日本中國學會

The Sinological Society of Japan

『日本中国学会便り』2002年第1号

2002年(平成14年)4月20日発行

事務局からのお知らせ

福永光司先生のこと
理事長 興膳 宏

六朝学術学会の紹介
上田 武(茨城キリスト教大学)

宋代史研究会参加の記
市来 津由彦(広島大学)

ライデンに滞在して
釜谷 武志(神戸大学)

「李商隠与中晩唐文学国際学術研討会」の報告
詹 満江(杏林大学)

「紀念魯迅誕辰一二○年学術討論会」
岸 陽子

委員会からの報告

第54 回大会開催のお知らせと発表募集

平成1 3 年度学会員動向


事務局からのお知らせ

◎新入会員の紹介について

 学会への入会は、定例理事会(5 月・1 0 月に開催。それぞ れ申込締切は5
月1 0 日・1 0 月1 日)において審査・仮承認を経た後、評議会において正式に決定され、併せて初年度の会
費納入を待って会員として承認されます。また、入会資格は、 原則として、現在、大学・研究機関等で中国に関係する研究
に従事する者、あるいは中国の哲学・文学・語学及び中国に 直接関連する諸領域を専攻する大学院の学生及びその修了
者・単位取得退学者、とされています。
この基準に合致しない入会希望者を特に紹介される場合は、 研究歴及び研究業績についてできる限り具体的な紹介状を添
付してくださるようお願いいたします。必要に応じてさらに 審査前に事務局から照会することもあります。
なお、外国人留学生会員は、正規の大学院修士課程及び博 士課程の学生を対象としており、研究生は対象外となります。
大学院課程修了または帰国等の理由で資格変更される場合は、 速やかに事務局まで届け出るよう助言の労をお取りください。

入会申込書は、中国学会HP (http://wwwsoc.nii.ac.jp/ssj3/index.html)にある書式をプリントアウトの上、必ず郵送にて
お願いいたします。 なお、本年度五月分申し込みは、処理の都合上、下記宛に 直接郵送いただければ幸いです。
〒60 6 ―8 5 0 1 京都市左京区吉田本町 京都大学文学部木津祐子宛

◎会費納入について

 会費未納の方は、至急ご送金願います。特に、昨年入会申 し込みをされた場合は、会費納入が確認されるまでは正式会
員として認められません。また、数年にわたって未納の方は、 四年にわたって滞納されますと除名となります。これらの
方々は、特にご注意下さい。
(郵便振替口座:0 0 1 6 0 -9 -8 9 9 2 7 )

◎『学会報』送付停止について

 平成1 3 年度会費未納の方には『学会報』を送付いたしてお りません。会費納入が確認され次第、送付いたします。会費納入の際には、振替用紙通
信欄に未受領の『学会報』号数を 必ずご記入ください。


福永光司先生のこと

理事長 興膳 宏

昨年末の十二月二十一日の朝、起きて顔を洗っていると、家人が「福永先生が亡くなられましたよ」といった。一瞬、「えっ」と絶句して、新聞を手にすると、やはり訃報があった。二十日の午前零時四十八分、肺炎のため八十三歳で逝去。
通夜・密葬は本人の遺志によって、親族だけで行なわれたということだった。

私はまるで狐につままれたような思いだった。 だって、つい二月半ほど前の十月六日の午後、福岡大学で開かれた日本中国学会の大会での、意気軒昂たる福永先生の記憶がまだ鮮明に脳裏に焼きついていたのだから。先生は主催者からの講演の委嘱を快く承けて、あの日、わざわざ中津から福岡まで出向いて下さった。そして、「古代日本と中国文化」と題して、一時間半にわたり、長年の蓄積を傾けながら、熱情に溢れる講演をされた。
その間、文献の引用はメモもほとんど見ずに、し っかりとした文字で板書されていた。少し背中が前かがみになられた感じはあったが、話し方には
いささかの淀みもなく、記憶力のよさに至っては、 ほとんど若い者顔負けといってよかった。演壇に椅子は用意されていたが、講演中ほとんど立ったままだった。

学会の後しばらくして、私は先生からの私信に併せて近作の抜き刷りなどをいただいており、そこでも至ってお元気そうな様子が察せられたので、
急逝の記事を目にしても、にわかに信じられなかったのである。とりあえずご遺族に弔電を打ちはしたが、私は茫然としたまま一日を送った。

  いま、先生の亡くなられたことをようやく事実として受けとめられるようになって、いただいた近作の抜き刷りの一つを開いてみた。そこには著者の略歴欄に近況紹介があって、「現在は故郷の中津に住み、執筆・講演・学術調査旅行に多忙な
日々を送る」と記されているのを、見覚えのある 端正な先生の筆で、「執筆・講演……」以下のくだりを抹消し、「晴耕雨読の唐変木」と書き改めてあった。はからずも福永先生晩年の面
影を認めた気がして、思わず口元がほころんだ。

老荘や道教に関する福永先生の著作に接しながら、いつも感じていたのは、先生の研究には先験的な二つのルーツがあるということだった。その一つは幼少年期を過ごした郷里中津、そしてもう一つは第二次大戦末期から戦後にかけて苦難の従軍生活を送った中国である。最初の著書である『荘子』内篇(中国古典選、朝日新聞社)や、それに次ぐ中公新書の『荘子』のあとがきに、これら二つの土地での生活体験が、『荘子』に先生を引きつける大きな源泉になっていたことが印象深く語られている。

「ぼくは九州の田舎者だ」と、先生はいつも口癖のようにいわれた。だが、それは先生のひそかな自負のことばだったのかも知れない、といま私は思う。講演でも触れられたように、ずっと遙かな古代社会では、「船の文化」あるいは「黒潮の文化」が優勢であった東アジア地域において、やがて騎馬民族と儒教イデオロギーが結びついた「馬の文化」が勝利を収め、それが今日にまで及んでいる───これが「馬の文化と船の文化」論の核心である。すっかり劣勢になった「船の文化」の片鱗を、先生は子どものころ郷里で体験した、素朴な太陽神崇拝などの中に認め、それを研究生活の中で大切にはぐくんでこられたといってよいだろう。戦時下の中国に、先生は南支派遣軍の師団副官として従軍し、日中戦争末期の戦場で、絶望的な状況のうちに各地を転戦し、広東で敗戦を迎えられた。戦後には、師団長が部下の捕虜虐待の罪によって銃殺されるといった事件も間近に体験されたことは、私も直接うかがった覚えがある。それは、さながら生きた「渾沌」といってよい体験だっただろう。そうした日々にあって、『荘子』は、絶望の中に希望を見出すすべを教えてくれる書となった。

同時に、かつて百越の地と称された南方で、中国研究者の訪れないような少数民族居住地にまで足を運んで、彼らの生活や風俗を親しく見聞する機会に恵まれた。その体験は、「馬の文化と船の文化」論の直接の出発点にもなっている。太陽の紅さを女性と結びつける文化、偶数よりも奇数を重んずる文化、右よりも左を尊ぶ文化、鉄よりも銅を有用とする文化などなど───それが「船の文化」である。一言でいえば、劣性文化である。都会の文化に対する田舎の文化である。現代文化全体の中で劣性でありながら、いやむしろ劣性であることによって、優性なるものに欠落した要因を発見し、文化全体のあり方に反省を迫るものである。このように考えてこそ、福永先生のいわゆる「田舎者」もよく理解できる。「唐変木」と自称されるのも、根は同じにちがいない。

晩年の福永先生は、この劣性文化である「船の文化」の擁護のために、全精力を費やして論陣を張ってこられた。それは、ひとりアカデミズムといわず、滔々たる文化の潮流全般
を相手にしての孤独な戦いであったのかも知れない。講演会当日、先生と話をしていると、「君も馬の文化派だからね」と何度もいわれた。私は福永先生の弟子筋を以て自任しているつもりだったが、そうはっきりといわれては返すことばがない。先生の目からすれば、私も多数派の一人にすぎなかったのだと、恥じいるばかりである。

それはさておき、道教はいまでこそ中国思想史研究において注目を集めているが、一昔前、福永先生の修業時代にあっては、それこそアカデミズムの異端もいいところだった。そのころの苦労話も酒席で何度かうかがったが、先生の語り口はいつも豪放な調子に終始して、みじんも陰湿なところがなかった。

中国古典選の『荘子』内篇は、同書のあとがきにもあるように、大阪の高校教師時代の労作だが、そのあとしばらくして、先生は愛知学芸大学(現在の愛知教育大学)に助教授として勤務されるようになった。いまでいう単身赴任で、新幹線などまだない時代だから、毎週日曜日の夜に京都から夜行の普通
列車に乗って、夜が白々と明けそめるころ、勤務地の岡崎に着く。国鉄岡崎駅は市の中心からはずれたところにあって、駅を下りると、三十分の道のりを研究室まで歩いて行く。毎週そのくり返しだったとのことである。あの頑健な福永先生だからこそできたことだろう。

「長い夜汽車の旅の間、さぞ退屈だったでしょうねぇ」と聞くと、「うん、だから、大学ノートに『荘子』の本文を書き写
し、それを短冊にして索引作りをやっていた」といわれた。確かに先生は私家製の索引をいくつも持っておられたのを覚えている。あの最後の講演会で示された驚くべき記憶力は、こうしたたゆまぬ
努力の延長だったの だろう。

それにしても、福永先生の突然の遷去は、まだ私の心のどこかに信じがたい思いが残っている。そんなことをいうと、先生から、「いや、これこそ『荘子』の我を息わしむるに死を以てすだよ」と、笑いとばされるかも知れない。

(20 0 2 .2 .2 8 )


六朝学術学会の紹介

上田 武(茨城キリスト教大学)

1 9 9 7 年4 月1 3 日、東京湯島の斯文会館で、六朝学術学会の設立総会が開かれた。わざわざ設立総会のことから紹介を始めたのは、本会には他の学会とはいささか異なる前史、つまり中国の研究者からのひとつの働きかけが、学会出発の口火を切る役割を果たしているからである。

江西省九江市の九江師範専科学校に在職の陳忠教授は、現代中国の陶淵明研究になくてはならぬ
存在である。陳氏は師専の陶淵明研究センターの主任であり、氏が編集責任をもつ『九江師専学報・社会科学版』の「陶淵明研究欄」には、毎号全国第一線の研究者の論考が四、五篇掲載され、近年その範囲は日本(井上一之、伊藤直哉、安立典代各氏等)から韓国にまで及んでいる。まさに九江師専は中国を中心とする東アジア陶淵明研究ネットワークのセンターを目指して活動している観がある。陳氏はすでに1
9 9 0 年、二松学舎大学訪中団の引率者であった大地武雄氏と、日中両国の陶淵明研究の交流促進について協議されているが、1
9 9 5 、96 の両年、大塚漢文学会、全国漢文教育学会(略称・全漢教)関係の一員として、廬山、九江の地を訪れた上田や伊藤直哉氏に対して、学術討論集会の具体的なプランを提示された。もちろん個人の立場での応答は不可能なため、帰国後伊藤氏とともに石川忠久全漢教会長、大地事務局長、役員の渡部英喜氏その他の方々に検討をお願いした。何回か話し合いを重ねているうちに、既成の組織ではなく、また陶淵明研究だけを目的とせず、魏晋南北朝の文学、思想、歴史等を総合的に対象とした学会を立ちあげようという方向に意見がまとまっていった。

かくして第一回の日中討論集会の具体的準備と並行して、「六朝学術学会」の名称や組織案もまとまり、9
6 年の1 0 月神奈川大学で開催された第4 8回日本中国学会の大会会場で、発会の趣旨説明と入会案内を配布し、設立総会を準備する運びとなった。

設立総会の参加者は4 0 名、規約の承認のあと石川忠久氏を会長に選出した。冒頭において、石川氏は六朝時代が中国文明史上従来ともすると暗黒と混乱の段階と見なされて来たが、実は「自由豁達」な、極めて活動の目覚ましい時代であったこと、思想や文学の面
において、前代にはなかった新しい変化と進歩が見られたことは、改めて注目されなければならない。この学会が生まれたのは、従来個々に行われていた、六朝時代の事象や知的營為を対象とする研究を統一的にとらえることによって、一層の活性化を促してゆこうとするものだと強調された。当時の記録を見ると入会者1
0 4名、働きかけはしたものの、あまり反応のなかった歴史学の分野で、福原啓郎氏がわざわざ京都から参加くださったのは感激であった。

春から夏にかけては、懸案の「第一回日中陶淵明学術討論集会(首屆中日陶淵明学術研討会)」の準備に忙殺された。発表者の確定もさることながら、2
L 版以上の大きさの個人写真や、A 3 の用紙に履歴や主な業績を書き出し、できれば抜き刷あるいは実物を九江師専の図書館のロビ―に展示するというPR
の方法には、国柄の相違が感じられもした。

討論集会は7 月3 0 、31 日廬山賓舘で開かれた。テ―マは「二十世紀陶淵明研究的回顧及中日陶学的交流」、参会者は日本側2
5 人、中国側1 3 人。発表者は中国側5 人、日本側6 人、限られた時間で意見交換の機会は結局持てなかった。発表内容については、日本側はいわゆる学会の研究発表と同じ態度で臨んだが、中国側は「陶淵明研究断想」「我対陶学研究的幾点希望」といった感想発表の傾向が強く、事前の肝心な打ち合わせが十分でなかったことが反省された。だがレセプションを含め、これまで活字を通
してしか知らなかった中国の著名な研究者と、僅かながらでも言葉が交わせたことには、深い感慨を禁じ得なかった。

ちなみに一昨2 0 0 0 年8 月1 5 、6 の両日、同じ廬山賓舘で、第二回の討論集会が「二十世紀陶淵明研究的回顧与前瞻」のテーマのもとで開催された。参加者は日本側1
5 名、中国側3 0 名、発表者は日本側5 名、中国側は8 名であった。第一回と比較すると、中国側は誰が交替してもよいように参加者の大半がレジュメを準備してきたという熱の入れようであった。また発表内容には二つの大きな特徴点が認められた。一つは従来の研究をきちんと総括し、新しい研究方向をきり拓いてゆこうという、まさに世紀の境界線に立つ者としての気迫が強く溢れていたことであり、第二は我々の予想を越えて、これまでの日本の研究に深く注目し、その成果
を吸収し、さらに克服して行こうという積極的な姿勢が認められたことである。毎年6
0 篇から70 篇の陶淵明に関する論文が発表される中国の研究者層の厚さをつくづくと実感させられた二日間であった。

9 7 年4 月に学会が発足してから2 年近くが過ぎようとする頃、やはり一種の形骸化のごとき雰囲気が漂うようになった。会員はほぼ全国にひろがり、会員数も1
3 0 名にまで達してはいる。しかし年1 回の大会と会報の発行、それに2 、3 年に1度催される日中陶淵明学術討論集会、果
たしてこれだけでよいのだろうか。また役員の多くは各学園や学会の中堅以上の責任を担い、一堂に会して議論することも容易ではない。そんな感想が懇親会の隅で呟かれるようになった折、企画研究部の大上正美氏から、年間数回の例会の案が提起された。研究会場は地の利の点から青学で当面
引き受けてくれるというのである。以後同氏と遠隔の地からの発表者の多大な負担のもと、内容的にはどこへ出しても恥ずかしくない、充実した例会が本年一月まで6
回にわたって続けられている。例会に参加してうれしいのは、回を追うに従って、若い世代の顔触れが増えてきていることである。それぞれの大学でしっかり鍛えられている方々であろうが、学園の垣を越えて、切磋琢磨し合い、共通
の連帯感を養いながら、学会造りにもぜひ力を貸していただけたらというのが、役務の一端を担う者の切なる希望である。企画研究部ではこれまでの例会は、一定の業績を積み重ねた先生方に発表をお願いしてきたが、これからは、できるだけ院生を中心とした層の、遠慮のない問題提起に比重をかけてゆくという計画を練っている由である。その結果
、地滑り的な世代交代がそう遠くない日に実現することの夢でないことを期待したい。

なお六朝学術学会と銘打って出発した本会の、最大のしかも非常に困難な課題を最後にあげておきたい。『六朝学術学会報』第一集の「創刊の辞」で石川会長も指摘されているように、本会の基本的な目標は歴史、思想、文学などの各分野の研究を一つに包括して学際の連帯を創造するところにある。それは言うは易くして実現は至難な課題である。しかし一歩でも二歩でも前進することを我々は諦めてはいない。努力の不足はみずからが補うべきことであるが、いずれの方面
にも自由な門戸は解放されているので、いささかの関心、興味、志を抱かれておいでの方のご入会を心からお待ちし、歓迎申しあげる次第である。


宋代史研究会参加の記

市来 津由彦(広島大学)

 出版委員会委員長の川合康三先生から、筆者が長年参加してきた宋代史研究会の概要について紹介せよとの要請があったので、個人的感想も含めて報告したい。

 この研究会は、19 7 6 年の8 月に東京在住の主として史学分野の大学院生が研究交流を目的として集まり、第1
回が開かれた由である。第2 回は翌年3 月であったが、第3 回以降は毎年8 月下旬に2
泊3 日の合宿例会を行い、この例会は昨夏で27 回を数えた。紅顔の美青年?であった当初からの参加者も今や白髪まじりである。初期の参加者は15
~20 名程度であったが、現在では名簿人数は150 名を越し、例会参加者の出身大学・大学院もしくは勤務地は北大から鹿児島大に及び、東京圏、関西圏が中心とはいえ例会は持ち回りで各地で開催され、毎回40
名内外が参加、宿泊するようになっている。

 この研究会の趣旨は、中国宋代史に関心を持つあらゆる分野の人々の交流をめざすというもので、史学のみならず思想、文学、芸術研究分野の人々が当初から参加し、いわゆる学際的交流の場として続いてきた。本「日本中国学会たより」前号から中国学の中で研究分野を特化した各中小?研究会の紹介が掲載されているが、出身大学を異にし異なる方法を身につけた内外の研究者の交流のみならず、学術分野区分の沿革を引きずってやや壁があるかと思われる史学研究と思想・文学研究分野との分野間交流、というよりは分野にこだわらない交流をはかって運営しているところに、この研究会の特色がある。

 例会では初期は毎回三名、近頃は約四名の報告者を立て、一人あたり発表約一時間、質疑応答と雑談一時間弱という比較的ゆったりとした時間配分で研究発表を行い、時には二人分の時間をミニシンポジウムのような企画ものにあて、往々にして夜まで議論が続けられる。固定した事務局も会則もなく、次の幹事、当番校もこの例会できめるというゆるやかな集まりとして会はこれまで運営されてきている。こうした研究会では円滑な世代交代が課題ともなるが、会としては中堅層の、三十歳前後の参加者に事務局をまかせ、その人々の主導で企画を立てることにより、常時この交代がはかられている。

 1 9 8 3 年以降、不定期ながら数年に一冊のペースで研究論集『宋代史研究会研究報告』を刊行している。これははじめ、参加者の多くが大学院生で発表の場が少ないことへの手当てとして出た研究誌企画だった。しかし研究誌の発刊は失敗すれば会の存続に関わりかねないので、俗にいう三号雑誌にしないために不定期刊行単行本の論集とし、かつ水準を維持するために事務管理以上の役割を編集委員に与え、関連する複数の者が査読して意見を率直に交換することに努めることとした。第二集までは準備金も用意したが、幸いに売れ行き好調であり、第四集以降はテーマ特集を組み、現在は第七集にまで至っている(以上の過去の例会研究報告題目と論集論文題目については、末尾の研究会暫定ホームページ、参照)。

 以上が筆者が知る研究会の概要であるが、筆者がこの研究会にはじめて参加したのは、1
9 7 9 年の第5 回例会であった。このような交流の趣旨の研究会がある、という大学院同年の、勉強面
のみならず人格的にも尊敬する磯部彰氏のふとした誘いに応じたら、発表しないかとすぐ打診があり、おやおやと思う内に、研究発表に加えて次の例会の幹事も引き受けるということになってしまった。なんとお人好しかと今にして思う。とはいえそれ以来、毎年ではないが数年に一度の間隔で例会に出席し、おかげで史学分野の方々のみならず、土田健次郎氏、吾妻重二氏、小島毅氏その他、思想(史)学・文学分野で研究上のご交誼を日頃賜っている本中国学会員諸氏との膝をつき合わせて語り合う交流もこの会ではじまり、研究面
での人的結合の広がりがこの会で大いに得られた。

 史学研究というやや分野が異なる方々との関わりの効用について筆者を例にしていうと、筆者は宋代史研究の潮流について不勉強なままに出席していたが、7
0年代までに盛んだったいわゆる地主・佃戸制といった社会経済史的研究に比して、8
0 年代以降、士大夫論、都市論、地域社会の諸問題といった社会史的分野の研究が新たに多く論じられ、そうしたアプローチからの本邦の開拓的研究者がこの会に積極的に参加しておられた。筆者はいわゆる「朱子学」の形成の諸問題について研究しており、朱熹資料の言葉が表象された「場」、言葉・文化の文脈について正確に認識したいと考えている。我々がいる「近代」「日本」という場と、研究対象である「宋代」「中国」という場との距離関係の正確な認識があってこそ、やはり像でしかありえないとはいえ、現代からの解釈を今という場に提示できよう。それには朱熹やその交渉者の言葉をその社会の発言現場に戻って理解することに努める必要があり、この研究会に参加する社会史研究を進める方々との交わりは、筆者には大きな糧となっている。

 筆者のような関心のみならず、資料言説形成の現場に戻るという、研究するということの基本線においては、思想、文学、史学分野間で相互にかつ多様に語らいが成り立つ。小文のために、文学・思想研究の者が会に参加する意義を史学の方々にうかがったところ、史学だけでは歴史はわからない、という意味の感想が複数返ってきた。単に話をするということを越えた交流意識がこうして参加者に共有されてもおり、例会での雑談を越えて、近年では企画テーマを立てた『研究報告』の論文としてこの交渉が具現化されるようにもなっている。見方を変えれば、分野間交流をする意思が失われ、例会があるからという理由だけで会が続けられるようになった場合には会は衰退するという緊張をいつも含むともいえる。

 研究会参加者の、筆者も含む有志による、第3 6 回国際アジア・北アフリカ研究会議(略称、ICANAS
2 0 0 0 )発表および米国の宋代史研究者との近年の研究交流も、分野間交流共同研究というこの延長線上にある。米国の宋代史研究の潮流について恥ずかしながら筆者ははなはだ疎かったのではあるが、学術分野沿革の事情もあって米国では史学といいながら思想史・文学史研究も相乗りし、社会史とくに地域社会論研究が盛んで筆者の研究と重なる部分も大いにあると誘われ、またもやお人好しなことながら、武者修行のつもりで北米に行ってみることとした。この活動については、伊原弘氏「宋代史研究者の海外活動と今後への展望―一つの学会・二つのワークショップ(一)(二)」(「東方」2
4 1 ,24 2 号、20 0 1 年)を参照されたい。

 9 0 年代以降、電子工具類の浸透、及び中国の改革開放政策の進展により、周知のように研究環境の諸前提が大きく様変わりしてきている。後者により中国渡航が自由化し、現地研修、研究が可能となった。前者のとくに電子メールは国境と分野の壁を崩していく。この二件により日本だけでなく欧米の研究者も中国に自由に往来し、中国の研究者も欧米と交流するようになった。日本の中国学は、他国社会・文化研究という点でこの欧米と視点を共有しつつ、漢文訓読という独特の資料処理技術によって中国文化理解を蓄積し日本文化に血肉化してきた点で東アジア自文化研究としての遺産をもつという独自の位
置にある。往来自由化と電子工具利用浸透というこの趨勢の中、一国中国学に閉じこもるのではなく国際的に研究協力をはからざるを得ず、この独自性を継承しつつ新たな独自性をどう創出するのかが問われている。滔々たる趨勢にはついていき難いと思う心もあるが、しかし中国史における宋代の位
置、日本における江戸文化の意義を顧み、日本文化についても世界の日本学という視点からの検討が求められていることを振り返ると、国際化に伴うこの問いに応えることは、ことに宋代史・思想史研究分野において迫られており、宋代の社会・文化に関する研究交流の場が国内に存することの意義は増してきている。これに対応する開かれた場として、この研究会が今後とも機能してもらいたいと筆者は思うのである。

 (宋代史研究会暫定ホームページは以下の通り。
http://home.hiroshima-u.ac.jp/songdai/songdaishi-yanjiuhui.htm
6 月には夏の例会のお知らせも出ます。)


ライデンに滞在して

釜谷 武志(神戸大学)

 2 0 0 1 年3 月から20 0 2 年1 月まで、文部科学省在外研究員としてオランダのライデン大学漢学研究院で研究する機会に恵まれた。日本中国学会会員の中でも、立命館大学の清水凱夫教授をはじめとして、何人かの方がすでにここで研究生活を送った経験をお持ちであるが、筆者の滞在は最近のことに属するので、最新の情報をふくめてここに紹介したい。

 ライデン市はオランダの西部、北海に近い所にあり、首都アムステルダムと、小野伸二の所属するサッカーチーム、フェイエノールトが本拠地を置くロッテルダムとの、ほぼ中間に位
置する。大学の創設は1 5 7 5 年のことで、スペイン軍の包囲に耐えぬいた褒美として、当時のヴィレム1
世からライデン市に贈られたという。1 8 5 5 年にホフマン(Hoffmann )が日本学と中国学の両方を兼ねた教授となり、その後18
7 5 年に中国学科が独立して、フスタフ・スフレーヘル(Gustav Schlegel )が初代教授となって、今日にいたっている。ちなみにスフレーヘルは、フランスのコルディエ(Cordier
)とともに18 9 0 年に『通報』を創刊して、ライデンの書肆ブリルから発行したことでも知られている。

 もともとはライデン中央駅にほど近い国立民族学博物館の敷地内にあったが、約20
年前に大学本部に近接した現在の地Arsenaal に移転した。このアルセナールとは兵器庫の意味で、その名の通
り漢学研究院の書庫はもとの兵器庫を改造したものである。鉄骨で補強した三層からなる書庫は三階部分にも集密書架が設置されていて、床が荷重に耐えられるのかと疑問に思ったが、建物の由来を知ればその頑丈さも納得できる。研究院の蔵書は30
万冊を数え、いわゆる稀覯書こそ多くないものの、中国研究上必要な文献はほぼ完備しているといってよかろう。これらは歴史学や社会科学、自然科学の分野も含んだ、広義の中国関係書籍であって、中国哲学や語学文学に限って言えばやや少なくなるが、哲学・語学文学・歴史学の書が大半を占めていることに変わりはない。

 注目すべきは、日本で出版された中国関係書の多さである。これはヨーロッパの研究機関に共通
してみられる特徴であって、日本の中国古典研究がいかに重視されているかを示すものである。単行本のみならず学術雑誌についても同様で、『日本中国学会報』『東方学』はもとより、『未名』(神戸大学中文研究会)など、各大学が関わっている中国研究の雑誌も創刊号から購入されているものが多かった。日本の研究機関で西洋における中国研究の成果
を、これほどそろえているところがあるだろうか、はなはだ疑問である。予算の制約があるとはいえ、実にさびしい話である。ただ、昨今の学術書の高騰には頭を痛めている様子で、高価な日本の研究書を購入するよりは、中国や台湾の書籍を購う方向にあると見受けられた。また、書庫内には善本室のコーナーがあって、ファン・フーリック(VanGulik
)旧蔵の書およそ1 万冊を中心とする漢籍(和刻本を含む)を収蔵している。フーリックコレクションの一部は、19
9 2 年にマイクロフィッシュの形態で市販されている。

 中国学科のスタッフについて述べよう。仏教研究で著名なチュルヒャー(Zrcher
)教授、道教研究で名を馳せ、本学会の五十年記念大会でも講演されたスヒッパー(Schipper
)教授が相次いで退官された後、元明清文学の研究で知られるイデマ(Idema )教授がアメリカに転出されて、陣容は大きく変わった。現在の主任はファン・クレーフェル(Van
Crevel )教授で、多多や西川などの中国現代文学を専ら研究しておられる。哲学思想関係では、近代科学思想を研究するシュナイダー(Schneider
)、白蓮教の研究者テル・ハール(Ter Haar )両氏が正教授の任に当たっているが、ハール氏は歴史学担当となっていて、必ずしも日本でいう哲学の研究者の部類には入らないようだ。助教授クラスでは、ハフト(Haft
)、ムーア(Moore )両氏のように、それぞれ古典文学や古典芸術を講じている先生もおられるものの、総じて現在の顔ぶれでは近代に重点が置かれている。さらに、上記のスタッフ以外にも、政治学・経済学・国際関係論などの専門家がいて、日本の学部、研究科の区分では所属が異なるような研究者をかかえていることが、ライデンの中国学科の特徴といえよう。

 講義は基本的にオランダ語で進められているが、ドイツ人やイギリス人の先生で、着任してまだ数年にしかならない先生方は英語を用いている。学生便覧も同様で、ところどころ英語で記載されている個所もある。これは博士の学位
論文についてもいえることで、論文はオランダ語で執筆されたものが大部分を占めるが、英語の論文でも差し支えないという。今回、筆者は中国学に関するある博士論文の審査委員の一員となる機会を得たので、最後にその経験について記してみたい。

 主たる指導教官の指導のもとで執筆されていた論文に対して、ほぼゴーサインが出た時点で、最後の口頭試問(defensie
)の日程と審査委員について検討される。筆者がメンバーに入ることを依頼されたのは、この段階においてである。審査委員は、あらかじめ論文提出予定者から送られたきた論文(オランダ語ではなく英語で書かれていた)に目を通
し、各個人が試問当日にそなえていくつかの問題点について考えておく。これは日本における審査方法と大差あるまい。違うのは、ライデンでは伝統的な儀式の性格が強く残っている点である。

 筆者が末席につらなったのは、上記のテル・ハール教授を主査とし、カナダのトロント大学、ベルギーのルーヴァン大学の各教授が副指導教官をつとめていた論文の審査で、当日はこの三教授以外に、ライデン大学の教授が四名と筆者の計八名が質問することになった。場所は、もとは14
世紀の修道院の建物であったという大学本部の一室である。白のカッターにネクタイ着用で、スーツの上に黒いベルベットのガウンを羽織り、さらに同生地の帽子をかぶる。終身教授資格を取得したライデンの教授たちは、みな控え室のクローゼットにガウン一式を用意してあるが、こちらはよそものなので致し方なく、助言を受けて身に合いそうな大きさのガウンを見つくろい、無断で借用した。

 まず控え室に審査委員一同が集まり、司会役の学長代理の説明のもと、次第を確認しながら各自が用意している質問内容を述べる。定刻になっていかめしい服装をした門衛風の男に導かれ、審査委員が会場の部屋に入ると、部屋は五十人近い傍聴者でほぼ満室であった。なお、試問は通
常、一般に公開されている。部屋の壁には、ホイジンハなど、過去に特に業績をあげた名物教授たちの肖像画が、所狭しと掛けてある。司会者の指名にしたがって質疑応答が繰り返されていくのだが、答弁する側は、委員の質問の度ごとに、まず「ホーホヘレールデ・オポネント(Hooggeleerde
oppo-nent)」と呼びかけてから、答えるしきたりになっている。「学識ある(討議の)敵対者」というほどの意味である。

 終了の時間が来ると先の門衛が入室して、またわれわれを控え室に連れていく。そこで先ほどの質疑応答について議論をして、学位
授与に異議が無いことを確認してから、証書に署名の後、再度先ほどの会場にもどるのである。ここでいささか時間を費やして、主査から論文内容についての説明があり、その後証書の授与となる。このように、試問と授与がほぼセットになっていて、試問の内容如何によって授与の可否が決定するというほど厳密ではないらしい。逆にいうと、指導教官がゴーサインを出すまでが容易ではないのだろう。

 よその国の大学に行ってまで博士論文の審査をする余裕があるのなら、本務校でもっと多くの学位
を出すように、と言われそうな時世であるが、筆者にとって得難い経験であったので、記した次第である。


「李商隠与中晩唐文学国際学術研討会」の報告

詹 満江(杏林大学)

 去年十月十五日から十九日までの五日間、中国河南省沁陽にて李商隠研究における初めての国際学術研討会が開催された。かねてから、中国には李商隠研究の学会があると聞いてはいたが、国際研討会としては第一回の大会となるらしい。それが李商隠の故郷沁陽で開かれるのは、もちろん意あってのことであろう。

 参加者は名簿によると六十五名。ただし、現地の記者も含まれている。国際研討会とはいうものの、日本から参加した加固理一郎氏(横浜市立大学)、桐島薫子氏(筑紫女学園大学)そして筆者(杏林大学)を除いて、参加者はみな中国国内の研究者である。

 初日は参加者が三々五々、会場となった億万大酒店にチェックインすることになっていた。筆者は前日、十四日に北京に入り、翌十五日午後、国内線飛行機に乗って、鄭州の空港に着いた。沁陽市の学会担当者が出迎えてくれて、偶然、傅璇琮
氏と同じ公安の車に乗ることになった。どうやら氏と同じ飛行機に乗っていたらしい。高名な中国の研究者と初めてお会いして、とても緊張してしまったが、傅璇琮氏は私が聞き取れるようにとお気を遣われてか、とてもゆっくりとお話になり、日本に滞在なさったときの印象をあれこれ語って下さった。夕方には億万大酒店に着き、夕食のあと、午後八時から予備会が開かれ、沁陽市を紹介したビデオが放映された。李商隠の故里・墓などを中心としたもので、当地の人々の本学会への力の入れようが伝わってきた。

 翌十六日は開会式・記念写真撮影のあと、沁陽市博物館・李商隠記念館・李商隠の墓・李商隠の故里などを見学した。沁陽市博物館は、もとは天寧寺という寺院で、立派な仏塔がある。李商隠記念館は境内にあり、李商隠に関する展示が見られるが、まだできて間もないのか、資料は少ないようだ。李商隠の墓は畑の中にあり、墓碑は最近建てられたとのこと。墓から少し離れたところにある故里の碑も同様に真新しかった。土地の人々にとっては国際研討会はよほど珍しいのか、どちらも黒山の人だかり、横断幕まで張られ、大変な歓迎を受けたといえようか。

 十七日はいよいよ研討会、午前中十人、午後十一人が研究発表した。発表時間が1
0 分しかなかったので、各人ほんのさわりしか発表できなかったのが残念であった。あらかじめ提要を提出してあったが、その提要集が配布されたのが学会初日の十五日、論文そのものを配布されたのが研討会当日の十七日だったので、前もって読んでおくことができず、従って、いまひとつ議論は盛り上がらなかったように感じた。研討会のありかたは今後もっと工夫の余地がありそうである。

 李商隠についての発表はもちろん多かったが、中晩唐文学の研討会でもあるので、白居易や杜牧についての発表もあった。筆者の印象では、中国の研究者の発表は総じて詩風論・意象論が多く、さすがに李商隠の出身地に近い地元の研究者は思い入れが深いと思った。なかんずく興味深かったのは、李商隠の詩に次韻した自作の詩を発表した人がいたことで、このようなことは日本では例がないのではなかろうか。研究とはいえないとしても、好きな詩人に寄り添う行為はあっていいし、発表の機会が与えられてもいいであろう。また一方では、大変細かい考証もあった。李商隠の祖籍の考証あり、中晩唐のいくつかの詩を取り上げての解釈の違いをめぐる考証あり、李商隠の桂管幕職の考証あり、日本では考えられないほど多彩
な発表が揃った。因みに日本から参加した加固理一郎氏は「論李商隠的代筆文章―以《太尉衛公会昌一品集序》為中心」と題して、桐島薫子氏は「関于中晩唐文人之夫人観―与日本之比較」と題して、筆者は「李義山艶詩的背景」と題して発表した。後日、論文集として出版される予定だそうなので、詳細は略に従う。研究発表最後は李商隠学会会長董乃斌氏の総括で締めくくられた。

 十七日夜は文芸晩会が開かれ、李商隠の詩の朗読や豫劇の歌や沁陽市懐
劇団の歌劇などが披露された。なかでも小学生(もしかしたら就学前の子もいたかもしれない)を中心とした社交ダンスは、よほど稽古しているのであろう、とても上手で、かわいらしかった。こんな小さな子供たちまで「表演」してくれて、主催者沁陽市の力の入れようは並々でないことがわかる。

 十八日は沁陽市の西北にある神農壇という山に登った。登山のための靴や杖やお昼のお弁当まで用意されていて、もしかしたら、この登山こそが今回のメインイべントだったのかもしれない。そう思わせられるほど、参加者たちはいそいそと笑顔でバスに乗り込んでいたのである。登り始めてしばらくは比較的なだらかな坂道だったが、頂上に近くなると、断崖絶壁の鎖場つづきになった。中国の山に登ったのは初めてだったので、これが山水画の世界なのかと実感した。ここにしか生えない白鶴松や蝋燭のように見える岩など、景勝を楽しみつつ登っていくと、お昼ころ、やっと頂上に着いた。頂上には女道士の住する道観があり、数人の女道士が熱心に読経している。また、なぜか頂上ではうどん(中国の麺を表現するのに適当なことばが浮ばない。ラーメンという感じでもないし、そばともいえないので、仮にうどんと言っておく)を売っていて、これも主催者側の手回しか、暖かいうどんをご馳走になった。うどんと女道士…なんとも妙な取り合わせ。神農壇は不思議な雰囲気を持った山である。下山は登るときよりもこたえて、膝が笑ってしまい、とうとう籠やのお世話になった。

 こうして研討会に参加する間、日本からの参加者には常に現地のマスコミが同道し、連日、取材された。日本には李商隠学会はあるかと聞かれ、日本には各詩人ごとの学会はないが、中唐文学会ならあると答えたりした。日本語がわかる記者はいなかったので、インタビューには全てたどたどしい中国語で答えたが、しまいに日本語も言ってくれと要求された。これは本当に日本から来た研討会参加者である証拠を示すためであろうか。東洋人は見た目からは外国から来た者だとわからない(それに筆者は台湾同胞、もともと彼らにとって、外国人ではない)。いっそ金髪碧眼だったらもっと喜ばれたかもしれない。

 その晩は研討会最後の夜。予定表には午後八時から「筆会」とあったので、色紙にでも記念に書き合うのかと思って、会場に行ってみると、みんな大きな半紙に毛筆で書いているではないか。毛筆などできない筆者は退散しようとしたが、引きとめられ、下手な字を書かされる羽目になった。

 十九日は初日と同様、とくに全体で集ることもなく散会した。当初、十九日には洛陽見学のオプショナルツアーが企画されていたが、参加希望者が集らなかったのか、お流れになったらしい。しかし筆者は当初の予定どおり洛陽に行き、白馬寺・少林寺な
どを見学した。竜門の石窟にも行きたかったが今回は時間切れ、またの機会にするしかなく、洛陽の牡丹も季節が違うので見られなかったが、せめて牡丹の絵をと思って買ったところ、帰りに洛陽の空港で、同じような絵がもっと廉価で売っているのを見て、がっかりしたことも旅の思い出にはなるだろう。

 初めて参加した中国の学会はいろいろな意味で良い経験になった。今後も日中の研究者がさらに交流し、学術の面
でも文化の面でも理解と親睦が深まるといいと思った。


「紀念魯迅誕辰一二○年学術討論会」

岸 陽子

 魯迅生誕一二〇周年を記念して、二〇〇一年九月二六日から二九日まで。魯迅の故郷紹興で国際シンポジウムが開催された。

 「魯迅的世界和世界的魯迅」と銘打ったシンポジウムには、香港を含む中国各地からの参加者に加えて、海外からも、台湾、韓国、カナダ、ドイツ、オーストラリア、マレーシア、日本から三一名の研究者が参加した。海外からは日本の参加者が最も多く、傍聴者を含めて二〇名余り、そのうち研究発表をおこなった者の氏名と論文の題目はつぎの通
り。

 阿部兼也「早期魯迅的科学精神与革命」
北岡正子「魯迅入学初創期的弘文学院」
岸陽子「超越愛与憎――魯迅逝世后的朱安和許广平」
千野拓政「対文学感到現代的瞬間」
竹内実「関于魯迅的短刀」
藤野恒男「藤野厳九郎先生的生平」
丸山昇「活在二十世紀的魯迅為二十一世紀留下的遺産」
丸尾常喜「関于《薬》的解読」
松岡俊裕「〈眉間尺〉試論 ――魯迅《故事新編》世界之一」
山田敬三「在魯迅与儒勒・凡尓納之間」
渡辺襄「魯迅看到的俄国貞探処刑”幻灯”」
李慶国「二十世紀九十年代日本的魯迅研究概述」
李冬木「関于魯迅与進化論」

 シンポジウムの会場紹興飯店は、大ホールと中型、小型の会議室を幾つも備えた大きなホテルで、同じ時期に複数のシンポジウムが開催されていた。

 このシンポジウムを主催したのは「中国魯迅研究会」(会長 林非)という全国的な組織を持つ学会であるが、開催のために組織された実行委員会の主任は鄭欣森国家文物局副局長、副主任には中国魯迅研究会副会長、北京魯迅博物館副館長の陳漱渝氏と並んで、中共紹興市委員会宣伝部副部長の李永鑫氏が名を連ね、このシンポジウムが中国においては一〇〇周年の時ほどではないが、国家的行事の一端として位
置づけられていることを示している。

 参加者が予期した数をかなり上まわったため、研究発表の時間も短縮され、大ホールでの質疑応答も十分に展開されず、いわばセレモニーの感無きにしもあらずであったが、それでも個々の研究発表は最近の中国と世界の魯迅研究における問題意識のありかを示していて興味深かった。

 初日、九月二六日の午前中は、開幕式のあと、議長に林非氏、コメンテーターに竹内実氏(なんとみごとな中国語!)を配して、参加者全員が一堂に会しての研究発表がおこなわれた。発表者は中国の孫玉
石氏、日本の丸山昇氏と藤野恒男氏、ドイツ人の馮鉄(中国名)氏。丸山氏は、理想がことごとく挫折し、混迷を深める二一世紀の初頭に生きる私たちに魯迅が残した遺産としてつぎの二つを挙げた。(一)未来の希望が見えない状況の中で、いかなる既成の理論をも安易に信じることなく、”絶望”とたたかう”靭性”。(二)自らの祖国・民族の負の伝統に対する徹底した批判精神。そして文学における魯迅
の遺産として、”雑感”とくに彼が自ら”雑文”と称した晩年の比較的長い評論(「病后雑談
」「題未定章」など)を挙げ、これらの文章に秘められた独特の発想、現実との切り結びはまだ十分に研究されていないと結んだ。マクロな視点からの発言であったが、その論拠をきちんとのべて説得力があった。

 仁愛女子短期大学教授の藤野恒男氏は「藤野先生」のお孫さんで、「藤野先生」の生涯を紹介した。

 ドイツ人の学者馮鉄氏は、「从メ新校勘学的モ的角度来看中国現代作家的手稿」と題する報告をおこない、スライドを使って魯迅及び茅盾の手稿を丹念にたどり、その添削の跡を分析して作家の創作の過程を析出するという方法を紹介した。

 午後は二つの分科会に分かれて発表と交流をおこなった。私の所属した分科会では、日本側からは北岡氏による日本に残存する魯迅留学時の資料の紹介、岸論文の要旨発表など。それに関連して、魯迅をより深く識るためには、彼をとりまく女性たちの存在をもっと視野に入れるべきだという、林非氏、蘭州大学の呉小美氏らの発言があった。

 分科会での発表・交流は一回だけで、翌二七日と二八日の午前中は再び大ホールで全員参加の形で発表がおこなわれた。日本側からは丸尾常喜氏、北岡正子氏、山田敬三氏、阿部兼也氏らが発表をおこなった。長年魯迅の研究に従事してきた人たちの精緻な論証にもとづく報告は、閉幕式での袁良駿氏による総括においても、その手堅い実証主義が高く評価された。

 中国側の発言で印象に残ったのは、香港中文大学王宏志氏の「魯迅翻訳研究的理念思考」、南京師範大学朱暁進氏の「魯迅文化遺産的真正价値」など。前者は、魯迅の翻訳に対する研究がこれまでほとんどなされてこなかったことを指摘し、その理由を分析したうえで、「翻訳是”重写
“(a rewriting of the original )」という言葉で西欧の新しい翻訳理論を援用しつつ、翻訳はそれ自体が独立した一個のテクストであり、その存在理由及び価値は、それらが原文に忠実であるか否かではなく、それ自体が、自らの文化と読者にどのような影響を与えたかにあるという立場を明らかにする。その上で、魯迅が一貫して「直訳」の方法を用いたのは、彼が読者を「走向原著」へといざない、そうすることによって読者の内にある既存の文化に衝撃を与えるための戦略であったとみる。さらに魯迅は、中国の新しい言語の創出を助けるという翻訳のもう一つの重要な役割を重視したからこそあえて生硬な「直訳」「逐語訳」を試みたのであって、翻訳が中国語の新しい句法、豊かな語彙、こまやかで、精緻で、正確な表現を創出するために役に立つという信念にもとづいていたとのべ、そういった問題意識に立てば魯迅の翻訳に対する研究に新しい展望が開けてくるのではないかとう内容であった。

 後者は、近年叫ばれてきた「譲研究魯迅回到魯迅自身去」というスローガンを実践しようとするとき、まず問われなければならないのは、魯迅自身の、もっとも意義のある、もっとも価値のある、もっとも本質的な特徴は何か、という問題である。二〇世紀初頭の中国という特定の歴史時期に生きあわせた魯迅ら文人学者を、その時代が彼らに与えた啓蒙者としての歴史的役割から切り離して論じることはできない。彼らのまなざしはすべての精神文化の領域にわたり、それらは一人の人間の内部で複雑にからみあっている。魯迅も然り、彼は鮮明な文化的目的を抱いて文学活動に従事したのである。魯迅にとって文学・芸術はけっして孤立したものではなく、彼の文学の価値は文学そのものの領域にとどまるものではない。それゆえ、「魯迅自身」の研究も、彼の中に内包されている総体としての中国文化を視野に入れなければ、彼の真の価値を理解するのはむずかしいという内容であったが、今日さまざまな形で現れる「酷評」を念頭においての発言であったにちがいない。

 二七日の午後はバスを四台連ねて「魯迅故居」および「蘭亭」の参観。折悪しく雨であったが、観光地として建設中の街の変貌ぶりに目を見張った。「魯迅故居」の並びに周家老台門が「魯迅祖居」として公開されていた。「台門斗」「大廰」「香火堂」「后楼」と四つの建物がそれぞれ東西に「廂楼」を配して建つ。今回の参観でなによりも印象に残ったのは「故居」二階の朱安が嫁いできたときの部屋である。まだ未公開のその部屋は、窓に板が打ちつけてあって、明かりもなく、板の隙間から漏れるかすかな光の中に、美しい彫刻をほどこした朱安のベッドがひっそりと置いてあった。目を凝らして部屋の中を見廻わすと寝室の東側の壁に大きな双喜の文字が貼ってあるのが見えた。当時のものがそのまま残っているはずはないので、公開に備えて復原したものであろうが、ほの暗い壁の、紅い色も定かには見えない双喜の文字に胸を衝かれた。

 「魯迅故居」に設けられた魯迅グッズの店で「茴香豆」や「黴干菜」を買って、夜はホテル「咸亨大酒店」でお別
れの宴会。山海の珍味とカラオケでもてなしてくれた。もう一つ、特記しておきたいのは一二〇周年記念活動の一環として、浙江紹劇団などによる「文芸晩会」が開かれていて、シンポジウム参加者全員が招待され、「社戲」や、魯迅の作品を寸劇に仕立てた舞台を観ることができたことである。中でも復讐の鬼「女吊」の舞踊は、激しくそして哀切で心に残った。

 参加者の論文は『人民文学出版社』から公刊の予定と 聞いている。


委員会からの報告

 [日本中国学会将来計画特別委員会]

漢文問題勉強会

日時:2 001 年12 月24 日(日)14 :00 ~19 :00

場所:学士会館本郷分館
出席者:8 名
委員長    池田 知久(東京大学)
副委員長   堀池 信夫(筑波大学)
委員     佐藤錬太郎(北海道大学)
委員     山口 久和(大阪市立大学)
委員     渡部 英喜(盛岡大学)
委員・幹事  久保田知敏(聖心女子大学)
副理事長   大上 正美(青山学院大学)
オブザーバー 渡辺 雅之(筑波大学付属高校)
欠席者:2 名
委員     向嶋 成美(筑波大学)
委員     野間 文史(広島大学)

 2001 年4 月1 5 日および1 0 月6 日の当委員会での審議をふまえ、漢文教育に関する問題の所在を確認するため、オブザーバーとして筑波大学付属高校教諭渡辺雅之先生に出席を依頼し、漢文問題勉強会を開催した。

(1)渡辺先生による報告
「高等学校学習指導要領(1 999 年3 月告示、2 003 年4月より実施)」「筑波大学付属高校カリキュラム」を用いて、高等学校における漢文教育の現状が説明され、「全国漢文教育学会2
1 世紀委員会活動概要」により、全国漢文教育学会の取り組みが報告された。

  • 新指導要領による完全週休二日制の実現で全体の授業数が減少する。 概ね現行の週3
    4 コマから週3 0 コマに
  • さらに、総合的学習と情報科が必修となり、現行の教科の授業数はより減少する。
    総合的学習と情報科の授業合計で各学年に平均2コマ 入るとして、現行の科目の時間数はその分減少して概ね週2
    8 コマに
  • 国語全体の授業数減少が予想される。 例えば週5 コマから週4 コマに
  • 漢文の授業数の減少、古文や現代文との併合が加速する。
  • 現在でも漢文指導能力を有する教員の不足により漢文を一切教えていない高校も多い。古文や現代文と併合された場合、実際には殆ど教えられなくなるケースも増加
  • 現在、センター試験に漢文が出題されているので、進学校では教えている。
    例 筑波大付属 2 年2 コマ 3 年は選択
    都立普通高校でも1 年1 コマ2 年1 コマは教えている所が多い
    新指導要領による国語全体の授業数減少が予想される中、進学校でも現在の漢文の授業形態やコマ数の維持は困難
  • 筑波大学付属高校の場合、生徒は最初「国語の中になぜ漢文があるのか」等の疑問を持つが、履修すれば興味を持ち次年度の選択授業も取る生徒が多い。
  • 高校生の多くは授業があれば漢文や中国文化に興味を持つが、今後全国の高校で、全く漢文に触れないまま卒業していく生徒が増える。
  • 全国漢文教育学会では学校教育における漢字漢文教育の充実を求め文部科学省への働きかけを検討している。

(2)佐藤委員による報告

「訓点語概説」(築島裕他編『訓点語辞典』2 001 年8 月、東京堂出版)の自身の執筆部分「近代・漢文教育」を配布し、古典より現代文を重視する戦後の国語教育を概観した。

(3)各委員からの反応

これらの報告に対して各委員から次のような意見が述べられた。

  • これまで漢文の国語という教科内での位置付けは、日本語の表現を豊かにするためのものに限定されているのかと誤解していた。学習指導要領に「古典に親しむことによって人生を豊かにする態度を育てる」「古典を読んで,日本文化の特質や日本文化と中国文化の関係について考えること」「中国など外国の文化との関係について理解を深めるのに役立つこと」などの文言があり、古典教育としての意義が認められていることは発見だった。
  • 日本の未来は日本の古典に基づくものであり、古典問題は、高校教育だけにとどまらず、全文化に関わるものと認識している。
  • 教育には社会の要請によって新しい内容が入ってくるのは当然。総合的学習・情報・ボランティアなど新しい教科が入ってくれば、従来の教科に割ける時間は少なくなる。どの教科でもより多くの時間が取れればより充実した教育ができ、多ければ多いほど好ましいに決まっている。もし漢文をより重視せよと主張するならば、他教科の担当者をも納得させうる理論構築をする必要がある。
  • 日本中国学会には、漢文訓読に反対する会員も多い。もし、学会として行動するならば、全会員が同意できる方向を見極めるべき。
  • ドイツなどではエリート教育として古典を教えている。日本でも漢文は全ての高校が一律にやる必要は無いと考える。古典教育が可能な高校をサポートできればよ
    い。その場合でも漢文訓読ではなく口語訳でより多くその内容を教えればよい。
  • 中国のことを教えるのであれば、世界史や倫理社会などで教えた方がよい。国語表現を豊かにする目的であるならば、明治文語文を教えた方が効果
    的。
  • 古文漢文は国語からはずして、別に「古典」という科目を作ってはどうか。
  • 21 世紀は中国の重要性が増していく。中国のことを教えていくことはより必要性が高まる。世界史であれ倫理社会であれ漢文であれ、中国のことは教えていかねばならない。その場合でも高校教育の段階では原文は必要ない。
  • 自分が中国研究を志したのも、やはり漢文訓読で唐宋八家文や唐詩を読んでいたから。古典としての漢文を伝承する層が確保されることが望ましい。
  • もし漢文訓読をこれからも高校で教え続けるのならば、文法が大きな問題となる。現代文・古文には高校生用の文法があるが、漢文には無い。体系的に説明し、小冊子にまとまる程度の学校文法が必要。
  • 古典教育としてならば口語訳がよい。国語教育としてみれば、訓読は妥協的な方法といわざるを得ない。
  • 授業では口語訳だけにし、課外授業で原文や訓読に触れるようにしてはどうか。
  • 我々の代で過去の文化遺産である漢文訓読を絶やすことは避けるべき。
  • 漢文訓読法は中国古典文の読み方としては誤りや問題が多い。しかし、日本文化の一つとしては事実存在した。過去の国民文化を将来に送っていくことには、当然教育上の存在意義が認められる。
  • 現実に高校の教育にあり、入試科目にもなっており、漢文訓読はあってもよい。ただし、人類の知的遺産として重要な中国文化を教える方法としては偏っている。こんなに面
    白く豊かな文化なのであるから、もっと広く教えた方がよい。
  • 言語抵抗が強いのもまたよいのでは。多くの困難を経て文学にたどり着くのも楽しい。
  • 大学が高校教育に与える影響は大きい。実際日本中国学会の会員の多くが入試に携わり、高校の教科書を執筆している。漢文教育に大きな影響力を持った会員が集まっている団体であることは間違い無い。
  • 全国漢文教育学会では全国に約6 000 校ある高校の内、漢文教育の可能な約2
    000 校を対象に運動を展開しようと考えている。全国漢文教育学会が活動するとき、何らかの形で日本中国学会に支えてもらえればありがたい。
  • 漢文指導力をつけるための教員再教育など、大学が協力できる場面もある。現在教員再教育としての大学院教育では、教育系の大学院に通
    う場合には早退が認められるが、それ以外の人文系等では早退が許されないことが多い。大学としてまたは学会として教育委員会に働きかけて、教育系の大学院と同じ扱いにしてもらうなど協力できることはある。
  • 漢文教育の必要性を積極的に主張していく。そのためには理論武装が必要。
  • 中国との関係の重要性はどんなに強調しても強調しすぎることは無い。
  • もし、日本中国学会として行動するのならば、高校における中国語教育の充実を働きかけバックアップしていくべきではないか。これは漢文教育の充実の主張と両立しうる。

今回高校の先生をお迎えし、現場の状況を伺う機会が得られ、漢文問題に関する委員の具体的な認識を深めることができた。ただ予想された所ではあるが、漢文教育に関しては委員間でも意見の相違があり、学会全体として何らかの行動を起こすことには多くの困難が予想される。漢文問題は今後とも本委員会の課題の一つとして検討を続けたい。

以上
(久保田知敏記)


第54 回大会開催のお知らせと発表募集

 会員各位

 陽春の候、会員各位におかれましては益々御清祥のこととお慶び申し上げます。
さて、日本中国学会第5 4 回大会は東北大学が準備を担当し、本年10 月12
日(土)、13 日(日)の両日、本学の川内北キャンパスにおいて開催することになりました。

つきましては、下記の要領で研究発表を募集いたしますので、奮って御応募くださいますようお願い申し上げます。

部会  一、哲学・思想  二、文学・語学

        時間  発表 2 0 分  質疑 1 0 分

締切 6 月末日(消印有効)

◎本年は、一、哲学・思想、二、文学・語学の二部会を予定しておりますが、応募状況によっては部会の増設も考えております。

◎発表は、学術的研究の最新の成果で未公刊のもの 限ります。発表御希望の方は、氏名(地区・所属)・発表部会を明記の上、印字した発表題目及び梗概(8
00 字以内、テキスト形式のフロッピー添付)を、締切日までに大会準備会宛お送りください。なお、執筆者による校正はありませんので、完全原稿でお願いいたします。応募者多数の場合は、やむを得ずお断りすることもございますので、御了承ください。

◎今大会では、発表内容の全文を当日参加者に配布する予定ですので、発表採用者は、9
月末日必着で発表内容の全文を、大会準備会宛お送りください
(書式などの詳細は、採用通
知とともにお知らせします)。

◎宿泊につきましては、各自お早めに御手配くださるようお願い申し上げます。

2002 年4 月

日本中国学会第5 4 回大会準備会 代表 中嶋 隆藏
〒980 -8576 仙台市青葉区川内
東北大学文学研究科中国思想研究室
TEL /FAX 022 (217 )6028


[平成1 3 年度学会員動向]

◎平成1 4 年度役員交代について(五十音順)

 会則第1 3 条により、以下の役員が退任されます。
理事   戸川 芳郎(関東)
評議員  戸川 芳郎(関東)
町田 三郎(九州)
丸山  昇(関東)

 規定により、以下の会員が新役員として決定いたしました。
理事   中嶋 隆藏(東北)
役員   安藤 信廣(関東)
大島  晃(関東)
下見 隆雄(中国四国)

訃 報

昨年度『会報』第二号発行以後、次の会員が逝去 されました。
謹んでご冥福をお祈り申し上げます。(敬称略)
福永 光司(九州)
澤田 瑞穗(近畿)

◎住所変更について

住所・所属機関等の変更は、速やかにご通知下さい。通知は、書面もしくはFAX にてお願いいたします。電話及び会費振替用紙でのお届けはご遠慮下さい。

◎国内学会消息の原稿は、五月末までに、下記宛郵送ください。
〒606 ―8501 京都市左京区吉田本町
京都大学文学部  川合 康三 宛


編集:京都大学文学部中国語学中国文学研究室
〒606- 8501 京都市左京区吉田本町
発行:日本中國學會
〒113-0034  東京都文京区湯島1-4-25 斯文会館内
FAX.03- 3251- 4853  振替口座.00160-9-89927