、心という概念が性と情を合わせて言っているとされるならば、心とは、決してこの個体のどこかの空間的部分や機能を指すのではなく、むしろ個体全体を総称的に指して言った表現であることになろう。
本発表は以上の見解の下、さらに心の「主」などといったキータームに潜む内意を分析することを通じて、朱熹の捉えていた心の真意にいっそう迫ってゆきたい。
鄧豁渠(明弘治十一年、一四九八年~隆慶三年、一五六九年、いずれも推算)、名は鶴、号は太湖、豁渠は出家後の僧号である。中国四川省成都府内江県(いまの四川省内江市)出身の和尚。著書は『南詢録』。日本内閣文庫蔵明版『南詢録』は、天下の孤本と言われている。簡体字版『南詢録校注』が筆者によって二〇〇八年上梓された。
鄧豁渠は出家和尚であったが、陽明学を学んだことがあるので、『明儒学案・泰州学案』にも名が連ねる。その思想傾向について、古からいくつかの説がある。
「刻『南詢録』跋語」を書いた何継高は、鄧豁渠の思想に仏教、道教と儒教との「三教合一」傾向があるとした。それを受け継いだ形で、荒木見悟氏は「性命双修」と集約した。それに対して、黄宗羲は『宋明学案』(巻三十二)において、鄧豁渠の思想が「命」(あるいは「身」)と「性」、「先天」と「後天」、「言」(ことば)と「行」(行動)、「第一義」と「第二義」、世界の外(出世)と世界の内(入世)と分裂している、と酷評した。
発表者は、上記の「合一か、分裂か?」という対立意見が、鄧豁渠の一時期の思想傾向だけを捉えたものに過ぎないと考える。鄧豁渠の思想傾向を正確に把握するのには、まず、鄧豁渠の思想を分期し、その上で各時期における鄧豁渠の思想を分析しなければならないと考える。
今回の発表は、上記の考えに基づき、42歳の時、陽明後学とされる趙大洲に礼師し、「良知の学」を学び始めてからの、鄧豁渠の波瀾万丈の後半生をその思想の軌跡に沿って三期に分けて、各時期の思想傾向を探るものである。
宋元儒学思想史の大著『宋元学案』には凡そ九一の学案がある。その中で黄宗羲・黄百家父子らが編纂した「黄氏原本」から出た五九の学案には、特に「北宋五子」の学術思想に対する論述や評価に力が注がれて多くの案語が残されているが、従来それに関する本格的な研究はなされていない。本発表は巻一三・一四「明道学案」(程顥)と巻一五・一六「伊川学案」(程頤)を中心として、二程子(程顥・程頤)に関する哲学思想上の論点及びそれに対する評価をめぐって検討を行いたい。
二つの学案における思想資料の編纂(選択と排列)のうち、特に二程子の「語録」(三八八条)の編纂は、『河南程氏遺書』、『河南程氏外書』所収の語録に基いて、両者の区別がなされている。これは二程子に対する個別・比較研究の前提となるもので、今日においても参考に価するものといえる。更に、資料の内容から見れば、二程子の理気論・道器観・心性論・工夫論・道徳論・人生観・鬼神論・異端論などの主な思想観点がほぼ揃っており、二程子の思想及びその差異に対する編纂者の考え方がよく示されている。
程顥と程頤は宋代道学の創立者として共に理学体系に属するが、二人の思想傾向や人格気風などの違いにより、一般的に陸王心学と程朱理学の分化展開の始源とされる。そして、編纂者である黄氏父子・顧諟・楊開沅らはその案語(七八条)において、二程子と後の朱熹・陸九淵・王守仁・劉宗周らとの思想的関連を論述する一方で、その理気、心性合一の立場から程頤及び朱子の理気・心性・道器・仁愛・居敬窮理の二元論を批判し、程顥の天人・誠敬存養・道器・動静・内外合一の一元論を肯定している。本発表では『宋元学案』における二程子評価を検討することによって、蕺山学派から派生してきた清代浙東学派の代表者である黄氏父子らの思想の特色についても考察を行ってみたい。
加地伸行(『中国哲学を学ぶ人のために』所収「毛沢東」)は中国人の伝統的思惟を「名実一致」としている。このように規定することには若干の疑問もあるが、一つの観点としてはもう少し取り上げられてもよいと考える。名実一致は、別の言い方をすれば「正名」の論理である。加地の『中国論理学史研究』や『中国人の論理学』は中国思想史全般に亙る視野を持つが、掘り起こすべき問題はまだまだあるように思われる。もとより発表者にはその多くを掘り起こす能力はない。しかし、この観点を頭の片隅に置くことにより、古典の読み方において、これまでとは違った読み、見方が可能になるのではなかろうか。
正名には様々な側面があるが、発表者の関心は「命名する(規定する・呼びなす)」という視点にある。この視点からすると『大学』格物致知の格物は「物事を規定する」と解釈できる。また『荘子』秋水篇の「魚の楽しみを知る」章は、荘子が従容としている魚を見て「是れ魚の楽しみなり ― 魚の楽しみと呼びなす(命名する)よ ― 」と言った発言を巡る名実論争として読みたい。荘子の最後の「既に已に吾れの之れを知ることを知りて」との発言は「私が『魚の楽しみなり』と呼びなした意味を理解して」と解するなら極めて明解になり、この章は一層、機知に富んだものとなるように思われる。
「命名する」とは「形のぼんやりとしたものに(明確な)形を与える」ということである。『荘子』外物篇筌蹄章の「言は意を在る所以なり」は、言葉により物事に形を与えることで意すなわち心のはたらきを助けるということであろう。最後に「形を与える」という思惟構造が朱子においてどのように現れているか見たい。
今回の発表では、これらの読みを問いながら、正名の観点の持つ可能性を問いたい。
文学語学Ⅰ部会
2―1 許地山(落華生)自選作品集『解放者』(一九三三)について――「解放者」を中心として――
清末民国期を生きた作家・許地山(一八九四~一九四一)は、明代に広東北部から台南に移住した一家の末裔として生まれた。幼時に祖先の出身地に戻り、広東を転々として成長したが、辛亥革命後は福建南部に移り住み、福建系華僑学校教員として英領ビルマに渡航している。帰国後、基督教に入信、北京燕京大学に進学した。大学卒業後、アメリカ・イギリス留学およびインド短期滞在を経て帰国、母校・燕京大学の教員となった。後に香港大学に移り、中文学院主任教授として学院発展の基礎を築いたが、在職中に惜しくも病逝した。
筆名・落華生で知られる許地山は、燕京大学での教学期間中に、自選作品集『解放者』(一九三三年四月北京星雲堂書店)を出版している。落華生自序と中短篇作品8篇および戯劇1篇を収めた総二一八頁の単行本である。収録作品の配列は、選集冒頭に「在費総理底客庁裏」(一九二八)を置き、第五作に「帰途」(一九三一)、第六作に「解放者」(初出未詳)を配し、辛亥革命を記念する戯劇「狐仙」(一九二六)を末尾に付記している。「辛亥」前後に関わる作品群である。
彼が留学から帰国した当時の北京は軍閥政府の支配下にあり、燕京大学教学期間(一九二七~一九三五)は、軍閥割拠と国民革命軍による北伐の実施、そして国共対立・内戦が進行し、戦乱に迫られ多くの難民が各地に避難・離散した時期にあたる。自選集には、「辛亥後」の果実を味わう者、下層離農難民の苦難、「辛亥」の犠牲者や「辛亥後」の変化・対立などが描出され、末尾の「辛亥」記念・追想という一連の構成には、許地山自身の「辛亥」時期の境遇と北京での「辛亥後」の体験が投影されているようである。
今回の発表では、特に単行本の表題とされた「解放者」に焦点をあて、作品の内容・時代の推移・人物設定などを手がかりとして、許地山の作品執筆意図を考察してみたい。
本発表は、映画揺籃期の中国における中国人の映画受容の経過について考察を行うものである。
中国における最初の映画上映は、定説では一八九六年八月十一日、上海の徐園においてとされる。だが、発表者の研究及びフランク・ブラン、ロウ・カー『Hong Kong Cinema : A Cross- Cultural View 』(二〇〇四年)によると、一八九七年五月二二日、上海のアスター・ハウス・ホテル(現: 浦江飯店)において欧米人に向けて上映された可能性が高い。(山本律「中国における映画受容―その揺籃期について―」『演劇映像学 二〇〇九』早稲田大学演劇博物館グローバルCOE、二〇一〇年三月)。
その後、一八九七年七月二六日より上海の天華茶園において中国人に向けて長期的に映画上映が行われた。この映画上映を行ったのはアメリカ人のジョンソンという人物である。一八九七年五月二二日中国で初めて行われた映画上映が、主に中国に暮らす欧米人に向けて行われたことを考慮すると、ジョンソンによる中国人に向けた長期的な映画上映は意味をもつものといえよう。
ところで、天華茶園において行われた映画上映の前に、重要な映画上映が天津において行われている。これまでの定説では、北京における最初の映画上映は一九〇三年天楽茶園においてとされており、天津はそれよりも遅いと考えられていた。しかし、発表者の研究及びフランク・ブラン、ロウ・カーによると、一八九七年六月二五日にクックによって天津における最初の映画上映、一八九七年六月二六日にジョンソン、シャルベによって映画上映が行われている。それら映画上映は、主に天津に暮らす欧米人に向けて行われた。クックとジョンソン、シャルベによる映画上映はほぼ同じ時に行われたが、この二つの映画上映に対する評価は大きく分かれた。発表者は、その時の評価がその後の中国における映画上映と受容に大きな影響を与えたと考える。本発表ではその点についてみていく。
2―3 九州大学附属図書館濱文庫について――その特色と整理の現状――
濱文庫は中国演劇研究者・濱一衛(一九〇九~一九八四)が一九三四~三六年の北平留学中に収集した資料を核としたコレクションで、民国時代の北京を中心とした中国演劇資料としては国内有数のものである。本発表では、このたびの学会にあわせて九州大学附属図書館で開催される濱文庫展示会の紹介を兼ねて、濱文庫の特色と整理の現状について、風陵文庫(澤田瑞穂旧蔵、早稲田大学図書館)、雙紅堂文庫(長澤規矩也旧蔵、東京大学東洋文化研究所)などとの比較も交えながら述べてみたい。なお、今回の展示は、二〇〇九年五月に開催された九州大学開学記念行事・第五〇回附属図書館貴重文物展示「濱一衛と京劇展:濱文庫の中国演劇コレクション」で紹介した約八〇点の資料を、附属図書館のご厚意により再展示するものである。
・落石清『濱文庫(中国戯劇関係資料)目録』(九州大学附属図書館教養部分館、一九八七;一九八八)
・徳元美智子『濱文庫二〇〇八年度追加分目録』([電子ファイル版]九州大学附属図書館、二〇〇八)
・松浦恒雄『濱文庫所蔵戯単劇目俳優データベース』(大阪市立大学大学院文学研究科重点研究・個別研究プロジェクト「二〇世紀中国演劇史における戯単・特刊の基礎的研究」、二〇〇八)
・中里見敬「濱文庫所蔵戯単編年目録」(『中国文学論集』三七、二〇〇八)
・中里見敬、中尾友香梨『濱一衛と京劇展:濱文庫の中国演劇コレクション』(九州大学附属図書館、二〇〇九)
・中里見敬、山根泰志、戚世雋編「濱文庫所蔵唱本目録稿(一)~(三)」(『言語科学』四五、二〇一〇;『言語科学』
四六、二〇一一;『九州大学附属図書館研究開発室年報』二〇一〇/二〇一一)
・濱一衛著訳、中里見敬整理『中国の戯劇・京劇選』(花書院、二〇一一)
・九州大学百年の宝物刊行委員会編『九州大学百年の宝物』(丸善プラネット、二〇一一)
2―4 夏丏尊における近代小品文の創出と日本――『文章作法』と水野葉舟『小品文練習法』との異同から――
従来、中国新文学において飛躍的発展を遂げたとされる散文のなかでも、小品文の提唱者を「周作人等」と胡適が高く評して以降(「五十年来中国之文学」、一九二三)、その詳細は殆ど検討されることなくこの評価が受け継がれてきた。一九三〇年代半ばにブームを迎える小品文の形成は、確かに周作人による「美文」提唱(一九二一)と、二〇年代半ばの明末文学への再評価が影響しているが、二〇年代初頭における小品文形成の実態は如何なるものであったのか、明らかにされていない。
近代中国における小品文の創出は、二〇年代初頭、五四新文化運動のもと、中国における出版メディア発達の趨勢を受け、外国文学が受容されてゆく時期と重なる。管見の限り、最も早い小品文の定義は、浙江省上虞にある春暉中学の国文教員であった夏丏尊(一八八六~一九四六)が、一九一九年から二二年に書いた講義録に見られる。これは、のちの一九二六年に劉薫宇(一八九六~一九六七)との共同編集で上海開明書店から出版した『文章作法』の第六章に、「小品文」と題して収められた。そこには、日本留学(一九〇五~一九〇七)を体験した夏丏尊における日本小品文受容の色濃い影響が窺えるのだが、従来こうした事実は全く知られていない。
このような観点から、夏丏尊の小品文をめぐって、夏丏尊の日本体験や明治末期の文章学受容との関係性について検討する。本報告では、夏丏尊、劉薫宇編『文章作法』の第六章「小品文」に焦点を当て、同章が水野葉舟『小品文練習法』(一九一五、新潮社)に模して書かれた事実について、両者の異同を提示して明らかにしたい。あわせて、夏丏尊が意図的に排除、書き入れた箇所を洗い出し、その独自性を指摘したい。これにより二〇年代初頭における小品文の文学史的位置付けを試みる。
2―5 東亜同文書院の中国語教育――『華語萃編』初集を中心として――
本発表は、戦前日本の中国語教育の主要機関の一つである東亜同文書院の中国語教育について、同校の中国語教科書『華語萃編』と併用された教材を検討することによって考察するものである。
東亜同文書院は中国関係の実務家養成を目的としていたことから中国語教育が重視されており、学内で『華語萃編』が編まれ使用された。同書は学年毎に初集から四集まで順次編まれたが、本発表では語学教育において重要な初学者用で、また最も早く刊行されて40年余り使われた初集を主にとりあげる。
これまで、東亜同文書院では先ず御幡雅文『華語跬歩』が使われ、これに学んだ卒業生が教員となり初めて独自の教科書『華語萃編』初集を編んだとされていた。しかし、その合間には教員高橋正二の『北京官話声音譜』、東亜同文書院編『北京官話教科書』が出ており、初集はこれらに続くオリジナル教材であった。
『華語萃編』初集は、それ以前に用いられた『華語跬歩』同様、主に常用語句と実用的な会話文を収めた例文集であり、発音や文法についての解説はない。実用に主眼を置き、ひたすら例文を暗記する手習い的な学習がなされたのである。同書は6回改変されているが、第4回までは語句の修正や社会の変化を内容へ反映させるものであり教材自体の性格に変化はない。しかし、熊野正平『支那語法講義大綱』、『支那語の構造の公式』、鈴木択郎『支那語学概論』など東亜同文書院出身教員の研究成果を踏まえた教材が出たり、同校独自の中国語ローマ字綴りが考案されたりするなど教学経験が蓄積され、より語学的な学習が目指されるようになる中、第5回改訂では魯迅「馬上日記」、梁啓超「最苦与最楽」といった現代文が収められ、会話例文集から総合的内容をもつものへと変化した。
教材面からみるに、東亜同文書院の中国語教育は実用重視から語学的に中国語を捉え教授していこうとするものへと変遷していたことが確認できるのである。
2―6 奪権なき「革命」―― 魯迅一九二七年言説の再考と「同伴者作家」をめぐって――
文学者魯迅の生涯と思想は、通常一九二六年―二七年の南下を分水嶺として、前期と後期に分けられる。後期魯迅の思想形成、文学活動を考察する際の課題の一つに、革命を目指して歩みながら最終的に革命と一体化しえない者と見なされた「同伴者作家」と魯迅の関係分析がある。魯迅の語る「同伴者作家」の来源がトロツキーの『文学と革命』(日本語版、茂森唯士訳 改造社 一九二五年)に由来するため、この課題は、従来、魯迅におけるマルクス主義思想の受容、特にトロツキーの文芸思想の影響をめぐる問題と不可分のものと見なされてきた。そのため、先行研究では、マルクス主義、トロツキーの思想に対する歴史的評価の変遷、日本、中国における研究土壌が、課題の所在と分析に少なからぬ影響、制約を生じてきた経緯も明らかにされている。本報告では、こうした研究課題のもつ特徴、並びに、魯迅が「同伴者作家」に共鳴しつつ、それを越えて、新たな地平へ踏み出したとする先行研究における解釈を踏まえつつ、「同伴者作家」に対する魯迅の共感、両者の異相とはなにかについて再考し、それにより後期魯迅の思想的核心となる革命と権力、文学者の役割、反権力の闘いと生存について考察を加えていく所存である。具体的には、一九二六年八月に始まる魯迅の南下(北京→厦門→広州→上海)における精神の軌跡、そこにおいて獲得、確立された魯迅の「性の復権」と「生の定立」、革命・政治・文芸をめぐる二七年言説の再考を主たる対象として検討を進める。特に、「生を偸む者」(「劉和君を記念して」一九二六年四月)としての自己を見つめた魯迅が、殺戮が繰り返される政治テロの世界で、文学者としての在り方を見つめ、「殺されること」を拒む者(「知識階級について」一九二七年十月)としての存在を切り開き、生命を損なうあらゆる支配に対する闘い――奪権なき「革命」の道、反権力の闘いを生み出す思想的営みを提示していきたい。
曹乃謙は日本の研究者にはあまり知られていない作家である。中国でも知名度の高い作家であるとは言えない。しかし、著名作家、とりわけ著名な作家、たとえば莫言、王蒙、王安億などは彼の名前に敏感に反応するようである。昨年会った莫言がそうだった。
曹乃謙は一九八八年に「到黒夜我想你没辦法」と題する五篇の連作掌篇を発表、汪曾祺の高い評価を受けた。この五組の微型小説の一篇一篇はどれも生活の断片を描いたにすぎないように見えるが、描かれた生活の特異さと素朴で簡潔な叙述は読む者に衝撃と深い印象を与える。山西の雁北地方の貧しい山村に生きる男女が牢箇とした価値観に縛られて(自らそれをよしとして)生きる姿が淡々と描かれている。方言を多用する文体は外国人にはわかりやすいとは言えないが、独特の味わいをもっている。その後、曹乃謙の作品は『小小説選刊』など微型小説関係の雑誌に散見されたが、やがて目にする機会がなくなった。
二〇〇五年十月曹乃謙『到黒夜想你没辦法』が「温家窯風景」という副題をつけて台湾の天下文化書房から出版された。この本にはスウェーデン王立アカデミー会員でノーベル文学賞の選考委員であるゴラン・マルムクヴィストによる、作者曹乃謙を天才とする高い評価と彼がその作品三十篇をスエ―デン語に翻訳したいきさつを記した解説が付されている。同書は二〇〇七年に中国でも出版されて専門家の高い評価を受けた。
作品は食欲と性欲という人間のもっとも根源的で原初的な欲望に従って生きる人々の姿とその価値観をしばしば方言と反復表現を交える独特の叙法で簡潔に描き出している。同書及び他の短篇集、中篇集をもとに曹乃謙の作品世界の特異性と文学としての可能性を明らかにできれば、と考えている。
鄒韜奮(一八九五~一九四四)は、近代中国のジャーナリスト、生活書店の創設者、救国会の活動家として知られる。一方、彼は早い時期から、翻訳活動を開始し、数多くの翻訳作品を出版した。鄒韜奮の翻訳活動は、幅広いジャンルにわたる。代表的な翻訳作品として、『民主主義与教育』(一九二八)、『革命文豪高爾基』(一九三三)、『从美国看到世界』(一九三九)、『蘇聯的民主』(一九三九)、『社会科学与実際社会』(一九四一)などが挙げられる。本発表では、まず鄒韜奮の翻訳活動を、一九二〇年代から一九四〇年代までの年代順に考察し、その全体像を把握する。次に、彼が翻訳したものを新聞や雑誌に連載する際に書かれた大量の「訳者按語」や「訳余閑談」に基づき、彼の翻訳観について分析する。とりわけ、翻訳手法や外国語人名地名の扱いなどについて検討する。最後に、鄒韜奮が経営する生活書店における訳書の出版状況について考察し、生活書店が当時の中国翻訳界においてどのような役割を果たしたのかを検討する。
2―9 中国南方における近代文学の萌芽とその発展――文学研究会「広州分会」の活動を中心に――
一九二〇年代、北京で発足した文学研究会は、組織拡大の方針により、後に上海、広州にも分会を設置し、急速に全国に広がって中国近代文学の形成に寄与した。従来、文学研究会に関する研究は、文化の中心たる北京の本部と上海の分会だけに注目する傾向がある。広州分会に関しては、結社及び機関誌『文学』の創刊に関する記事が『小説月報』十四巻八号(一九二三年八月)に掲載されたことによって、事実として明らかである一方、『文学』が今まで実際に確認されていないため、広州分会とその機関誌を舞台として行われた様々な文学活動は、中国近代文学史と先行研究の上に詳しく記述されることはなかった。
発表者は、先にこの機関誌『文学』の実物を発見し、調査を行った。文学研究会「広州分会」の会員は、主に当時の嶺南大学の学生であり、文学に対する熱い思いと広州文壇を発展させようとする理想を機関誌『文学』に託した。そこには、文芸理論、新詩、翻訳、話劇など様々なジャンルの作品が掲載されており、広州ひいては中国の近代文学研究にとって価値が非常に高いと考えられる。実は、彼らは文学研究会「広州分会」を結成し、『文学』の同人誌を創刊する前に、大学の一文学サークルとしてすでに文筆活動を始めており、嶺南大学の学内新聞『嶺南青年』(一九一七年創刊、一九二一年に『南大青年』と改名)と雑誌『南風』(一九二〇年創刊)に新文学の創作や外国詩歌の紹介などを発表していた。
本発表では、機関誌『文学』に加えて嶺南大学の刊行物『嶺南青年』、『南風』を手掛かりとして、「広州分会」の創作実績の整理からはじめ、南中国における最初の新文学団体である文学研究会「広州分会」の輪郭を追跡する。また、具体的な作品の紹介と分析を行うことによって、文学研究会「広州分会」の文学創作の諸相及び近代文学史的な意義を明らかにする。
2―10 変奏される記憶――張愛玲の自伝的小説をめぐって――
太平洋戦争勃発後、留学先の香港から上海に戻った張愛玲(一九二〇~一九九五)は、密度濃い創作活動で一世を風靡し、「彼女の時代」を作り上げた。従来、一九五二年に香港を経由して渡米した後、張愛玲の創作は翻訳と古典研究、そして旧作の書き直しに費やされてきたと言われてきたが、二一世紀になって生前未出版だった「遺稿」が次々に発掘・出版されたことで、渡米後の張愛玲に関する研究は大きな修正を迫られている。
本報告は、中国を去った後の張愛玲が、フィクションの中でどのように自分の過去を組み立てたのかを検討しようとするものである。英文で書かれたThe Fall of the Pagoda(雷峰塔)、The Book of Change(易経)(どちらも一九六三年までに完成、刊行二〇一〇年)は、作者自身をモデルとした少女Luteがそれぞれ上海の父の家を出奔するまでと、留学先の香港が日本軍に占領された後上海に戻るまでを描いており、言わば作家・張愛玲の前史をなすものだ。『小団円』(一九七六年完成、刊行二〇〇九年)は日本軍の爆撃によって香港での勉学を放棄せざるを得なくなった主人公盛九莉が上海に戻って作家として成功するものの、人民共和国建国によって今まで獲得したもの全ての意味が変質してしまう過程を描く。これらのようなはっきり自伝風小説と見なせる作品以外に、やはり渡米後に長い時間をかけて執筆された『浮花浪蕊』(一九八三年出版)や、『浮花浪蕊』とほぼ同時期に書かれたと思われる『同学少年都不賤』(刊行二〇〇四年)にも自伝的要素が色濃くみられることについてはつとに指摘のある通りである。
本報告は、繰り返し書かれた自伝的フィクションを検討対象として、まずは張愛玲が回想の物語を組み立てる上で、どのようなモチーフや描写を必要としたのかをテクストに即して検討する。その上で、張愛玲が過去の自分をどのように見つめ、どうやって造型したのかを明らかにしたい。
クヌート・ハムスン(一八五九~一九五二)は現在日本では忘れ去られているが、実は明治から大正、昭和初期までドイツ文学研究者によって盛んに翻訳・紹介され、林芙美子、平林たい子等の作家に示唆を与えた。一方、中国における最初のハムスンの紹介者は、日本留学生時代の魯迅であろう。彼はドイツ文学者片山孤村の翻訳で初めてハムスンの作品と出会い、後に上海の内山書店で宮原晃一郎の訳本を数冊入手した。魯迅研究においてはスカンジナビヤ文化と魯迅との関係が一つのキーワードとして検討されおり、ハムスンが彼に与えた影響は少なくないとされている。また、中国で本格的にハムスン文学が紹介されたのは彼の一九二〇年ノーベル文学賞の受賞をきっかけとしている。一九三〇年に、施蟄存らが発起した水沫社から章鉄民の重訳本『飢え』を出版された。その後は『パン』、『ヴィクトリヤ』の中訳本も出ており、現代派作家の施蟄存らに多大な影響を与えた。
その施蟄存が外国作品のなかで、注目した作家の一人がハムスンであり、ハムスンの『パン』を翻訳した。今日までの施蟄存研究の中では、ハムスンとの影響関係はほとんど言及されておらず、筆者は本報告で彼の処女作「廉価的麪包」の創作及び『パン』の翻訳を取り上げ、ハムスンが彼の文学にどのような新しい要素を植え付けたか、また恋愛心理をめぐっての心理的葛藤の描出などを分析したい。
日本ではハムスンが「世界左翼文化戦線」の一員として挙げられたものの、中国では左翼作家がハムスンに注目することが少なく、『飢え』を「貴族的」な要素が含まれる作品として解読したことさえあった。本報告でハムスン文学研究の衰退の原因を探りながら、日本と中国におけるハムスン文学の翻訳、受容状況を比較検討したい。
中国では、古来より人々は平地に設けられた城郭に住み、その内部を活動の場としていた。それが六朝時代になると、人々は山川自然の中に入るようになり、そこを舞台とする思想活動や文学活動が展開されるようになる。その中で、山岳を対象とする「文学」も生み出されるようになる。そしてこうした山岳の「文学」は、その撰者・作者が山岳をどのようなものと捉えていたのかという、山岳観・自然観を伺う資料となり得ると考えられる。
そこで今回の発表では、浙江省の天台山を対象とした詩歌を取り上げ、そこに描かれている天台山の姿を検討することを通して、詩人たちがこの山をどのようなものと捉えていたのかを考えることとする。さらにその時代的な変化を追うことで、山岳観の変容を考える一助としたい。なお研究の進度の関係から、今回は六朝時代から唐代の中頃までを対象の範囲とする。
発表に先立ってあらましの予測を述べておけば、六朝時代にあっては、天台山は神仙に関わる神山という評価は得てはいたが、その姿は曖昧模糊としたものに留まっていた。しかし唐代に入り、そこを拠点として活動する司馬承禎が登場するに至って、天台山は実体のある山岳として捉えられるようになる。更に盛唐の孟浩然や李白に至り、天台山に実際に足を運んでの、体験的な作品が生み出されるようになり、天台山像もより個性的・鮮明なものになっていった。以上である。
文学語学Ⅱ部会
本研究に係る筆者獨自の視點に立脚すると、①古代楚王國の「天命招來問題」と「天下統一(楚覇)問題」の文學的來源は春秋末期に成立する天問篇の「帝詞」(『訓典(天帝或古帝的教訓)』及び楚辭天問篇。後世の天鍚大範・聖問・帝訓の語も參考)であり、楚辭諸篇はここから一元的に發生し展開した政治思想色濃い作品であることが見えてきた。以下同様に、②「天命招來推進者」は歴代楚王(特に戦國中期楚懷王)であった。③「天命招來政策」は國策であった。④「天命招來歌序曲」は九歌十一篇と九章九篇であった。⑤「楚辭主人公による天命招來を行うための天界遊行曲」は離騒篇・遠遊篇・九辯篇であった。⑥「天命招來最適候補地」は十數例に及ぶ■郢(注*)、すなわち楚王王居(清華簡『楚居』及び楚辭卜居篇・哀郢篇)であり、楚辭に卜居篇や哀郢篇が含まれている必然が明らかになった。⑦周文王受命樹「梓」との比較考察結果、楚辭橘頌篇の「橘」は天上から楚懷王王居に來服降生した天命將來樹であり、上博楚簡楚辭類作品李頌篇の「李」も楚王の「天命將來樹」であることが判明した。これに據って古代楚王國の「天命招來歌本曲」は橘頌篇と李頌篇であることが判明した。⑧「天命招來歌終曲」(別名「禪讓要求歌」)は「二招」すなわち招魂篇と大招篇であった。⑨「天命招來歌群の中心作者」は屈原であった。⑩屈原一族の家系は遠祖以來伯庸の地を活動據點とし、歴史傳説上の彭祖・巫咸・彭咸等と同様、上帝の居所へ昇天參向して「天命」を聽き、上帝の意志を楚王に傳え政治に反映させることを家學としていた。つまり⑪屈原は「帝詞」を仲介し代辯する「巫祝者」であった。また⑫楚辭の「辭」、楚詞の「詞」は本來、帝辭であり、帝詞の意であった。
以上を拡大すると、⑬宋玉が高唐賦篇で山水審美を極める目的は天帝を感動させるためであり、⑭西漢の郊祀歌群は漢帝國が天命享受を謳歌する作品であること等が見えてくる。
(注*):■には、「○郢」と熟する数種の文字が入る。
3―2 李登・呂静の用いた五音について――五姓法からのアプローチ――
韻書の嚆矢とされる魏・李登撰『声類』十巻、またこれに体例を倣ったとされる晋・呂静撰『韻集』五巻は、隋・陸法言撰『切韻』五巻(601年)以降の韻書とは異なり、宮商角徴羽の五音を基準として漢字を分類していたとされる。本研究の目的は、李登らの用いた「漢字分類基準としての五音」の内容を明らかにすることにある。
この「漢字分類基準としての五音」は、特に四声との関連において中国語学史上に重要な意義を持つため、古来多くの研究がなされてきた。しかし従来用いられてきた資料はいずれも間接的な記述であり、実際に漢字を五音に分類する資料を用いていないため、その内実については充分に明らかにされているとは言い難い。
そこでこの問題のために、従来五音に関する資料としては扱われることのなかった、宋・王洙『地理新書』、敦煌出土残巻Pel.chin.2615『[黄]帝推五姓陰陽等宅経図』を用いて検討を試みる。両書はともに五行占術の一種である五姓法を用いた風水書であり、書中では数百に及ぶ姓氏が五音を媒介として五行に配当されている。本研究では、まず両書中で行われた姓氏の五音分類について音韻学の観点から分析し、さらに同時代の関連する記述とを併せ検討することで、唐宋時代の五姓法における姓氏の分類基準を明らかにする。その上で、唐宋時代の姓氏分類基準としての五音と、魏晋時代の漢字分類基準としての五音とがいかなる関係にあるのか、文献中の諸記述をもとに考察する。
なお本研究は、小川環樹1951「反切の起原と四声及び五音」に示唆を受けてなされたものである。小川1951は『論衡』「詰術篇」の記述をもとに、五行占術と初期の音韻学とが関連することをはじめて明確に指摘したものであるが、両者の関連についての具体的な立証はなされていない。本研究はこの点についてもさらなる知見を提示できるものと考えている。
本発表は、六朝志怪に見られる再生譚(蘇生譚)が、文化人類学で指摘される死における「境界性」に通じるものであり、当時の葬送儀礼「殯葬」を知る上で貴重な資料となり得ることを論じるものである。
ここに言う「境界性」とは、文化人類学者V.W.タナーが述べた通過儀礼に見られる必然的構造のことを指している。その考えによれば、葬送儀礼において、生者は死んですぐに死者になるわけではなく、死者として認められるまでにステータスが移行する時空間――「境界性」を経る必要性があると説明される。
本発表で考察対象とする再生譚は、今日までの研究において、主に小説創作の始まりという観点から論じられ、当時の人々が、なぜ再生(蘇生)が起こると考えたのかということについては、あまり関心が持たれずにきたように思われる。しかし、再生譚の中に見られる描写には、地獄巡り譚などの死後世界に関する記載だけではなく、此岸において死者がどのような状態に置かれていたのか、または死者の死に対して生者がどのような行為を行い、どのように死者に接していたのかということも描かれており、しかもその多くには一定の規則性が見られるのである。
このような記載に注目し、「境界性」という視点から改めて説話を見た場合、再生譚は、唐代以前における小説創作の始まりという点ばかりではなく、当時の死に対する考えが浮き彫りになる興味深い資料として見ることが出来ると考える。死を目の前にした生者には、その死を確かなものとして容認する過程が必要であり、あるいは死者が生き返るかもしれないと期待することもあったであろう。そのような生者の心情を背景に、「境界性」という人為的な死の過程が出現することは十分理解し得ることであり、社会的な死が葬儀などに表徴されて位置付けられるという事実は、再生譚へも影響していたと考えられる。
初唐の駱賓王の「帝京篇」は、創作後間もなく世の「絶唱」(『旧唐書』本伝)と称された彼の代表作である。この作品に関しては従来、自己の不遇を訴えて栄達を図ろうとする駱賓王の個人的意図があったとされ、また「絶唱」の理由については、駱賓王と同じく下級官僚として不遇に甘んじる人々の共感があったとの見解もある。
だが、実は当時、高宗及び則天武后は度々洛陽へ行幸を繰り返しており、首都長安は長らく皇帝不在の状態が続いていた。その一因には長安を襲った大飢饉などがあるが、首都の凋衰を余所に、洛陽では龍門奉先寺の大仏開眼(六七五年)や宮殿の増改築など、首都さながらの活況を呈していた。かかる折、「帝京篇」が発表された背景には、単に自己の文才を発揮せんとする以上に様々な事情が絡み合っているように思われるのである。
例えば、駱賓王は徐敬業の乱(六八四年)に与した文人としても知られる。この造反の背景には、専横を強める武后派に対する、太宗の旧臣の流れを汲む保守派の人々の激しい反発があった。発表者はこれまでに、彼ら旧勢力と駱賓王との関係について考察してきたが(注*)、武后による洛陽行幸は、唐朝における対立の構図と密接に関わっており、「帝京篇」の創作意図については、政治的文脈からも改めて検証する必要がある。
本発表では、駱賓王「帝京篇」創作時の時代背景を明らかにし、初唐期、とくに武后朝期の政治と文学の問題についても考察したい。
(注*)拙稿「山東地域における駱賓王の交遊―徐敬業の乱を中心に―」(『九州中国学会報』第49巻)
日本のみに現存する「長恨歌序」は、先行研究において、長らく白居易の作ではないと考えられてきた。
しかしながら、元稹の「駱口駅二首」(元和四年の作)題下に見える自注「王(質夫)は是れ何れの人なるかを知らざるなり」に着目すると、元稹が元和初年に見た「長恨歌」詩巻(元和元年の作)には、王質夫を詳しく紹介する陳鴻の「長恨歌伝」が未収録であったと考えられる。さらに、現存する旧金沢文庫本白氏文集巻十二(「伝・歌」を収録)は、その巻子本の状態を仔細に調査したところ、豊原奉重による嘉禎二年(一二三六)第二次校勘の際、宋刊本の形態に合わせての大幅な改装が行われていることが判明した。この巻は、すでに慧萼南禅院本(白居易自撰本系統)の旧貌を失っていたのである。改装時に新たに補った部分に、陳鴻の「長恨歌伝」が含まれることから、慧萼南禅院本にも、そもそも「長恨歌伝」が収録されていなかったと推察される。
そこで発表者は、現存する旧鈔本「長恨歌並序」(伝・序・歌)の再調査を行い、新たに発見された旧鈔本の二本を取り上げる。まず、永享九年(一四三七)写本である早稲田大学付属図書館蔵「長恨歌並序」は、実は源義朝の第八子卿公(きょうのきみ)円成(一一五五~一一八一)所持本からの転写である。また、従来知られていない国立歴史民俗博物館蔵尊円親王(一二九八~一三五六)筆「長恨歌」にも、別系統の「長恨歌序」が存在しており、文字校勘の結果、この本文は、まさしく卿公円成本と一致することが判明した。
今回の調査・考証によって、平安時代から明治初年までの長い間に、広く日本人に愛読されてきた「長恨歌並序」は、ほぼ間違いなく白居易の自作であると判断される。本発表が、日本に所蔵される旧鈔本の価値の高さを証する一助となることを願う。
施蟄存氏はかつて韓偓集について、「未嘗見善本」と言い切って、また、韓偓集の各版本を見比べた上で、「均有異同、竟不能定其孰為今古、誠憾事也」と慨嘆した。『香奩集』についての一番最初の著録は、『新唐書·藝文志』、晁公武『郡齋讀書志』、鄭樵『通志·藝文略』等で、「香奩集一巻」と記録される。宋版『香奩集』はもう現存しないが、瞿鏞『鐵琴銅劍樓藏書目録』巻十九にある影宋寫本『香匳集』一卷の記録によって、宋本『香奩集』の姿は少し明白になる。現存する『香奩集』の版本はおよそ一巻本と三巻本の二種類がある。一巻の『玉山樵人集』附本、汲古閣刻『五唐人詩集』本、『全五代詩』本はみな分体本ではあるが、所収の詩、また詩の排列順はそれぞれ異なる。『全唐詩』本『香奩集』は一卷であるが、この本の構成、編年体の形態、また『全唐詩』の韓偓小伝等から分析すれば、おそらくこの本の底本は三巻の編年本だと考えられる。三巻の『唐詩百名家全集』本、清王遐春麟後山房本、呉汝綸評注『韓翰林集』附本、また日本文化年間館柳湾·卷大任同校、江戸萬笈堂刊行の『韓内翰香奩集』はすべて編年本であり、版本の形態も大同小異である。しかし、『唐詩百名家全集』本と王氏麟後山房本は従来の研究者に論及されたことがない。両本とも日本に伝来したうえ、三巻本『香奩集』について、一層具体的な研究ができる。以上の四種の三巻本『香奩集』の編集者はみな底本のことに言及しないため、四本の源流関係を究明しなければならない。また『全唐詩』本を含め、すべての編年本の形態がこれほど近似するのなら、同じ祖本があったのではないかと考えられる。それに対して、一巻本の篇目と順序がそれぞれ異なるということは、後人が各自で改編したものであり、もう祖本の姿は残っていないためと推測される。
今日に伝わる歐陽脩(一〇〇七~一〇七二)の作品には、『詩本義』、『五代史記』(新五代史)、『太常因革礼』、『新唐書』、『崇文総目』等があり、これ以外の彼の詩文は全集『歐陽文忠公集』百五十三巻に収録されている。清代の歐陽衡が嘉慶二十四年(一八一九)に刊行した『歐陽文忠公全集』では、それまでの全集に含まれていなかった歐陽脩の散文七篇(唐順之『荊川稗編』に収められていた「本末論」、「時世論」、「豳問」、「魯問」、「序問」の五篇、及び「與黄謂」、「與李吉州」)を見つけ出し、あわせて収録している。
南宋時代の慶元二年(一一九六)に、周必大によって歐陽脩の全集『歐陽文忠公集』百五十三巻が編纂されて以降、明・清時代から現代に至るまで全集は何度も刊行されているが、清代に歐陽衡が新たに七篇の作品を見つけたことを除けば、全集に収録されている詩文数に大きな変化はなかった。歐陽脩は千年以上前に生まれた人物であり、もはや一般には知られていない新たな作品が出てくる余地はないと思われていた。
ところが、発表者は今日の歐陽脩の全集には全く収録されていない歐陽脩の書簡九十六篇を見つけ出すことができた。この九十六篇の発見には、南宋時代における『歐陽文忠公集』の編纂とその後の流伝状況が大きく関わっている。
そこで、本発表では、南宋における『歐陽文忠公集』の編纂の経緯とその流伝状況を考察し、どのようにして九十六篇が今日に知られないままに伝わってきたのかということを明らかにしたい。その上で、これまで全く知られていなかった歐陽脩の書簡九十六篇を紹介したい。
康熙初年に編纂された陳祚明の『采菽堂古詩選』(以下、『古詩選』)の編纂目的については、十分には明らかにされていない。陳斌氏は「陳祚明《采菽堂古詩選》編選意圖考論」(『福建師範大學學報(哲學社會科學版)』)において、編纂目的を以下の二點と考える。①擡頭する宋元派に古詩の存在を知らしめること。②漢魏盛唐のみを模範とする七子派に六朝詩の存在を示すこと。たしかに、康熙初年の文學動向に鑑みると、①で示した考え方もできよう。しかし、陳斌氏の説においては、②の考えを導く根據に問題點がある。すなわち、『古詩選』の特徴を嚴密に究明せぬまま、ただ單に六朝詩を示すことが七子派への對抗としか考えていないのである。
ではいったい『古詩選』の特徴とは何か。陳祚明の評語を分析すると、以下の三點の特徴が導き出される。すなわち、擬古の批判、情の重視、六朝詩と唐詩の繼承關係の指摘、の三點である。これらはいずれも七子派に缺如するものであり、總合的に考えると、『古詩選』が七子派批判を目的としたことが明らかであろう。
陳祚明が生きた明末淸初は、七子派末流の弊害が顯著だった時期である。七子派の文學といえば、『明史』文苑傳に「模擬剽竊」、「文必秦漢、詩必盛唐」とあるような擬古が特徴的である。これは、元來、明初の臺閣體から脱却するためのものであった。ところが、明末淸初には、その弊害ばかりが顯著となった。すなわち、『四庫提要』に「以呑剥爲工」、「空疎不學」などと指摘されるように、極めて安易な擬古に赴いたのである。
つまり、陳斌氏は對七子派の側面を指摘するが、『古詩選』の特徴が七子派批判と關連することに氣付かず、根據に乏しいのである。本發表は、康熙初年の文學動向と陳斌氏に不足する『古詩選』の特徴三點に基づき、『古詩選』の編纂目的が七子派批判であることを明らかにしたい。
アメリカの学者スーザン・マン(Susan Mann)の研究においては、安徽桐城は清代、女性文学が繁栄した地域の一つであるが、当地は他の江南地方と比べて、より保守的な女性観を有する地としても知られており、女性作品の出版は限られていた可能性があるとされている。だが、事実は異なっている。桐城女性作家の創作は周辺の男性の支持を受けたもので、作品の刊行も男性によって推進されていた。張令儀はその好例である。
張令儀(字は柔嘉、号は蠹窓主人)は清代の桐城における最も著名な女性作家で、清初の宰相張英の三女であり、後に同じく宰相となった張廷玉の姉である。現在『蠹窓詩集』『蠹窓二集』など数多くの作品が残っており、現存作品最多の桐城女性作家ともいえる。清代の主要な女性総集『擷芳集』『正始集』などに収録された作品の量も、桐城女性作家の首位にある。詩・詞・文以外にも、戯曲『乾坤圏』(佚)『夢覚関』(佚)を創作し、さらに、当時広く行われていた蒙学書『龍文鞭影』の形式に倣って『錦嚢氷鑑』を編纂している。作品のジャンルの広さからいっても、桐城のみならず、清代の女性作家全体の中でも注目すべき存在である。だが、いまだに彼女についての研究はほとんどない。
発表は、従来封建道徳に抑圧され、悲惨な生活を送っていたと思われてきた桐城女性作家の家庭生活と文学を再考しようとするものである。まず、張令儀の「読霍小玉伝」・「乾坤圏題辞」などの作品によって、彼女の結婚観や文学観を考察し、さらに、張氏一族の男性の作品を通じて、彼らの女性と女性創作に対する態度を検討しつつ、張令儀をはじめとする桐城女性作家の家庭生活と創作の実態に迫りたい。最後に、以上の検討によって、他の江南地方に対する桐城の文化的特徴を明らかにし、その原因や影響を考えたい。
『捜神記』の現行「二十巻本」は、明末万暦年間に胡応麟が『藝文類聚』や『太平広記』『太平御覧』などに加え、また明代に刊行された類書『天中記』に残存する佚文を収集して編集したが、その後増補を加えられ出版されたものである。しかし、そもそも何故胡応麟が何故『捜神記』に興味を持ち、類書などの佚文からの編集という作業を行ったのだろうか。そこには、万暦期の時代風潮と、胡応麟をはじめ江南の文人集団との関わりについての最も特徴的な現象がみて取れる。彼が『捜神記』の編集を行ったことは、『捜神記』のみならずその他の六朝志怪作品が編集され、出版に到るという過去に散佚した六朝志怪の隆盛と繋がり、明代末期における六朝志怪の編纂、出版の流行とも言える現象と密接に関わるからである。
本発表は、その明末における六朝志怪の隆盛に関与するものとして、まず胡応麟が如何なる経歴の人物であったかという観点の考察を行いたい。彼の伝記を記載する資料として、王世貞「石羊生伝」や『明史』文苑伝、清・葉昌熾の『蔵書紀事詩』が挙げられるが、共通するものとして胡応麟が経史子集の多数の書物を多く有する江南随一の蔵書家という評価があり、また彼の随筆である『少室山房筆叢』には六朝志怪も含む多くの子部の書籍に対しての彼の所見が述べられ、従来指摘されてこなかった彼の諸子百家の書物に対する観点を見いだすことが出来る。さらに、「二十巻本」『捜神記』自体についても、ほぼ同時期に出現した八巻本の『捜神記』(この「八巻本」が収録される『漢魏叢書』は、胡応麟と同じく王世貞に師事した屠隆も出版に関与する)との比較検討により、「二十巻本」『捜神記』に見える特徴についても言及したい。
3―11 『詩経』注釈史における宋刊『纂図互注毛詩』の意義――巻頭に付された図解を中心に――
『詩経』諸篇に見える歴史や地理、また動植物や器物は、『詩経』を読み解く手がかりとして、漢代以後、諸家の間では様々な解釈がなされてきた。その中で『詩経』の名物を考証した專著である三国呉の陸璣『毛詩草木鳥獣虫魚疏』が著され、宋代には蔡卞『毛詩名物解』や王応麟『詩地理考』などが著されるようになった。
このような『詩経』諸篇にあらわれる事物に対する注釈の流れを考える上で、これまでほとんど取り上げられることのなかった書物の一つが、『監本纂圖重言重意互注點校毛詩』(以下『纂図互注毛詩』と略す)である。本書は南宋の紹熙年間に建陽の書肆が編纂、刊刻した書物で、「互注」、「重言」、「重意」といった注により書中の同一句や類似句などを示すほか、巻頭に図を附すことを特徴としている。書肆により編纂された本書は、明清以降は宋本として、または唐、宋の古いテクストを伝えるものとして蔵書家や学者に珍重されながらも、書物全体の存在意義については見過ごされてきた。近代以降、鄭振鐸などが史料や美術品として清代以前の版画に注目し現在に至るが、『纂図互注毛詩』の図については中国における早期の版画であること以外、これまでに詳しい研究はない。
そこで、本発表では『纂図互注毛詩』にある「毛詩挙要図」と称する三十の図解を取り上げる。「毛詩挙要図」は宋の陳祥道『礼書』や陸佃『礼象』、楊甲『六経図』中の「毛詩正変指南図」などをもとに作成したと考えられるが、書肆がなぜこれらの書物を参照したのかを考察し、宋代の『詩経』注釈学の流れのなかで『纂図互注毛詩』がどのように位置づけられるのかを述べてみたい。
3―12 黄丕烈・顧千里編『校刊明道本韋氏解国語札記』の来源、体例及び資料的価値
清朝嘉慶五年(一八○○年)、江蘇長洲の蔵書家黄丕烈は、当時抄本の形でしか伝わっていなかった明道二年本『国語』を約八百年ぶりに重刻刊行した。本発表で取り上げる『校刊明道本韋氏解国語札記』(以下『国語札記』と称す)は、それと合わせて刊行された全三巻の札記である。黄丕烈の名で刊行されているが、編集作業の多くは顧千里が担ったと思われる。その序文に「其(=影抄明道二年本)の中の字體、前後に岐あれども畫一を改めず、闕文、壞字もまた均しく舊に仍り、添足する所なし。以て妄を懲むるなり」とあるように、重刻明道二年本『国語』は、底本である影抄本の字句には一切手を加えていない。公序本系統の『国語』版本との異同、他書の引用にみられる異同、先人の校本や著作に記されている校語などについては、この『国語札記』に収録されている。
重刻明道二年本と公序本系統の諸版本との異同を記した清朝の著作としては、『国語札記』のほかに汪遠孫の『国語明道本考異』がある。いずれも『国語』の閲読・研究に欠かすことのできない文献であるが、両者の編集方針には大きな相違がある。すなわち『国語明道本考異』が公序本との異同を網羅的に挙げようとしているのに対し、『国語札記』は一定の基準にもとづいて記載する字句を選択しているのである。その字句の選択基準には、主として顧千里の校勘作業に対する考え方が如実に反映されており、清朝校勘学の一端を示す資料として貴重なものとなっている。また『国語札記』には、恵棟、段玉裁の『国語』校本、盧文弨、戴震などの著作からの引用もみられ、その点においても貴重である。
本発表では『国語札記』の来源と体例を明らかにし、校勘学研究におけるその資料的価値について論じる。
漢文教育部会
4―1 泰星学園上智福岡中学高等学校の漢文 ――実践と実践の中で感じる問題点――
中高一貫の男子校に国語科教諭として勤めている立場から、漢文教育の実践をする中で感じる困難や問題点を挙げ、より充実した漢文教育の指針を見いだしていける場とできれば幸いである。
以下のような問題点が挙げられる。
- 返り点を打つといった「ゲーム」感覚のものには取り組んでも文章には反応しない。
- 日本の古典文法を理解できていないため、白文よりも書き下し文の方を理解できない。
- 「置き字」や「助詞・助動詞に当たる字」を漢字のまま書き下してしまう。
- 「置き字」を「意味はあるのだが、都合により書き下さない字」ではなく「意味のない字」「読まない字」と整理してしまっている。
- 難読字にフリガナがついていると、どこまでが漢字の読みでどこからが送りがなか判断できない。二字以上の熟語的なものの一字にだけフリガナがつくと、もう一字を読まない。
- 「…と」という風に、引用を示す「と」をカギカッコの外に出せない。
- 「○○」という熟語がある、と教えると、「そのような表現はない」という反応を見せる。「知らない」ことに対する鈍感さのようなものを感じる。
- 【注】にある人物名や地名などを、人名や地名で訳さずに、人物説明をそのまま読む。
- 白文から文構造を捉えるといった、いわゆる漢文を外国語と考えて読ませることが困難。
- 漢文を必ずしも必須としない現在の大学入試制度も関係してか、高三時に漢文単体で時間を取れず、演習量が少なくなっている。
- 歴史物を好む生徒は多いが、「六朝期の文(桃花源記)」「漢詩」「唐宋八大家の文」「諸子百家」などに対しては反応がよくない。自分の守備範囲に入っている文章なら興味を示すが、
自分の範疇外であると一旦判断してしまうと全く文章が理解できなくなる者が多い。
※最近は、大学入試でも解釈、個別の知識に偏らない、総合的な読解力をつける、すなわち、「読む」ことを重視した問題が増えてきたので、細かい文法事項なども大切だが、「読む」経験を増やしていくような授業を進めていきたい。
4―2 大学入試問題と高校漢文教育 ――「学ぶ楽しさ」との両立を求めて――
現実的な問題として、もしも漢文がセンター試験に課されていなければ、大多数の高校生は漢文の学習に熱心に取り組まなくなってしまうだろう。このような現状にあるからこそ、入試問題は高校生の漢文学習に大きな影響を与えているとも言える。「受験勉強としての漢文」と「漢文を学ぶ楽しさ」とを両立させるためには、漢文という科目が、漢文法の学習や教科書で学ぶ内容を含め「学習の努力が報われる」ことを生徒に示さなくてはならないと考えている。その観点からいえば、平成二十年センター試験本試の問題は内容の読解、文法力の双方をバランスよく問うている問題であり、学力相応の結果が得られた。一方で、同二十二年の問題はやや内容把握に偏り過ぎているのではないか、との感もある。高校での漢文学習が報われる問題の一つの典型は、問題文の内容をも含めて考えると、例えば平成十三年追試験のような出題ではないだろうか。生徒の得点の実態を交えながら御話できればと考えている。
また、平成十九年の東京大学の入試問題からは、生徒は読解をある程度は得意としていながらも、訓読(書き下し文)を苦手としていることが窺える。このことは東大受験希望者の意外な弱点でもあるようだ。
生徒は、漢文を「文法に沿って読めば理解できる」と自信を持てば他の作品も読みたい、との意欲をもつようになる。これは初めて漢文に接した生徒にも、卒業した生徒にも共通の思いであるようだ。このような生徒が増えることを期待できるような入試問題の出題をして頂ければと考えている。
4―3 大学の漢字教育と中国文学 ――実践事例から見る現状・課題・役割――
大学の漢字教育に言及した近年の論考、吉原英夫「大学における漢文教育について」には、大学生の ①漢字力 ②漢文読解の基礎力 についての教員アンケートの回答「漢字・漢文の能力はどうしても必要である」に対し、説得力をもって説明できなければ、家永三郎の「漢文は将来古典に関係ある学問をやろうとする生徒だけに教えればよいことで、一般社会人となるための教育科目として必要はない(以下省略)」のような意見を否定することはできないであろう、とある。(『新しい漢字漢文教育』50号、二〇一〇年)
一方、山崎純一は漢文科目の設置拡大を提言、「入社試験に漢語の認識力や漢字の書き取りを課す会社が少なからずあり、学生がその対策に腐心し、漢字検定試験の応募者が年々増加し、ハウツウものの四字成語辞典などがよく売れている実情を直視すれば、けっして突飛・過激の言でない」と述べている。(「いま大学漢文教育が直面する問題と私の漢文教育実践―新聞のマゼ書き漢語表現と常用漢字音訓表を中心に―」『新しい漢文教育』22号、一九九六年)
発表者は日本語・日本文学科で中国文学を担当し、次の認識を得た。
- 漢文を通じた中国古典の教養は、就職希望の学生に必要である。例えば「一般常識 国語」には漢字・四字熟語が多いが、対策問題集では暗記学習のみで真に必要な中国古典の多様な価値観や哲学は伝わりにくい。そこで、常用漢字を中心に成り立ち・字義・熟語・原典を体系化し指導した所、学習効果は高まり内定に直結した成果も出た。
- 国語科教員を目指す学生には、採用試験過去問(現役合格者が出た福岡と他県)の難易度意識調査を行っている。自治体等により形式・難易度が異なる中、漢字・熟語の理解が困難との回答が多く、JIS第1~2水準漢字や常用漢字表外訓について同様の指導を行い効果が出ている。
発表は、こうした事例から大学の漢字教育の現状・課題、中国文学の役割を考察した一試論である。
特別講演
九州漢学の扉を開くものは、桂庵玄樹(一四二七~一五〇八)とその弟子たちである。桂庵は明国に留まること七年、朱子の新註を学び、帰国後は島津忠昌に仕えて朱子学を講じ、朱子の『大学章句』を刊行。また従来の訓点を改良した「桂庵和尚家法倭点」を通じて朱子学の普及につとめる。その学三伝して飫肥の人文之玄昌(一四五五~一六二〇)、ついで屋久島の如竹散人(一五七〇~一六五五)に至る。訓点づき四書はいよいよ普及する。
熊本の秋山玉山(一七〇二~一七六三)は、藩校時習館の創設にかかわり督学となる。学は折衷学。藪孤山(一七三五~一八〇二)は、時習館教授につくと玉山の折衷学や詩文への偏向をきびしく戒しめ、朱子学尊重へと学風を一変する。同じ肥後益城の出身に松崎慊堂(一七七一~一六四四)がい、江戸に出て林家に学び、佐藤一斎と学を競った。つとに渋谷の石渓山房に隠棲し学問に没頭する。『縮刻十二経』をのこす。
三浦梅園(一七七二~一七八九)は、国東富永村の人。ほとんど独学。「気」の思想に着目し、自然哲学の構築に苦闘する。主著の『玄語』とともに『贅語』『敢語』を「梅園三語」という。梅園の流れをくむものに、日出藩の帆足万里(一七七八~一八五二)がい、『窮理通』が世に知られる。
福岡の学問は、貝原益軒(一六二〇~一七一四)と亀井南冥(一七四三~一八一四)・昭陽父子及び益軒系列の東学問所修猷館の朱子学と南冥系列の西学問所甘棠館の古学派との盛衰につきる。益軒に『慎思録』『大疑録』等があり、南冥に『論語語由』、昭陽に『尚書考』『礼記抄説』等がある。
飫肥藩の安井息軒(一七九九~一八七六)は父滄洲から古学派の教育をうけ、二十六歳で昌平黌入学。其の二年後松崎慊堂の知遇をえ、学大いに進む。天保九年、家族を伴い江戸へ。「三計塾」を起こす。文久二年、幕府儒員。著書に『北潜日抄』『管子纂詁』『論語集説』など。
近年、多くの分野で東アジア日中韓三国の交流が盛んとなり、特に日中の間にある韓国の存在が注目されることが多くなりました。中国学研究の分野もその例外ではなく、中国大陸、台湾の国際学会などで韓国の研究者に出会う機会が以前より増え、また日韓の研究者同士の交流も活発に行われています。韓国は、言うまでもなく日本よりやや早く中国の文化を受け入れ、その後も近代に至るまで、日本と並んでもっとも熱心に中国文化の受容、学習に努めてきた国であります。また現在、本家の中国を除けば、公教育で漢字や漢文を教えている国は、日本と韓国だけです。日本と韓国の中国文化受容のあり方には多くの共通点があるとともに、また歴史的なさまざまな経緯から際だった相違点も見られます。最近、韓国では中国学関係の貴重な書物の発見が相次いでおり、その意味でも韓国の学界の動向は注目されています。
私は二〇〇九年より、縁あって韓国の成均館大学東アジア研究院で、毎年二ヶ月の間、授業を行っていますので、この間の見聞をもとに、韓国の中国学研究の現状について紹介したいと思います。会員のみなさんのご参考になれば幸いです。