日本中国学会第62回大会
研 究 発 表 プ ロ グ ラ ム
十月九日(土) 午前
- 1―1 夢の中の死者と魂(10時~10時30分) 発表要旨
- 白 雲飛(大阪府立大学大学院)
- 司会 堀池 信夫(筑波大学)
- 1―2 『楚辭』から見た上海博物館藏戰國楚竹書『三德』の構成とその内容 (10時30分〜11時) 発表要旨
- 吉冨 透(青山学院大学非常勤講師)
- 司会 福田 哲之(島根大学)
- 1―3 『呂氏春秋』と〈蓋廬〉―先秦末漢初における時代性と地域性に関する考察― (11時〜11時30分) 発表要旨
- 青山 大介(台湾・南栄技術学院)
- 司会 福田 哲之(島根大学)
- 1―4 六朝期の散逸医書『僧深方』の輯佚と復元 (11時30分〜12時) 発表要旨
- 多田 伊織(皇學館大学)
- 司会 浦山 きか(北里大学東医研)
十月九日(土) 午後
- 1―5 董仲舒対策の真偽説の再検討 (13時30分〜14時) 発表要旨
- 城山 陽宣(関西大学非常勤講師)
- 司会 渡邉 義浩(大東文化大学)
- 1―6 西晉武帝の「無為の治」 (14時〜14時30分) 発表要旨
- 島田 悠(青山学院大学大学院)
- 司会 渡邉 義浩(大東文化大学)
- 1―7 劉向『列女伝』について―「孽嬖伝」を中心に (14時30分~15時) 発表要旨
- 白 高娃(桃山学院大学大学院)
- 司会 有馬 卓也(徳島大学)
- 1―8 劉向の公私観とその政治的背景 (15時〜15時30分) 発表要旨
- 南部 英彦(山口大学)
- 司会 有馬 卓也(徳島大学)
- 1―9 浮屠と讖緯―華夷思想展開の一試論― (15時30分〜16時) 発表要旨
- 大久保隆郎(福島大学名誉教授)
- 司会 池田 秀三(京都大学)
十月十日(日) 午前
- 1―10 『管子』に於ける「道」の展開 (9時30分〜10時) 発表要旨
- 髙田哲太郎(東北大学大学院専門研究員)
- 司会 湯浅 邦弘(大阪大学)
- 1―11 通行本『老子』の「道」に見られる矛盾 (10時〜10時30分) 発表要旨
- 頴川 智(久留米大学附属中高等学校)
- 司会 湯浅 邦弘(大阪大学)
- 1―12 『劉子』に見える劉昼の思想 (10時30分〜11時) 発表要旨
- 池田 恭哉(京都大学大学院)
- 司会 神塚 淑子(名古屋大学)
- 1―13 「物理小識自序」の再檢討 (11時〜11時30分) 発表要旨
- 齊藤 正高(愛知大学非常勤講師)
- 司会 三浦 秀一(東北大学)
- 1―14 劉宗周の本体工夫論 (11時30分〜12時) 発表要旨
- 原 信太郎 アレシャンドレ(早稲田大学大学院)
- 司会 佐藤錬太郎(北海道大学)
十月十日(日) 午後
- 1―15 『天学初函』における『職方外紀』の位置について ―イエズス会士が伝えたもの― (13時〜13時30分) 発表要旨
- 安部 力(北九州工業高等専門学校)
- 司会 柴田 篤(九州大学)
- 1―16 明末天主教書における霊魂について ―その「行」に関する一考察― (13時30分〜14時) 発表要旨
- 播本 崇史(東洋大学大学院)
- 司会 柴田 篤(九州大学)
- 1―17 全祖望と鈔書の精神史 (14時〜14時30分) 発表要旨
- 早坂 俊廣(信州大学)
- 司会 濱口富士雄(群馬県立女子大学)
- 1―18 乾嘉の學と科擧 (14時30分〜15時) 発表要旨
- 水上 雅晴(琉球大学)
- 司会 濱口富士雄(群馬県立女子大学)
十月十日(日) 午前
十月九日(土) 午前
- 3―1 『詩經』國風における歌謡型と脚韻規則の考察 (10時〜10時30分) 発表要旨
- 浜村良久 ・ 水野實(防衛大学校)
- 司会 牧角 悦子(二松学舎大学)
- 3―2 「關雎」再考―『詩経』「關雎」篇における「再生産」の技法について― (10時30分〜11時) 発表要旨
- 胡 晋泉(東京大学大学院)
- 司会 牧角 悦子(二松学舎大学)
- 3―3 北周趙王「道會寺碑文」の問題点 ―聖武天皇『雑集』中の「周趙王集」に基いて (11時〜11時30分) 発表要旨
- 安藤 信廣(東京女子大学)
- 司会 加藤 国安(名古屋大学)
- 3―4 沈佺期・宋之問の「變格」五言律詩について ―張九齢・王維の五律との比較をもとに― (11時30分〜12時) 発表要旨
- 丸井 憲(早稲田大学非常勤講師)
- 司会 加藤 国安(名古屋大学)
十月九日(土) 午後
- 3―5 元稹「楽府古題序」の矛盾 ―元稹の文学観における「古」と「新」― (13時30〜14時) 発表要旨
- 長谷川 真史(九州大学大学院)
- 司会 赤井 益久(國學院大學)
- 3―6 井戸をめぐる―元稹悼亡詩「夢井」における「遶井」― (14時〜14時30分) 発表要旨
- 山崎 藍(亜細亜大学非常勤講師)
- 司会 赤井 益久(國學院大學)
- 3―7 蘇軾「和陶詩」の継承と蘇轍 (14時30分〜15時) 発表要旨
- 原田 愛(九州大学大学院)
- 司会 内山 精也(早稲田大学)
- 3―8 虎を見る目の変化 ―『醒世恒言』「大樹坡義虎送親」と『水滸伝』から― (15時~15時30分) 発表要旨
- 荒木 達雄(東京大学大学院)
- 司会 磯部 彰(東北大学)
- 3―9 『李卓吾先生批評西遊記』の版本について ―「広島本」の真価― (15時30分~16時) 発表要旨
- 上原 究一(東京大学大学院)
- 司会 磯部 彰(東北大学)
十月十日(日) 午前
- 3―10 尤袤本『文選』李善注考 「善曰」に着目して (9時30分〜10時) 発表要旨
- 大橋 賢一(北海道教育大学)
- 司会 佐竹 保子(東北大学)
- 3―11 「三都賦」劉逵注の特質 ―晋代の辞賦注釈と紙― (10時〜10時30分) 発表要旨
- 栗山 雅央(九州大学大学院)
- 司会 佐竹 保子(東北大学)
- 3―12 馬琴の『曲亭伝奇花釵児』にみる李漁の『玉搔頭伝奇』 (10時30分〜11時) 発表要旨
- 蕭 涵珍(東京大学大学院)
- 司会 丸山 浩明(県立広島大学)
- 3―13 明清文学史から見た清・顧沅の『聖蹟図』 (11時〜11時30分) 発表要旨
- 竹村 則行(九州大学)
- 司会 佐藤 一好(大阪教育大学)
- 3―14 段玉裁『説文解字注』における『国語』の引用テキストについて (11時30分〜12時) 発表要旨
- 小方 伴子(首都大学東京)
- 司会 木下 鉄矢(京都大学非常勤講師)
十月十日(土) 午後
十月九日(土) 午後
- 4―1 戦時の「夢」に浮かぶ都市―張恨水のエッセー集『両都賦』への一考察 (13時30分〜14時) 発表要旨
- 王 暁白(東京大学大学院)
- 司会 阪本ちづみ(法政大学)
- 4―2 戴望舒と夢想する言葉 (14時〜14時30分) 発表要旨
- 城山 拓也(大阪市立大学大学院)
- 司会 佐藤普美子(駒澤大學)
- 4―3 郭沫若の詩題に用いられた「日本人民」「日本友人」語の考察 ―一九六〇年代前半の旧詩を中心に― (14時30分~15時) 発表要旨
- 岸田 憲也(九州大学大学院)
- 司会 岩佐 昌暲(熊本学園大学)
- 4―4 解放の扉の前と後―二人の“蝦球”と消えた女性群像 (15時〜15時30分) 発表要旨
- 湯山トミ子(成蹊大学)
- 司会 藤井 省三(東京大学)
- 4―5 孫犁の文体について ―その特徴と文革後の変化― (15時30分〜16時) 発表要旨
- 渡邊 晴夫(日本大学非常勤講師)
- 司会 藤井 省三(東京大学)
十月九日(土) 午前
- 5―1 藤井竹外「芳野」詩の背景 ―元稹「行宮」詩と李氏朝鮮徐居正「皐蘭寺」詩― (10時〜10時30分) 発表要旨
- 丹羽 博之(大手前大学)
- 司会 静永 健(九州大学)
- 5―2 漢文日記叙述と漢籍 ―摂関家の日記としての『後二条師通記』― (10時30分〜11時) 発表要旨
- 中丸 貴史(学習院大学非常勤講師)
- 司会 静永 健(九州大学)
- 5―3 中国古典籍研究における日本伝存資料の意義 ―北京大学図書館蔵余嘉錫校『弘決外典鈔』をめぐって (11時~11時30分) 発表要旨
- 河野貴美子(早稲田大学)
- 司会 陳 捷(国文学研究資料館)
- 5―4 『千家詩選』と『新選集』―周防国清寺旧蔵本をめぐって― (11時30分〜12時) 発表要旨
- 住吉 朋彦(慶應義塾大学斯道文庫)
- 司会 太田 亨(愛媛大学)
十月九日(土) 午後
十月十日(日) 午前
- 5―8 日本漢詩における「和臭」・「和習」・「和秀」 ―『東瀛詩選』を手掛かりに― (9時30分〜10時) 発表要旨
- 郭 穎(廈門大学)
- 司会 蔡 毅(南山大学)
- 5―9 『滄溟先生尺牘』の時代 ―書肆と古文辞末流― (10時〜10時30分) 発表要旨
- 高山 大毅(東京大学大学院)
- 司会 蔡 毅(南山大学)
- 5―10 伊藤仁斎の学問論における朱子学批判の意義 (10時30分~11時) 発表要旨
- 小池 直(早稲田大学大学院)
- 司会 中村 春作(広島大学)
- 5―11 海保青陵『老子國字解』について ―徂徠學派における『老子』研究― (11時〜11時30分) 発表要旨
- 松井眞希子(関西大学大学院)
- 司会 中村 春作(広島大学)
- 5―12 岡本韋庵の思想 (11時30分〜12時) 発表要旨
- 有馬 卓也(徳島大学)
- 司会 町 泉寿郎(二松學舎大學)
十月十日(日) 午後
発表要旨
第一部会 哲学・思想Ⅰ
孔子が夢の中で周公を見ていたことが『論語』述而篇からわかる。孔子にとって夢は生者と死者を繋ぐものであった。
生者の夢に死者が現れる例は他にも数多い。
『晏子春秋』内篇雜下では、霊公が殺した五丈夫が景公の夢に現れ、景公はその地が五丈夫の丘であることを悟る。
『春秋左氏傳』成公十年に「晉侯夢大厲被髮及地、搏膺而踊曰、殺余孫不義」とある。『正義』によると「厲鬼也趙氏之先祖也」と、
「大厲」は祟りをなす「厲鬼」であり、趙氏の先祖である。『後漢書』靈帝宋皇后には「帝後夢見桓帝怒…今宋氏及悝自訴於天、上帝震怒、罪在難救」とみえ、
それは「冤魂」とされている。夢の中の死者は上帝に直接、訴えることができる存在である。
六朝の『捜神記』巻一一「…尋而卒。式忽夢見元伯…呼曰…、巨卿、吾以某日死、當以爾時葬、永歸黄泉」は、死者が生者に自分の死を知らせることができると考えられていた。
唐になって、杜甫の詩「夢李白二首」には、「故人入我夢,明我長相憶。恐非平生魂,路遠不可測。…君今在羅網,何以有羽翼」とみえる。
ここでは夢の中に現れるものが「魂」とされ、平生の魂ではない死者の魂は羽翼がついて、はるか遠くまで飛んで行けると考えられていた。
そして白居易の「長恨歌」の「悠悠生死別經年,魂魄不曾來入夢」は、死者の「魂魄」が夢の中に現れる。
孔子の時代ではまだ魂という語はみえないが、その後、魂という語が新たに使われるようになる。
『禮記』郊特牲では「魂氣歸于天、形魄歸于地」と、魂の属性に関心があり、『説文解字』では魂を陽、魄を陰に分類する。
いずれも魂とは何なのかを理論的に説明しようとしている。説明しなければよくわからなかったのだろう。
その後、その概念は一般化し普遍化する。そして魂魄自体が夢に現れる死者とほぼ同等の具体的イメージを結ぶようになったのではないだろうか。
1―2 『楚辭』から見た上海博物館藏戰國楚竹書『三德』の構成とその内容
『文物』二〇一〇年第二期に、曹錦炎氏が『上海博物館藏戰國竹書「楚辭」』と題し、五篇の楚辭作品の内容を紹介している。それは、『凡物流形』『李頌』『蘭賦』『有皇將起』等である。しかしこの中に『三德』が含まれていない。『三德』と『楚辭』の間には、何も關連性ないのだろうか。
『三德』には、天帝と鬼神が發言するという特徴がある。これは『楚辭』招魂篇と九歌大司命篇にも見られるだけでなく、愚見では天問篇もそれらと同様に天帝が發問しているものと考えている。天帝が人間にもの言う表現は『詩經』に見えないため、『楚辭』に見える特徴を『三德』も有していることになる。(参照、拙論『「楚辭」天問篇研究序説―戰國楚簡「三德」の讀者對象と「皇天」「后帝」から―』『出土資料研究』第十三號二〇〇九年三月)しかし『三德』が韻文でありながら、『楚辭』作品に特徴的な「兮」「些」等の語気助詞がないことは、天問篇も同樣である。
そもそも『三德』は如何なる文獻だろうか。李零氏は、『三德』の釋文者であるが、出土文獻資料(未公開を含む)を六藝に分類し紹介した同氏の『簡帛古書與學術源流』(三聯書店二〇〇四年四月)には、その名が見えない。これも『三德』の内容が從來の枠組みに相當しないからではなかろうか。そこで『楚辭』作品との共通性を見出すことにより『三德』の文獻的性格だけではなく、これが楚辭類作品の一つであることを論じることができるものと考えられる。そのため天問篇・九歌大司命篇・禮魂篇、及び屈原作品に見られる特徴的な人稱代名詞の使用法と押韻から『三德』を再配列することで、『三德』の構成とその内容を考察してみる。
1―3 『呂氏春秋』と〈蓋廬〉―先秦末漢初における時代性と地域性に関する考察―
『呂氏春秋』(以下《呂覽》)は前二三九年に秦国宰相呂不韋の命令で編纂された。整然とした目次構成と、呂不韋その人に対する評価の低さゆえに、先秦諸子としては珍しく、後世、仮託による加筆を受けた可能性が極めて低いという特性を持つ。〈蓋廬〉は張家山漢墓から出土した文献で、〈芸文志〉に記されながら亡失して見ることの無かった兵陰陽家類に属すと目されている。
報告者が両書を比較分析する理由には、大きく二つある。
- ①年代的な近似性 張家山漢墓の下葬年代は前一八六年であり、《呂覽》の成立年代とわずか五三年の差しかなく、墓主と《呂覽》編纂者はほぼ同時期を生きたといえる。墓主は〈蓋廬〉の作者でないにせよ読者であることは確かで、それが両書に何らかの共通点を生ぜしめている可能性がある。
- ②時代性の相違 〈蓋廬〉の下葬年代は、《呂覽》の成立年代と秦漢による統一を挟んで対峙しており、時代背景を異にする。無論、漢初に副葬されたからといって成立年代までが漢初に下るわけではなく、《呂覽》以前にすでに成立していた可能性もある。それらを踏まえて比較することで、新たな知見が得られるかもしれない。
右の動機に基づき両書を比較した結果、次の三つの共通点を得た。
①黄帝を標榜する。 ②陰陽五行説を擁する。 ③義兵説を唱える。
また次の三つの相違点を得た(雑家と称される《呂覽》に対して〈蓋廬〉は戦争方面に特化しているため、後者にあって前者にない点を以て相違点とする)。
- ①《呂覽》には、〈蓋廬〉の特徴である兵陰陽の用兵術が見えない。
- ②《呂覽》が六月火徳として別に中央土徳を設けるのに対し、〈蓋廬〉は『礼記』『淮南子』と同じく六月土徳をとる。
- ③〈蓋廬〉には「日有八勝」として戦闘に適した日付を記す〈日書〉に似た記載があるが、《呂覽》には見えない。
発表ではさらに、右の異同が生じた原因について時代性と地域性の観点から考察してみたい。
劉宋・南斉間の僧侶・僧深編纂と伝えられる散逸医書『僧深方』三十巻は、唐・王燾『外台秘要方』や日本・丹波康頼『医心方』等に多くの条が引用される。『医心方』と『外台秘要方』が、散逸した唐代までの古医書の宝庫であることは言うまでもない。
『医心方』三十巻(永観二年 九八四年進上)は、現存する日本最古の医学全集である。先行する中国・朝鮮・日本の医学書からの引用で成り立つ本書は、『外台秘要方』四十巻(天宝十一載 七五二年成立)との類似性が以前より指摘されている。
『隋書』経籍志に三〇巻と著録される『僧深方』は、藤原佐世『日本国見在書目録』(寛平九年 八九七年までに成立)にも「方集 廿九 尺僧深撰」として著録される。『医心方』は、北宋の校正医書局による改訂を経ていない、遣唐使将来の原本の系統から引用されている点で重要である。今利用できる最も古い『外台秘要方』でも、校正医書局の改変を受けた後の、北宋もしくは南宋初まで下がった時代の版本である。
発表者はこれまでに『医心方』と『外台秘要方』から『僧深方』の輯佚を行ってきた。『僧深方』の輯佚は、他でも試みられてはいるが、単なる引用のみならず、他の医書が言及したり、同じ処方であるとする部分にも着目し、『僧深方』の復元を目指している。
本発表では、現在までの段階で復元された『僧深方』が、六朝期の医学のどのような特質を伝え、またどの部分が後発の医書では採用されなかったかを分析し、六朝期から唐代にかけての医学思想の変遷を探る。
近年、郭店楚簡や上海楚簡に代表される新たな出土文献資料の発見によって、先秦思想史の書き換えが急速に進んでいる観があるが、そうした一連の研究動向に呼応するかのように、前漢期においても、中国思想史上の一大転換点と目されてきた「儒教の国教化」に関する歴史資料である『漢書』董仲舒伝中の対策文書、世に言う董仲舒対策に関する見直しが行われつつある。
確かに、前漢の武帝期に董仲舒の対策が嘉納された結果、五経博士が設置されたとする「儒教の国教化」の定説に対しては、多くの疑義が提起されてきた。当然、その中のある部分に関して、例えば董仲舒の対策が五経博士の設置より以前になされることはなかったという指摘については、その妥当性が積極的に評価されるに至っている。
現在、学界で広く認知されるに至っている福井重雅氏の所説のうち、とりわけ『漢書』董仲舒伝中の対策文書の研究方法については、漢代文書学上に新たな方法論を提起したものとして、すでに大いに評価されているであろう。
しかし、一方で董仲舒対策が後世の仮託であり歴史的事実ではないとする結論に対しては、一部の研究者からは賛同の意見が表明されている反面、他方からは批判的な論拠も提出されるなど、意見の統一を見ないまま、いたずらに年月を重ねつつある。
ところが、氏の研究や考証の方法に対しては、未だ本格的な検討が行われたことが無いのが実情である。本発表では、董仲舒の対策文書に関する問題点について検討を行い、本資料の真偽説の問題点を洗い出すこととしたい。
なお、董仲舒対策に対して、かくも重大な疑義が提起されるに至ったのも、元を正せば、この対策をめぐって多くの未解決な問題が存在したためでもある。本発表ではこうした諸問題の中から、とくに対策の年次について『漢書』中の諸資料を中心に若干の卑見を述べ、漢代思想史における董仲舒対策の位置付けについても言及することとしたい。
西晉の武帝は、泰始律令の完成を祝して「大赦詔」を発布し、律令によって「無為の治」が達成できると謳った。無為の治とは、かつて諸子百家が使用した、理想的な統治状態を意味するタームである。無為の治が何によって達成できるか、というのは、賢人の登用と信任によるとする儒家と、法の制定・執行によって達成できるとする黄老・法家に大別できる。武帝は、黄老・法家のレトリックを用いて泰始律令の意義を説明したのであったが、その後も、武帝は策問を通じて、泰始律令をどのように位置付けるべきか、官吏候補生たちに問い続けた。泰始律令の位置付けをめぐって武帝が苦慮したのは何故だろうか。
そもそも、泰始律令は、礼に律令の根本を求めた点に史的意義が認められるが、阮籍や嵆康は、自己の内的な価値観としての「礼」をもって礼教に対峙していた。彼等の同志であった劉伶も、礼教としての性格が強い泰始律令に批判的であったと考えられる。さらに、官品令・貢士令・選吏令・選将令・選雑士令などの令によって人事権を掌握しようとする武帝に対して、傅玄などの朝臣は、「清議の侵犯」であると批判した。武帝は、こうした批判者たちを納得させるために、泰始律令を正当に位置付ける必要があったのである。
夏侯湛は法家・黄老的な「無為の治」に賛意を表明したが、結局、武帝は、それによってしか、泰始律令の意義を説くことはできなかった。儒教的な礼に基づく泰始律令が、儒教的に定位されなかった理由は、泰始律令が「礼」ではなく「法」として見なされたことと、当時の儒教の根本が、法治ではなく人治にあり、皇帝権力への奉仕ではなく、皇帝権力からの自律にあったことに求められよう。黄老・法家的な「無為の治」をもって泰始律令を位置付けようとした武帝からは、西晉「儒教国家」の限界、さらには、儒教以外に皇帝権力強化の術を求めざるを得ない、西晉の曹魏との連続性が見出せるのである。
劉向がその晩年(六十歳半ばか?)に撰した『列女伝』は、模範的な女性の伝記(母儀伝・仁智伝・賢明伝・貞順伝・節義伝・弁通伝)と、「卑賤な身で貴人の傍らに仕えたものの、嫉妬心や不徳から、王朝を破滅させたり国家に災禍をもたらしたりして汚名を残した(惟若孽嬖、亦甚嫚易。淫妒熒惑、背節棄義。指是為非、終被禍敗。)」(『列女伝』小序)女性、いわば「悪女」の列伝―「孽嬖伝」からなる。そこに記録された十五人の女性たちは、「三従」を求められた当時の女性とはほど遠い生き方をした。
ところで、後世、夏の末喜・殷の妲己・周の褒姒は、王朝を滅ぼした「三代嬖女」(『後漢書』「文苑列伝)と総称され、「桀紂」が暴君の代名詞となったように、古代の悪女の代名詞として受け継がれて定着する。ところが、褒姒については、すでに『国語』鄭語や『史記』周本紀などに詳細な記録があるものの、末喜・妲己に関しては、劉向以前の文献にはほんの断片的な記録があるだけで、「孽嬖伝」の内容を伝える資料はない。そして、「孽嬖伝」の末喜伝・妲己伝は、伝の構成や人物像が褒姒のそれらと酷似していることを考えれば、末喜と妲己の話は劉向が褒姒になぞらえて創作したものだと考えられる。
では、劉向はなぜ末喜と妲己の伝を創作したのだろうか。褒姒が周王朝を滅亡に導いたと同様、夏王朝・殷王朝を滅ぼした張本人は、桀王・紂王ではなく、末喜・妲己であるとした劉向の真意はどこにあるのか。さらには、劉向が『列女伝』に「孽嬖伝」を立てた意図は何か。すべて劉向の批判精神、現実政治に対する批判に基づいて意図されたものと考える。劉向の生涯と思想から、『列女伝』、とりわけ「孽嬖伝」が後世にもたらした影響にも言及したい。
前漢後期の劉向の三つの著作『新序』『説苑』『列女伝』は、説話集としての体裁を取るが、しかしそこから劉向自身の思想を読み取りうるとして分析を加えた先学の研究が既に存在する(野間文史「新序・説苑攷」など、池田秀三「劉向の思想」など)。本発表では、先学の研究成果を参考にしつつ、上記三書の、公私の問題に関する論説や説話を取り上げ、劉向思想の一端の解明を試みたい。
『説苑』至公篇第一章では、古の「大公」を実践した者として帝堯を挙げ、その「貴為天子、富有天下、得舜而伝之、不私於其子孫。去天下若遺躧」という行為を「人君之公」とする。ここで劉向は、己の子孫に嗣がせて天下を私物化せず、舜に天下を譲与した堯の行為を、君主の公平さの象徴として例示するのである。
ところで、堯の禅譲を公とする考えは、既に『呂氏春秋』去私篇に見えており、劉向は至公篇にこの考えを採録したに過ぎない。しかし、劉向がなぜ堯の禅譲を君主の公の象徴と見たのかについては一考を要すると思われる。なぜなら、『漢書』の本伝によれば、劉向は、『説苑』を著した成帝の時期、漢室の一員としての立場から、外戚王氏の専横を鋭く批判し、「私門」を抑えて「公室」の立て直しを図るよう度々成帝に進言していたのであるが、この言動と禅譲を君主の公とする至公篇の趣旨とが劉向の意識においてどう結びついていたのかが問題になると思われるからである。
本発表では、如上の問題意識に立ち、『説苑』等三書に見える劉向の公私についての考えに検討を加え、その特色をまとめる。併せて、その公私観の意味するところを、劉向の宦官・外戚との抗争や成帝の継嗣問題など、主として前漢後期の政治的な背景を推定することにより考えてみたい。
中国に「浮屠」(佛教)が伝来したのは前漢末、哀帝元寿元年(前2)と想定される。中国伝来の時期については、様々な伝説があり定めがたいが、元寿元年説は『三国志』巻三十、烏丸・鮮卑・東夷伝、裴松之注引、魚豢『魏略』西戎伝の史料によるもので、通説としてよい。また伝説の一例として、インド阿育王の使者、沙門利防等十八人の賢者が秦始皇帝の時に、布教の為に訪中したとある。この伝説の一部には真実が隠されていると梁啓超は指摘する。仏教史学者、湯用彤はこれを否定、これを支持した後世の仏教徒の説や『隋書』経籍志「亦曰わく、佛書久しく已に流布するも、秦の世に遭いて、湮滅せし所以なり」を「荒誕無据、不可信也」と一刀両断する。
「讖緯」思想は前漢末、政治性の濃厚な符命・讖書・予言書として思想史に登場する。「讖緯」の「緯」は「経」を補うものとしてあり、その一部は司馬遷の時代に已にその思想内容が形成されていたものとする学説も存在する。讖緯(図讖)は「哀・平の際に成るを知る」と讖緯の禁絶を上疏したのは、張衡(後78―139)である。後漢順帝陽嘉三年(後134)太史令張衡は「中興の後より、儒者争いて図緯を学び、兼ねて復た付するに妖言を以てす。衡以うに図緯は虚妄にして聖人の法に非ず」(『後漢書』巻五十九、張衡列伝)と、「讖緯」(図讖)は「哀・平の際」(前1―後1)に成ると指摘する。
問題は「讖緯」の出現と「浮屠」の伝来の時期が奇妙に符節を合することにある。偶々時期が合ったのか。それとも何等かの意図が隠されているのか。書き継がれた歴史はこれを明らかにしてはいない。魚豢『魏略』西戎伝は「昔、漢哀帝元寿元年、博士弟子景盧受大月氏王使伊存口授浮屠経」と伝える。この「大月氏王」の使者、伊存とは何者なのか。本来、ブッダの教えは心身の病を救済するインド医学とも密接に関わる。夷狄、異民族の宗教「浮屠」と「讖緯」の関係を華夷思想の展開を視点として探索し、試論を提起したい。
後漢光武帝の封禅、図讖の宣布、三雍の建立と明帝の儀式、章帝の白虎観会議等々は、「浮屠」に対峙するに擬似宗教として讖緯宗教(儒教)を構築し、補完するにあったと想定できるのではないかと考える。
『管子』は『漢書芸文志』では「道家」に分類され、『隋書経籍志』以下『四庫提要』までは「法家」とされ、金谷治氏は『管子の研究』で「雑家」とするのが適切であろうとしている。この見解の相違は『管子』書編集の統一的視点が見出せない事に由る。勿論この統一的視点については金谷氏も、『管子』書は一貫する思想性として「現実主義的な政治と経済の書であり、自然法的秩序を尊重する道法思想を基底に持つ」斉の「管仲学派」による編集物と指摘している。だが思想は当然現実に対応して生み出されるのであり、又「道法思想」をその思想的基底としながら「雑家」とするならば、これを『管子』の統一的視点とする事には再検討の余地が残るだろう。
そこで本発表では『管子』の「道」の全用例を分析し、『漢書芸文志』が「道家」とした理由を考察し、その全篇を貫く統一的視点が「道」と仮定した場合の内容を検討する。この手懸りとしては、第八十五篇「軽重己」の最初の一文「清神は心を生じ、心は規を生じ、規は矩を生じ、矩は方を生じ、方は正を生じ、正は暦を生じ、暦は四時を生じ、四時は万物を生ず。聖人は因りて之を理め、道徧し。」がある。ここでは「神」から「万物」が生れる過程が述べられ、第十二篇「枢言」の「道の天に在る者は日なり。 其の人に在る者は心なり。」と併せるなら、それが「道」の展開とも考えられるが、同篇ではこの一文だけがその後に続く「時令説」とは異なった趣が有るうえに、しかも同篇自体が錯簡と疑われ、又制作年代も漢代のものであろうとされ、特に取り上げられて来なかった。これは一例だが、『管子』はその他の内容等もこの様な後世からの視点で分解されて来た。しかし、「軽重己」も『管子』の一篇として編集されている以上、編集者は同篇にも思想的共通性を見出していたと考えられる。従って、この編集者の視点を明らかにする事は『管子』の中心思想理解に一歩近づくはずである。
通行本『老子』二五章「道大、天大、地大、王亦大」は、現存する最古のテキスト、郭店楚墓竹簡『老子』甲本で「天大、地大、道大、王亦大」とあり、「道」が「天地」の後にある。「道」を至高の存在とする通行本『老子』は、「道」を第一の地位にするため、通行本の如く語順を改めたと考える。また上海博物館蔵戦国楚竹書『亙先』は、「道」を根源者としない宇宙生成論を展開する、道家系の文献である。後、馬王堆漢墓帛書『道原』は、『亙先』と大変近い宇宙生成論を展開しつつ、「道」の思想体系中に、それを取り込んだと想定できる。
新出土資料をもとにした研究を行う中で、「道」は原初より宇宙生成論の絶対者であったとは言えず、「道」の根源者・主宰者たる地位は時代を下って確立した、と考える。では、通行本『老子』の「道」は、如何にしてその絶対者としての地位を確立したのか、その解明を試みた。
そこで通行本『老子』の「道」を改めて検討した所、三点の矛盾を見出した。
一点目に「道」が他学派に優越するとの主張は、相対的価値を否定する思想とそぐわない。例えば、第一八章「大道廃れて、仁義有り。」は、第二章の相対的価値の否定や、第二二章の「自ら見わさず、故に明らかなり。……」と齟齬をきたす。二点目に「道」は第二一章「道の物たる、惟れ恍惟れ惚。……」とあるように限定不能で感官ではとらえられないが、第三二章等では「侯王」が準拠すべき具体的な対象として明確化されている。三点目に「道」は第五一章で「生じて有せず、為して恃まず、長じて宰せず」と、万物の支配者とならないとされながら、第三○章等では「不道は早く已む。」とあり、「道」に従わないとすぐに滅び去ると、強制力・拘束力をもつ。
本発表では、『老子』が金言集であるとの先学の指摘を踏まえ、これらの矛盾が生じた原因を明らかにすることで、『老子』における「道」概念の確立を明らかにしたいと考える。
これまで『劉子』という書物は、その作者をめぐって活発に議論がなされてきたが、その成果を踏まえると、作者は北斉・劉昼とするのが適当と思われる。だが作者をめぐる問題ばかりが注目され、『劉子』に見えるその思想内容の検討は軽視されてきた感がある。
『劉子』では、すべての物事の価値がその置かれた状況(「勢」)により判断される。ある物事が有価値なのは、その「勢」が「通」なる状態だからなのである。だが物事自体はその「勢」には作用しない。
こうした発想は人についても同様である。『劉子』では、才ある人物が識者や君主に見出され、それに頼ることで仕官してその才を発揮するという過程がしきりに説かれるが、これもその人物の「勢」が「通」なる状態であるために可能なのである。
さてこの「勢」は、やはり自らの「性」(才や徳)によって「通」なる状態にすることはできない。だが「勢」の「通塞」は絶えず変化し、常に「通」あるいは「塞」という状態にあることはない。また「性」は、外界からの刺激を絶って「理神」、「去情」、「得真」といった状態を実現すべく養うことが求められ、かつ「勢」の「通塞」に関係なくどんな状況でも養うことができて、「勢」が通じたときには存分に発揮されるものである。そのため、「性」を養って「勢」の通じる状況に備え、その状況の到来と同時に世に出て仕官し、養った「性」を存分に政治の場で活かすという志向が『劉子』には一貫して見られる。そしてこれが、九流篇において一人の人物が兼ね備えるべき態度とされる「嘉遯の士」と「治世の賢」に対応する。つまり「嘉遯の士」として「性」を養い、いつか「勢」が通じたときに「治世の賢」として「性」を政治の場に揮うことを常に志向するのである。
本発表では、上述のような劉昼の思想の構造を検討し、加えてそれを、劉昼の一生および北朝という社会の中に位置づけてみたい。
方以智「物理小識自序」(一六四三年)については、方孔炤から受けついだ質測・通幾という概念をめぐって研究の蓄積がある。近年、蒋國保氏は質測=科學・通幾=哲學という「公式」を批判し、「宋明理学家の思想方法の視角」にも檢討を加えている(『方以智與明清哲學』二〇〇九年)。本發表も、質測と通幾の内容を檢討するものであるが、「自序」の記述に立ち返って檢討を行いたい。
「自序」の冒頭は、「盈天地間皆物也、人受其中以生、生寓于身、身寓于世、所見所用、無非事也、事一物也」であり、さらに「聖人制器利用、以安其生、因表理以治其心、器固物也、心一物也、深而言性命、性命一物也、通觀天地、天地一物也」とつづく。ここで繰り返されている「~は一物なり」という論法は、『傳習録』巻上において、徐愛の問いにみられる「格物的物字、即是事字」に對し、それを是とする王陽明の答えにもみられる論法である。方以智は、はっきりと典拠を示していないが、これらの格物説を念頭におき、「自序」を書いた思われる。すると、まず「事は一物なり」が問題となる。「事」は陽明によって「意の在る所便ち是れ物」と言い換えられている。一方、方以智は説卦傳に拠り「天地の間に盈つるは皆な物なり」を前提として、「事」こそ「一物」であるとし、陽明の格物説に一種の顚倒をほどこし、さらに「心」さえも「一物」であると斷じた後、物に貫かれた天地において可能な認識方法として質測・通幾を提唱するのである。以上の理解をふまえ、「自序」を再檢討し、質測・通幾の内容を定義したい。
王守仁が、いわゆる「本体即工夫」論(『伝習録』下巻・第六六条等)を唱えて以降、本体と工夫との相即関係が後継の思想家らによってしばしば議論の俎上に上せられたことは周知の通りである。本発表では、明代最末期の思想家・劉宗周の本体工夫論を取り上げ、その構造を検討する。その前提となる手続きとして、まず劉宗周の、とりわけその晩年期の思想の基調の一つをなしている、いわゆる「二元論批判」(岡田武彦氏の用語)を検討する。これは、哲学的諸概念を、理・性・道心(前項)/気・心・人心(後項)といった形で、二対の概念に分節して考える二元論的思考に対する批判である。劉宗周は、前項が後項から独立したものとして浮き上がり、結果として一つの不変なる実体(もの)と見なされてしまう(そのように仮想されてしまう)ことを危惧した。それがある種「理障」となって、〈現実〉〈現場〉における働きに支障が出るからである。そのため、繰り返し、前項は後項においてのみ顕現し、それと混融したかたちで在るものであると説き、前項を後項へと消化・吸収させ、対関係を撥無していく。気の作用から独立した理、心の働きから独立した性、人心から独立した道心などというものは、この〈現実〉〈現場〉には存在し得ないものであって、観念上においてのみ想定可能である。しかし、そういったものはもとより〈現実〉〈現場〉とはなんらの関わりも持つものではなく、かえって害をもたらすものである。劉宗周の「本体/工夫」論も、明らかに如上の二元論批判と同様の構図とバックグラウンドとを持つものであると考えられる。
本発表では、これらの相関関係について考察を加え、劉宗周思想の目指すところを探求したい。
1―15 『天学初函』における『職方外紀』の位置について ―イエズス会士が伝えたもの―
明朝末期(16世紀末)から清朝中期(18世紀)にかけて来華した、カトリック・キリスト教(天主教)の宣教師であるイエズス会士は、中国に多様な西洋文化を伝え、また多くの著述を残した。その一つの成果が、李之藻(1557~1630)等が中心となって編纂し、崇禎二年(一六二九年)に出版した叢書『天学初函』である。この叢書は出版翌年には、日本にも将来されている。
この『天学初函』には、「理編」として主に「天主教教義」に関する書物十種が、「器編」として主に科学技術(暦算、代数学、天文、測量など)に関する書物十種が分類されている。本発表で扱う『職方外紀』(一六二三年刊)は、イタリア人イエズス会士である艾儒略(Julio Aleni, 1582~1649)が撰著した、「世界地理」に関する「地誌」(地理情報書)的性格を有する書物であり、「理編」に分類され収められている。
従来、この「地誌的性格」を持つ『職方外紀』が何故、「理編」に分類されているのかについて、『四庫全書総目提要』(巻二十六 子部 『天学初函』の項)に「其理編之職方外紀、実非言理。蓋以無類可帰、而綴之於末。」とあるためか、管見の限りではほとんど考察されてこなかった。その点に関して本発表では、『職方外紀』が何故「理編」に分類されているのかという理由、及びその「分類」そのものに対する見解を通して、明清期中国や江戸期日本における知識人の意識、について考察したい。
1―16 明末天主教書における霊魂について―その「行」に関する一考察―
天主教は、唯一の超越的創造主、天主を宗とする教えである。明末天主教の嚆矢は羅明堅(Michel Ruggieri,1543-1607)の『天主聖教実録』だが、明末に来華した利瑪竇(Matteo Ricchi,1552-1610)の『天主実義』は、中国古代の儒学思想を顧慮しており、後世に与えた影響が頗る大きい。
耶蘇会士たちは、華語を理解し、儒教の「上帝」概念を天主教説に援用しながら、宋明理学に対しては否定的な態度を取った。他方、西欧自然科学の知識をも併せ説き、中国士人がこれらを総じて「天学」と呼称していたことは周知の通りである。
しかしながら、彼らは天主教書において、宋明理学の思想概念を活用していた。そのため龍華民(Nicolas Longobardi,1559-1654)は、利瑪竇の教説が儒教と天主教との区別を曖昧にさせるとして、利瑪竇の布教方針から転換をはかった。龍華民が著した『霊魂道體説』には、「霊魂」と「道体」とが簡明に説かれているが、耶蘇会士がこのような著作を必要とした背景には、「今稱靈魂者、往往以道體當之」(自序)とあるように、中国士人が天主教説を誤解したことに対する憂慮があったのである。
霊魂については畢方濟(Franciscus Sambiasi,1581-1649)の『靈言蠡勺』などに詳しい。いったい人間の本質と理解されていた霊魂は、中国思想に対して如何に説かれたのだろうか。
従来、伝統思想との比較を通し、東西思想上の概念をそれぞれに明らかにしていくといった基本的な論考は為されているが、しかし形而上なる不可視の霊魂を、天主教の知識に乏しい中国士人に具体的にどのように理解させようとしたのだろうか。本発表では、先行研究を踏まえつつ、耶蘇会士たちが儒教思想を如何に顧慮したのか、天主教書における霊魂観について考察を試みたい。
清代の思想家・全祖望〔1705―1755、字は紹衣、号は謝山、浙江寧波の人〕の文章を読んでいると、しばしば「鈔」(書き写す)という表現を目にする。例えば、「永樂大典から鈔写した」、「天一閣所蔵のものを鈔写した」といった類の表現である。また、これら「鈔」に関わる記述は誇らしげとも感じられる書きぶりであることが多く、「鈔」に対する全祖望の深い思い入れをそこから看取することができる。本報告では、そのような、全祖望における「鈔」という行為の意味を考察したい。
具体的には、彼がどのような機会に、どのような書籍を「鈔」したのかを確認し、その上で、彼における「鈔」という行為の実相を検討していく。その中でも特に、「城北鏡川書院記」(『鮚埼亭集』外編巻十六)、「雙韭山房藏書記」(同巻十七)といった文章を分析しながら、先祖親族や同郷の先人たちから彼が引き継いだ「鈔書の精神史」とでも呼ぶべき事柄を摘出していきたい。
そのような検討を通して、「書籍の入手が困難だったから」とか「彼が貧乏学者だったから」とかいった一般論には回収できないような、さらには、「書き写す」という行為から連想されやすい「非主体的・没個性的で退屈な作業」といったイメージを裏切るような、彼の「鈔」に対する強い思い、およびそれが彼の学問に占めている意味合いの大きさについても指摘してみたい。
人材選拔の大典としての科擧は一貫して統治者に重視され、元代以降、程朱の理學は人材登用の主要な標準となり、清代の科擧制度も基本的に程朱の學説を人材登用の準則とした。ただし、清代中葉、いわゆる乾嘉期に至ると考證學が學界における主流の地位を占めるようになり、その影響で乾隆十年(一七四五)以後、殿試の策問に經史方面の内容が加えられるなどの變化が認められるようになり、科擧における理學の地位は相對的に低下した。さりながら、かかる變化は限定的で、讀書人が人材登用の標準と試驗内容に關して認識を改める必要性はなく、彼らが學んで身に着ける必要があったのは、理學家の教説と八股文の作文技法であった。
清代の科擧に關する一般的な見方は右の範圍を出ないと思われ、全體的な傾向に關する限りにおいてこの通念が覆ることはないであろう。しかし、とりわけ乾嘉期に盛行した考證學が科場に及ぼした影響は微細でなく、これまで看過されてきた檢討課題だと言える。報告者はその問題意識をもとに考察を進め、當時において少なからぬ考證學者が世俗的な成功を收めることができたのは、郷會試の第三場、すなわち考證學者たちがその能力を發揮しやすい策問に重點を置いて採點を行なう一群の考官が出現していたことが關係していることを明らかにした。
しかし現在までのところ、科場における考證學者たちの成功をもたらした要因に關する究明が十分になされているとは到底言えない。そこで本報告ではここまでの研究成果を土臺として、乾嘉の學の盛行と科擧試驗の關連について檢討を加える。第三場のみならず、八股文が課された首場も考察の對象に含めて、科擧試驗に對する徴實重視の學風の影響を調査した上で、考證學に從事する士人が陸續と官界に進出した背景の一端を解明してみたい。
第二部会 哲学・思想Ⅱ
2―1 〔養老令・学令〕の「凡教授正業…論語鄭玄・何晏注」をめぐって ―日本に「論語鄭玄注」は伝わったのか―
奈良、平安時代に主として読まれた「論語注」は、魏・何晏の「論語集解」十巻であり、ついで梁・皇侃の「論語義疏」十巻であった。それでは中国で「論語集解」と並び行われた鄭玄の「論語注」十巻は、日本においてはどうであったのだろう。〔養老令・学令〕に「凡教授正業…論語鄭玄・何晏注」と記され、また藤原佐世「日本国見在書目録」に「論語十巻鄭玄注」と記載される。〔養老令〕がほぼ唐令を襲うものであるとしても、日本で鄭玄の「論語注」が読まれた可能性まで否定するわけではない。しかし〔養老令〕の注釈である「令集解」を始とする諸書の「論語注」の引文、また奈良・平安時代の「論語」の木簡からは、当時読まれていた「論語注」が何晏「論語集解」であることを示すばかりで、鄭玄の「論語注」が読まれていた形跡は見出せない。さらに「令集解」が引く「穴記」の説「鄭玄注者、非今所読、而別有鄭玄注之論語一種耳」は、「穴記」の撰者が鄭玄の「論語注」を見ていないことを示すようである。これらを考え合わせると、日本には「論語鄭玄注」は伝わっていないのではないかという結論をくだし、〔養老令〕の「凡教授正業…論語鄭玄・何晏注」は当時の実状と明らかに異なるとみるのである。
五代十国期とは、安史の乱以後、衰弱の一途を辿る唐朝が、後梁によって帝位を簒奪されたことを発端としている。その後、後梁から後唐・後晋・後漢・後周と中央政権が目まぐるしく代わり、北漢を除けば江南地方や四川地方等に王と称したり皇帝を称したりする君主達の国々(王蜀・孟蜀・南唐・呉越・呉・南漢・北漢・閩・荊南・楚の十国の他、劉氏の燕・李茂貞の岐等)が乱立し、北宋が中国を再統一するまでの間続くことになる。期間的には大体五十数年という短期ではあるが、唐から宋への過渡期として重要な時代である。
中でも、王蜀という地方政権は、その先主 王建の存命中は、地方政権でありながら、中央政権である後梁と対等に付き合える関係を持ち得た。それは、文献が知らしめている。
正統論が盛んになる宋代に著された張唐英の『蜀檮杌』に於いては、その存在を否定せず、賛でもって擁護するというかたちを取っている。蜀出身である張唐英の様々な思いが其処にあるのではないかと思われまいか。
一方で、欧陽脩は江南の出身である。『新五代史』世家中に於いては、江南である呉・南唐以外で、王蜀(前蜀)にしか賛を付していない。それも瑞祥関係に抵たることにである。
さらに、欧陽脩は偽梁という概念を否定する。当時には異端扱いされてもおかしくないことである。これは如何なることであろうか。
王蜀・張唐英・欧陽脩。その三者を鑑み、当時の思想の一端を解明したい。
2―3 東アジアにおける「礼」の特質と機能について―「礼」認識と「礼」受容の困難さ
『礼記』郊特牲篇に「その数は陳ぶ可きも、その義は知り難し」と述べられているように、「礼」はその意義について明示的に語られることが少なく、古来、その特質や機能を全体的に認識することは困難であった。今回の発表の主旨は、基本的にその困難性を了解するに在る。
具体的には、大清国光緒期と日本帝国明治期における祭祀の位置づけ方の対比を通して、考察する。「光緒期」としたのには、それほど厳格な意味はない。たまたま使った資料が『光緒会典』だったという事情と、明治期と同時代であり対比に適していると考えたからにすぎない。
特質・機能の認識困難性は、『礼記』の文言に見る如く古来からのものであるが、前近代の中華の文明の直中で生きている人々にとって、意義はある程度自明であり、困難性を解決する必要もあまりなかったのだろう。要するに、「礼」から離れたり外れたりしていないとされれば、それで良いのであって、実際それで済んで来たのである。しかし、その周辺部に当たる日本において謂わば外部から取り組む場合は、そうも行かなかった。
今回は、その「礼」受容ぶり〔非受容ぶり〕を通して認識困難性の由って来る処に迫り、「礼」の特質と機能に、一定の角度からではあるが照明を当てたい。
*「礼」研究の基本文献の一つに、西晋一郎・小糸夏次郎著『礼の意義と構造』があるが、西は広島大学の母体の一つ、広島文理科大学の教授を、小糸は三年間その専任講師を務めている。小糸夏次郎については、「小糸夏次郎小伝」をまとめたので、関心のある方は11月以降に埼玉大学の論文公開サイトでご覧いただきたい。「小糸夏次郎小伝」→検索で閲覧、ダウンロードが可能になる。
*この発表は挑戦的萌芽研究〔課題番号21652004〕の研究経過の報告である。
第三部会 文学・語学Ⅰ
本論は『詩經』國風の畳詠構造を手掛かりにその詩の構造分析を行い、歌謡形式と脚韻規則について考察するものである。國風は四句からなる畳詠構造が多いので、毎章同じ句を繰返す反復句をA、非反復句をB、同じ章に同一句が続く尻取り句をCとして各詩をABCで記号化し(これを歌謡型と呼ぶ)、篇ごとに最も多い中心歌謡型を調べた。周南、召南、王風などの中心歌謡型はAとBで脚韻を変えるABAB型(東遷以降は詠嘆部が付加されたABAB+α型)で、唱和に適している形式と考えられる。邶風、鄘風、衛風などの中心歌謡型は章ごとに脚韻を踏む句を変えるBBBB型で、叙事性に優れている形式と考えられる。唐風・檜風の中心歌謡型はAとBで脚韻を変える起承転結のBBAB型で、叙情性に優れている形式と考えられる。
また、詩の内容との関連を見ると、いずれの地域でも愛と辛さを主題にした歌にはその地域の中心歌謡型が多く使われ、歌垣・祝頌はABAB型、叙事詩はBBBB型が多い。しかし、その他の内容の歌では上述の歌謡型の地域差が見られない。この三つの歌謡型だけは國風のどの篇にも見られるので、それぞれ周、殷、およびそれ以前の唐地域を基盤とする王朝の文化(おそらく夏か?)と対応するものであろう。その他の歌謡型は分布が限られるので地域文化であろう。たとえば、二句または三句からなる短句詩は召南に多く、衛三国には見られない。これらは一例を除きBのみに脚韻を踏む。尻取り句を含む詩は王風に多く、BとC全てに脚韻を踏み、章の最後がBCBで終わる形式を取る。これらの結果を基に、國風の脚韻規則は歌謡型に規定されていること、三つの歌謡文化の特徴、歌謡文化圏の範囲、発祥地、各歌謡型の起源、時代・歌謡型の伝播にともなう構造の変化、衛三国の歌謡型の差異、周南・召南の歌謡型の差異などについても論及することにしたい。
3―2 「關雎」再考―『詩経』「關雎」篇における「再生産」の技法について―
『詩経』「關雎」篇に関して、その形式上の特異性から、現存テキストは「錯簡」や「綴合」の痕跡が認められると、すでに青木正児をはじめとする多数の研究者から指摘されたところである。この問題は、『詩』の経典化を遂げた以前に、あるいは経典化そのものの過程において、『詩』テキストは固定したものではなく、極めて流動的であったことを強く示唆している。
本発表は「關雎」を主な例として、句、章、篇に渡って多層的に見られる『詩経』テキストの流動性は何を意味するのか、を考えようとするものである。
現存「關雎」篇は、上述の研究者が指摘した第二章と第三章の間に見られる形式的な「断絶」とは対蹠的に、「寤寐求之 求之不得」という強力な「繋ぎ」としての「頂真格」も見られる。実際、「頂真格」は詩経に多く使用される技法ではあるが、「章繋ぎ」としての「頂真格」の用例は国風諸篇のなかで、この「關雎」篇一例のみである。このような極めて人工的な「頂真格」の使用は、先に存在した幾つの詩篇の断片による「綴合」としては解釈しきれないといわざるをえない。
それに加えて、第三章の「求之不得、寤寐思服。悠哉悠哉、輾轉反側」が、『詩経』に多く見られる常套表現(formulaic expression)からなるものであることと考え合わせてみれば、現存テキストの製作者はある必要に応じて敢えて自ら第三章を製作し、このような「異形」の「關雎」篇を作ったという可能性も出てくるであろう。
「關雎」篇における二つのリフレーンの手法(いわゆる「畳詠形」と「頂真格」)と常套表現は、実際、『詩経』全体に渡って多く用いられ、多数の詩篇を支える重要な技法と言っても過言ではない。このような詩の「製作技法」は、『詩』が内包する、つねに再構成を可能にする「再生産(reproduction)」のメカニズムとして、見ることもできるのであろう。
3―3 北周趙王「道會寺碑文」の問題点 ―聖武天皇『雑集』中の「周趙王集」に基いて―
北周趙王宇文招(五四五?―五八〇)の文章は、『周書』本傳に「集十巻」と記されているが、中国本土ではほとんど失われてしまった。対して、わが国の聖武天皇宸翰『雑集』中に「周趙王集」として七篇(うち一篇は四篇の集まりなので、一〇篇と数えることもできる)が保存されていることは、注目に値する。筆者はそれについてこれまで訳注と分析を試みてきたが、その中の最長の作品である「道會寺碑文」は錯脱が多く、十分な分析ができなかった。
この間、検討と調査を経て、ようやくこの「道會寺碑文」の内容とその重要性について発言できるようになったと思われる。「道會寺碑文」が持つ意味は、六世紀後半の北朝王族によって、どのように仏教がとらえられていたかを、よく示している点にある。また同時に、南朝出身の庾信の影響を受けた美文によってどのようにその思想が展開されたかを見ることができる点にある。
趙王宇文招は、西魏の実力者宇文泰(北周太祖・文帝)の第七子。北斉を滅して華北を統一した北周武帝の弟であり、文学の面では庾信の影響を強く受けた。また、思想の面では仏教信仰を深く持っていたと考えられる。聖武天皇『雑集』中の「周趙王集」は、全て彼の仏教信仰にかかわる文章である。
「道會寺碑文」は、その「周趙王集」中の最も長大な文章である。(そればかりでなく、『雑集』全体の最雄編でもある。)この文章を、以下の諸点に即して分析したい。
一 道會寺という寺の所在地。その所在地の持つ意味。
二 碑文中に描かれている仏教を外護する「皇帝」像をどうとらえるか。
三 碑文中の「銘」に微かに見られる末法思想の位置付け。
四 碑文の歴史的意味と、後代及び東アジア世界に持った意味。
右のような問題点に即して碑文を検討し、仏教者にとって困難の多かった時代背景との関わりの中で、六朝美文の最後の世代の動きについて考えたい。
3―4 沈佺期・宋之問の「變格」五言律詩について ―張九齢・王維の五律との比較をもとに―
唐の高宗期(六五〇-六八三)・武后期(六八四-七〇四)の間に確立したといわれる近體詩律は、中宗期(七〇五-七一〇)の代表的な宮廷詩人である沈佺期(六五六?−七一四?)・宋之問(六五六?-七一二?)らによって実際に運用され、五言律詩、五言排律、五言絶句という五言詩の近體化・定型化がまず推し進められた。ところが、沈・宋の近體詩の平仄配置や對偶表現の実情を仔細に見ると、今日の我々が知るところの厳格な近體詩律を遵守した作品(これを仮に「正格」と呼ぶ)のほかに、それをやや逸脱した作品(これを仮に「變格」と呼ぶ)も見受けられる。本発表では、沈・宋二人の五言律詩を対象に、その近體詩律の運用状況を詳細に調査しながら、彼らの「變格」五言律詩に見られる諸特徴を明らかにしてみたい。
と同時に、玄宗期(七一二-七五五)を代表する宮廷詩人である張九齢と王維の五言律詩を同様の手法で調査し、沈・宋の五律作品との比較を試みることにより、中宗期と玄宗期の宮廷詩壇における近體詩律の運用状況の違いがより明確になると思われる。近年の報告によれば、玄宗期には後世のいう「拗體」五言律詩がすでに多産され始めており、近體詩律を故意に逸脱した作品が数多く存在するといわれる。よって、沈・宋が残した「變格」五律の実作が、その後の「拗體」五律の盛行に、どのようにかかわっているのかを知ることも、唐詩における近體詩律の研究上、必要なことであろう。
3―5 元稹「楽府古題序」の矛盾―元稹の文学観における「古」と「新」―
中唐の詩人元稹は、元和十二年(八一七)に、劉猛・李餘という二人の若き士人と十九首の古題楽府を唱和している。その唱和に至る経緯を記したのが「楽府古題序」である。さらにこの序文には、元稹による「歌詩」の定義、楽府の沿革までもが書き記されている。元稹の古題楽府十九首には、かつて元稹がリアルタイムに接してきた徳宗朝の世相を背景として、盛唐の李白や現今の楽府作家李賀たちの楽府作品が意識されている。
ところで、元和初期に白居易や李紳たちと共に「新題楽府」を展開した元稹が、一体なぜ古題楽府を制作したのであろうか。元稹は「楽府古題序」において、杜甫の作品に感銘を受けて、「復た古題を擬賦せず」とまで表明しているにも関わらず、古題楽府を制作した理由については、十分に弁明しているとは言い難い。元稹は「新題楽府」制作から二度の左遷を経て、多数の「古詩」を制作している。これに対して、白居易は元稹の詩風の変化を指摘し、詩経の作者たる風格を認めている。さらに、折しも韓愈をはじめとする古文家の運動が隆盛に向かい、この当時の文学的趨勢は「復古」へと傾斜していく。そのため、「復古」を志向した文学作品の制作は当時の文壇における要請であった。そして、これを察知した元稹の文学観は「古」と「新」とをめぐって大きく揺れ動いていたと考えられるのである。従って、「楽府古題序」に表面化した「古題」と「新題」とをめぐる矛盾は、元稹の文学に対する理念の変遷過程を考察する上で重要な意義を有していると思われる。
それでは、元稹の文学観において、「古」とは一体何を意味しているのであろうか。また、如何なる文学作品を「新」と考えていたのであろうか。本発表では、元稹「楽府古題序」制作の背景を捉え、元稹を通して中唐文学における「古」の意味について考証したい。
「夢井」は、元稹が亡くなった妻韋叢を偲び、元和五年(八一〇)に詠んだとされる悼亡詩である。「夢井」の特徴のひとつは、「今宵泉下人、化作瓶相警」とあるように、夢の中の高原で男性が井戸を見つけて、底をのぞき込むと、亡くなった妻が瓶(つるべ)となって現れる点にある。以前発表者は、詩歌と小説に描かれる井戸の違いを検討し、瓶に“魂の依り代”としての機能があるという民俗学的視点を用いて、「夢井」の独自性を考察した(『東方学』一一六、二〇〇八年)。本発表は「夢井」において男性が二度行っている「遶井」という行為に着目し、この作品をさらに深く理解することを目的とするものである。
「夢井」に対しては日中で多くの研究がなされているが、「遶井」という語が取り上げられた例は管見の限り見られない。しかし日本の民俗学では「めぐる」という行為そのものの意味が考察され、中山太郎氏や江守五夫氏らによって、ものの周りを「めぐる」行為は、神や死者の魂の送迎儀礼、および、葬送儀礼の意味合いがあると指摘されている。中国の文献においても、『礼記』「檀弓下」には、延陵の季札が、息子の墓をめぐって嘆いたと記されており、『儀礼』「士喪礼」、唐詩など様々な文献に、ものの周りを「めぐる」行為が記録されている。
これらを検討することを通して、「夢井」における「遶井」の意味を考察し、合わせて、「めぐる」のように、ある一定の行為に着目し作品を読み解くことの可能性を探りたい。
北宋の文人蘇軾(一〇三七~一一〇一)の晩年の代表作とされる「和陶詩」の端緒となったのは、元祐七年(一〇九二)に詠まれた「和陶飲酒二十首」であり、蘇軾はそれを弟の蘇轍(一〇三九~一一一二)と弟子の晁補之に贈与した。後に二人はこれに和韻し、とりわけ蘇轍は、兄蘇軾の求めに応じて最終的に44首の和陶詩を詠んだとされる。「和陶詩」は、蘇軾の生前に全四巻の詩文集として編纂されたが、現存する南宋黄州本『和陶詩集』(現台湾故宮博物院蔵)には、陶淵明の原詩、蘇軾の和詩とともに、これらの蘇轍の和詩も収録されている。また、蘇軾・蘇轍は、晁補之だけでなく蘇門四学士(黄庭堅、晁補之、秦觀、張耒)を始めとする蘇門の弟子たちにも和陶詩を詠むことを薦め、特に陶淵明の代表作であり、『和陶詩集』の最後に収録される「歸去來兮辭」に、共に和韻することを切望した。このように、蘇軾は和陶詩の継承に対して強い意志を持っていた。そして、蘇軾の没後には蘇轍がそれを受け継いで和陶詩の保管と伝承に努め、現存の『和陶詩集』が完成したのである。
今回の発表では、このようにして成立した『和陶詩集』の継承にあたって、蘇轍が果たした具体的役割を照射する。特に、蘇轍の制作した①『和陶詩集』序文、②蘇轍和陶詩、③蘇門の弟子たちの和陶詩及び和陶詩に言及する散文等から、蘇轍の和陶詩に対する取り組みの変遷について、また、紹聖元年(一〇九一)以降、長い苦境下におかれることになった蘇門の師弟の和陶詩を通した文学活動について、それぞれ分析を試みる。それによって、北宋末期における「和陶詩」の影響とその編集活動の展開について総括的に論証し、更に、宋代の師弟関係や文学継承の在り方について考察したい。
3―8 虎を見る目の変化 ―『醒世恒言』「大樹坡義虎送親」と『水滸伝』から―
明代の短篇白話小説集『醒世恒言』に「大樹坡義虎送親」という話が収められている。その入話は、他人の妻を奪おうとした男を虎が殺す話であり、正文は、以前人に助けられた虎が、他家へ嫁がせられそうになった恩人の婚約者を奪いかえすことによって恩に報いるという話である。この「非道徳的な行為をした人を罰する」、「約束を守る人を助ける」、「恩を返す」という行為は同時代の白話小説中で「義挙」と見なされるものであり、「義挙」をなす虎を「義虎」と称したのだろう。これらの行為をする虎はいずれも前代の作品に来源あるいは類話を見出せる。しかしそれらはまったく同じ形のまま受けつがれたのではない。特に正文は、志怪・伝奇では異なる故事類型に見える無関係の行為であったものがのちにあわせられてできた故事類型である。この三種の形象の、志怪・伝奇から明代白話小説までの継承、変化の過程を追ってみると、虎に対する見方が「何らかの理由で人を助けるものの、結局は人界と自然界とにわけ隔てられた根本的に異なる存在」から「心の持ちよう次第で相互理解も可能になるもの」へと変化していくさまがうかがえる。
一方、同じく明代の白話小説であり、「義」の物語として知られる『水滸伝』に現われる虎はいずれも義虎ではない。なかでも母に孝を尽くそうとした李逵が、山中で虎に母を食われてしまうという場面は、「義虎」形象とは正反対の趣向である。『水滸伝』は虎を徹底して野生の凶暴な獣として描写し、「義虎ではない」ことを明確に主張し、義虎を思わせる一切の要素を排除しているのである。
同じ明代にまとめられた「大樹坡義虎送親」と『水滸伝』が、かたや「外見こそ獣であるが、人と同様、心が通じれば分かり合える存在」、かたや「人とはひとすじの共通点もない猛獣」というまったく異なる虎の見方を示している現象についてまとめ、報告したい。
3―9 『李卓吾先生批評西遊記』の版本について ―「広島本」の真価―
『李卓吾先生批評西遊記』と題する版本(以下李卓吾本)は十本の伝存が確認されている。太田辰夫氏は『西遊記の研究』(研文出版、一九八四年)においてこれを内閣文庫藏本などの甲本、宮内庁書陵部藏本などの乙本、そして広島大学と広島市立中央図書館浅野文庫とに同版の二本が残る丙本の三種に分類し、乙本は甲本に基づく重刊本、丙本は封面の印記を根拠に清刊本と判断し、甲・乙本とは別系統の「未知の明刊本を継承する清刊本」だとの見解を示された。
その後、磯部彰氏により丙本の挿図が現存最古の世徳堂本や『唐僧西遊記』といった李卓吾本に先行する版本のそれと類似することが示されたが、本文を比較しての先後関係の検討はされることのないまま、丙本は今日まで甲・乙本に比べ軽視されて来た。
筆者はこれまでに甲・乙・丙各種の原本を二本ずつ閲覧し、影印本やマイクロフィルムも含めると八本の李卓吾本を調査し得た。その上で三種の本文と批評の全面的な比較を行い、世徳堂本各種や閩斎堂本(唯一李卓吾本と同じ批評を持つ文簡本)とも対照した結果、丙本の本文は世徳堂本と甲本の中間に位置すること、甲本と乙本には無く丙本と閩斎堂本にはある批評が多数存在することが判明した。前述の磯部氏の指摘を併せれば、丙本は甲・乙本よりも李卓吾本の初版本に近い内容を持つと断ぜられよう。更に、丙本の版木は太田氏の見解に反し明刻らしき節があり、初版そのものの後修本である可能性も十分にある。
また、本文の比較結果から、清代の『西遊証道書』や『西遊真詮』の直接の底本は世徳堂本ではなく李卓吾本で、それも丙本系統ではなく甲・乙本系統らしいことも分かった。
本発表により、広島県にのみ伝わる丙本――「広島本」と呼ぶことにしたい――が『西遊記』版本史上で果たした役割とその意義とを明らかにしたい。
3―10 『曹操の書牘文について―その作風と執筆態度を中心に―
東漢末、曹操の文学奨励策により、文学は建安時代にその隆盛期を迎えた。実質の執政者である曹操の下、建安七子等当代きっての文士が集い文学サロンとも謂うべき集団を成した。曹操の子、曹丕と曹植は皆に天賦の才を後世に讃えられた文学者である。彼らを中心に君臣の枠を超え行われた文学活動は、時代の文学風貌を一変させ、文学を新境地へと主導した。魯迅の謂う「文学の自覚」がそれである。彼らの主要創作は詩、楽府、賦だったが、書牘も『文選』に十四篇を収め、「書」類の五十八%が彼らによって占められている。それらは建安文学を代表する「魏晋風骨」、や「慷慨」、「華麗」の風格を十分に蕹した文章である。
建安の文学者らが文藻華麗な文章を次々と創作する中、曹操の書牘文は独自の風貌が顕著である。曹操文学は一般的に詩、楽府が高名で、中でも五言詩の定着に貢献した。それらは正に建安文学の特徴である社会への「慷慨」、人生への「感慨」を歌った人間味溢れる作風を以て劉勰『文心離龍』に「魏武以相王之尊、雅愛詩章」、鍾嶸『詩品』では「曹公古直、甚有悲涼之句」と評された。
ところが、曹操の書牘文には建安文学の特徴である文藻華麗は凡そ見られない。公文である令、教が一部を除いて甚だ簡素で短文であるのは当然と言える。建安文人は競ってその文才を書牘文に発揮した。が、曹操はそこに自らの心境を自由に、素直に告白していく。時に彼の文は非常に事務的であつたり、読み手の心情に無配慮であつたり、送ること自体が無意味に思われるものすらある。さにも係わらす、相手の説得にも成功している。「清峻、通脱」は作風のみならず、その執筆態度へも及んでいるのである。
曹操の書牘文は従来余り研究されていないが、その文人としての執筆態度を考察する上で看過せない対象である。本発表では曹操の詩、楽府と書牘文、又建安文人のそれとも比較し、作風の相違と執筆態度の特異性を明らかにしたい。
西晋左思(二五三?~三〇七?)の「三都賦」は、「洛陽紙貴」の故事によって知られるように、制作当初より高い評価を得た作品である。また、この賦には現在の『文選』諸注本に明らかなように、左思と同時代人である劉逵・張載・衛権の注釈が現存する点が注目される。
周知の通り、晋代以前において注釈という行為は、主に経書に対して行なわれるものであった。しかし、三国から晋代にかけて、辞賦等の文学作品にも注釈が施されるようになった。張衡「二京賦」に対する薛綜(三国呉の人)注や司馬相如「上林賦」「子虚賦」に対する郭璞(二七六~三二四)注が著名である。ところが、薛綜・郭璞らの注釈と「蜀都賦」「呉都賦」(『文選』巻四・五)に残る劉逵注とは、その注釈の方式に明らかな変化が見られる。字義解釈や段落毎の大意の説明に終始する薛綜・郭璞らに対し、劉逵注は「三都賦」の表現について文献的根拠を挙げるのみならず、作品に登場する事象、とりわけ動植物などの事物に対して、その性質や形状、生息地域などの詳細な解説を施し、また地方志や『竹書紀年』など、当時宮中に秘蔵される最新の文献資料を利用していることも注目される。発表者は、このような劉逵注の変化は、当時の書写媒体の変化、すなわち紙の浸透が大きな原動力になったのではないかと推測する。簡牘中心の書写形態から、紙の使用範囲の拡大によって、何が、どのように変化していったのかを、この劉逵注(李善注及び日本旧鈔本文選集注本所引)から実証していきたい。本発表は、単に辞賦の解釈史というのみならず、六朝時代における文学そのものの在り方を考える上でも重要な意義を持つものと考えられる。
後漢に出現したという紙は、何時頃より一般化したのか。「三都賦」と同時代注(主として劉逵注)の在り方を通して、このことを考えたい。
3―12 馬琴の『曲亭伝奇花釵児』にみる李漁の『玉搔頭伝奇』
本発表では、馬琴の中本型読本『曲亭伝奇花釵児』と、その粉本である李漁の戯曲『玉搔頭伝奇』の比較研究を行う。具体的には、両作の趣旨や創作技法における差異について分析し、馬琴がどのように李漁の作品に影響を受けたか、『花釵児』が読本の歴史の中でどのように位置づけられるべきかを明らかにしたい。
まず、『玉搔頭』の「家門」と『花釵児』の「拈要」を比べ、『花釵児』は『玉搔頭』の明示する「忠臣を鑑別すれば、国を長く治められる」という趣向を直接には掲げていないことを示す。
次いで、両作の主人公である明の武宗と足利義輝の形象について見る。李漁は『玉搔頭』に、明末文人にとって新たな道徳の基準であった「真情」を導入し、「情痴」という理想的な特質を武宗に与えたが、馬琴はストーリーの流れを調整するため、無責任な君主のイメージを義輝に付与している。馬琴は義輝に対する嘲弄を通して、李漁の「君主はこうするべき」という勧懲の意図を明白に表現する技法を、「君主はこうするべからず」という婉曲な表現に変更した。
さらに、両作のヒロインの形象を見ると、『花釵児』では『玉搔頭』のヒロインである劉倩倩の「正しく人物を評価できる」能力や嫉妬に関する描写を削除したことがわかる。
最後に、『花釵児』と『玉搔頭』の文化的な背景、及びそれによるそれぞれの特徴をまとめようと思う。また、李漁の戯曲が彼の小説よりも江戸の読本に影響力を持っていたことに関連して、小説の創作と戯曲の創作に対する彼の考え方の差異も見ておきたいと思う。
儒祖孔子の生涯を図像・賛文・賛詩の三要素で描いた『聖蹟図』は、明清期に多数の『聖蹟図』が作られた。これらの紹介と分析については加地伸行著『孔子画伝』所収の佐藤一好論文が詳しい。後出の『聖蹟図』は、この三要素のうち、図像は先行する元・王振鵬画の構成を概ね踏襲し、賛文も先行例に倣って『史記』孔子世家、『論語』『孔子家語』等の表現を抄録し、また賛詩も先行する『聖蹟図』賛詩に酷似する表現が多く見られる。
これらの事実を踏まえ、発表者は『聖蹟図』、就中その賛詩を明清文学史の一部として捉えたい。即ち先行の出典を抄録する賛文はともかく、四字八句から成る賛詩を明清文学資料として捉え、詩表現に見る踏襲と創新について考えてみたい。数多い『聖蹟図』の中、画幅の余白や読者の関係もあり、賛詩を有するものは限定される。それは、①元・兪和賛詩(王振鵬画)本、②明・張楷賛詩(画者不詳)及びその系統本、③清・藺友芳賛詩(陳尹画)本、④清・顧沅題詩(画者不詳)本の四種である。本発表では、このうち表現の独自性に富む③を後日の研究課題として置き、④清・顧沅賛詩本の『聖蹟図』(『聖廟祀典図考』所収)について考察する。
顧沅(一七九九嘉慶四年~一八五一咸豊元年)は蘇州呉縣長洲の人、湘舟・辟疆園・芸海楼等の号を持つ。生涯官に就かず、文人との交友を楽しみ、蒐書・編輯・出版を事とした清朝後期江南の著名な文人であり、『呉郡名賢図伝賛』『乾坤正気集』その他多数の編著がある。生前の交友録『今雨集』によると、『聖蹟図』は顧沅二十七歳の年には完成していたと思われる。発表者は、計六十八図像(賛文・賛詩)に上る顧沅『聖蹟図』について、特に賛詩の措辞表現に着目し、その踏襲(古さ)と創新(新しさ)について分析し、考察を加えたい。
3―14 段玉裁『説文解字注』における『国語』の引用テキストについて
段玉裁『説文解字注』における各種の古籍の引用には、現在我々が一般に手にするテキストと一致しない字句が少なからずみられる。現在通行するテキストとの異同はおもに、①両者の依拠する版本が異なっていることと、②段玉裁が意図的に改変を加えていることとによる。段玉裁が『説文解字注』を執筆する際に用いた版本を特定し、原文と引用文との異同の詳細を分析していけば、段玉裁の文献引用の手法、文字選定の根拠など、『説文解字注』の執筆過程や執筆方針が、具体的な形となってみえてくるはずである。
『説文解字注』には広範な文献が引用されている。本発表ではその中から、段玉裁が「二十一経」のひとつとする『国語』の引用を取り上げたい。段玉裁には『国語』の校本(書き入れ本)がある。乾隆三十四年に戴震から校本を借りて校勘作業を施したもので、『説文解字注』の長編とされる『説文解字読』の『国語』の引用は、主としてこの校本に拠ると考えられる。しかし段玉裁がその長編の刪定作業に着手して間もない頃、当時居住していた蘇州では、黄丕烈が影抄明道本『国語』を入手し、重刻している。『説文解字読』の刪定作業には、校本と影抄明道本の両方を参照することが可能であった。
本発表では、段玉裁が『説文解字注』に『国語』を引用する際、どのテキストをどのように利用し、文字の異同についてはどう対処し、さらにいかなる根拠で文字に改変を加えたかを明らかにすることにより、『説文解字注』の成立過程の一端を示したいと思う。段玉裁の『国語』校本は、現時点では所在不明である。しかし顧千里による臨本が台湾故宮博物院図書文献館に、抄写者不明の臨本が中国国家図書館に所蔵されている。発表においては、二種類の臨本の現地調査を踏まえて、上記の課題に対して文献学的なアプローチを試みたい。
報告者は、一九九九年以来、故宮西華門内の中国第一歴史档案館に所蔵される明清档案中法律詞訟文書の調査を継続している。二〇〇八年五月以降所蔵档案の原件調査が不可能となったため、調査対象を刑部档案(原件)から順天府档案(写真複製)に変更した。たとえば、順天府档案のうち、乾隆五九年(1794)四月、順天府寶抵縣の民人孫習譲が土地貸借の紛争から自縊身死に至った事案、嘉慶一五年(1810)年五月、民人某氏(女性)が隣家住人との交流をめぐり投身自死未遂に至った事案、嘉慶二〇年(1815)年五月、民人趙二が見識らぬ人物の誘いに乗り、他人の驢馬を市で売り臨時収入を得たと述べる事案には、供述書またはその直接引用を含む漢文档案が存在する。その他、嘉慶二〇年(1820)年二月、天津出身の民人張増幅が、長期不在の妹夫趙良のもとから父親が連れ戻した妹を別の男性に売り渡し、金銭代償を求めた妹夫の頭部を鉄釿で斬りつけたと自ら述べる事案、宣統三年(1911)年正月、民人陳老が孫留鼠頭などを伴い六人で通りがかりの陳浩等から「洋元一百塊」を奪い取り山分けした事案など土地・房屋・賭博・偸窃・婚姻・拐騙(人身売買)をめぐる裁判文書のうちに、被疑者とその関係各位の供述「口供」を記した供述書「供詞」の原件(「□○○供」に始まる形式、時に「十」の文字に似た署名が添えられる)及びその直接引用(「據□○○供」、女性の場合は「□○氏供」に始まる形式)を含む文書が多数検出された。多彩な俗字を同定し、抄写検討の結果、発話の引用を示す《説(~と言った)》、動詞の接尾辞《了》《的》《過》、代名詞《我》《他》《他們》、前置詞《合(~と)》、句末助詞《你》、準句末助詞《就是了》や感嘆詞《哎哟(アイヨ)》の使用など、清代の口語性の強い語法特徴が見られることが判明した。ここでは、他の档案資料、徐時儀・夏暁虹などの白話研究を参考に、これら裁判文書に見える供述記録を漢語史の資料として利用する方法を探り、中間報告としたい。
3―16 清末民初湖南における「私訪」故事説唱の流通について
清末民初、説唱文芸活動は、北方や東南海沿岸部を中心に広がりをみせる。その一方で、内陸部の湖南省においてもそれは盛んであった。道光年間以降、湖南省全域では説唱本印刷所が林立し、『孟姜女』、『珍珠塔』や『祝英台』など古典小説や戯曲に取材する伝統演目だけでなく、地方ゆかりの物語が新たに創作、出版される。
中でも目を引くのが、『彭大人私訪蘇州』『彭大人私訪蓮花廰』『私訪湖北漢陽』『私訪広東』『私訪九龍山』『彭大人私訪南京』と題される所謂「私訪」故事説唱作品群である。いずれも、湖南衡州府衡陽県の彭玉林を主人公とするが、恐らく太平天国の乱で活躍した、湘軍の指揮官の一人、彭玉麟がモチーフになっていると思しい。舞台は同治年間、彭玉林が、蘇州、江西、湖北、広東、山東、南京など各地巡査の際、微行して民情を探り、家庭問題、冤罪事件などの解決に携わるという形式で物語は展開する。この一連の「彭大人」シリーズのほか、「私訪」を題名に採るものに『陶大人私訪江南』『呉大人私訪漢陽』『馬金龍私訪華容』などがある。それぞれ、湖南省華容県の知県馬金龍、湖南出身で両江總督の陶澍、湖広總督の呉達善を主人公とし、いずれも清代湖南と関わりのある人物設定となっている。また、これらの物語に関する各版本は、永州の文順堂、湘潭の楊文星堂や黄三元堂、長沙、洪江、武岡など、殆どが湖南省各地の書肆から出版され、さらには実際の上演も湖南省に限られるという、極めて地域限定的な流行をみせる。この特異な社会現象が引き起こされる契機と、説唱本流通における地方文化モデル成立の背景を、湖南における「私訪」故事説唱作品群に対する検討を通し、当時の社会事情、出版活動とあわせて考察する。
章炳麟(一八六八~一九三六)の文体については、まだ三十一歳のとき、「怪異」という印象をもたれていたとされる。その後、章炳麟自身が光緒二十八年(一九〇二)から魏晋の文章の影響を受けて「文章漸変」と回顧し、あるいは「近来専ら達意を主として、日本名詞を勝手に使用」と評されもしたように、章炳麟の文章にはかなりの変化の幅がある。この原因には、姓名を署した著述と新聞雑誌記事との文体の使いわけもあるのかも知れないが、日本漢文・日本漢学への反発も無視できない。
つとに阿川修三氏が発見された『台湾日日新報』掲載の章炳麟の作品群、さらに館森鴻『拙存園叢稿』は、章氏の一八九八~一九〇一年ごろの語彙・文体意識を探るための手がかりとなる。この時期、さらにやや遅れて一九〇六年の『国粋学報』「文学論略」あたりまで、章炳麟の日本に向けるまなざしは―一九〇二年の「文学説例」から日本人に「小学」に通じる者が稀だと貶めるが―まだそれほど険しいものではない。しかし「文学論略」を改稿した一九一〇年の『国故論衡』「文学総略」は、語彙・文体を改め、日本人の著作への言及を削る。
変化の要因のひとつが、明治日本の漢学とその文体への反発であろう。章炳麟が日本に滞在したのは一八九九年、一九〇二年、そして一九〇六~一一年。この間、服部宇之吉の京師大学堂総教習就任(一九〇二年)、児島献吉郎『漢文典』や三省堂『漢和大字典』の刊行(一九〇三年)、漢字統一会の結成(一九〇七年)、東亜学術研究会の結成・漢字統一会『同文新字典』刊行(一九一〇年)といった動きがあった。章炳麟はこうした活動の背後に漢学を政治的に利用する意図を見て取り、「東鄙」「島客」による文字音韻研究の質的劣化を警戒し、日本漢学と距離を置いた純正な文体・学風の構築へ向わざるを得なかった。
エスペラントは、ポーランド(當時は帝政ロシア領)の眼科醫ラザロ・ルドヴィコ・ザメンホフ(Ludoviko Lazaro Zamenhof 一八五九年―一九一七年)により作られた人工語である。ザメンホフが一八八七年にエスペラント博士(希望する者の意)の名で『國際語』を出版したことにより、エスペラントとその後呼ばれるようになった。一九〇五年にはフランスで第一回萬國エスペラント大會が開催され、第一次、二次世界大戰の期間を除き毎年開催されるまでになった。
このエスペラントは日本には一九〇〇年頃に傳わり、一九〇六年の朝日新聞に「一九〇六年最大のトピックは、浪花節とエスペラントの大流行」と書かれるまでになったが、この年をピークに徐々に衰退していってしまう。
一方中國では、エスペラントが中國に傳わり、それを教える學校―北京世界語專門學校―が設立されるほど流行したのが、一九二三年(民國十二年)である。
これほど流行したエスペラントがどのように中國に傳わったのかは、大まかには、ロシア、日本、フランスの三つのルートを経て傳わったとされる。その關係した人物は、ロシアルートでは詳細は不明、日本ルートでは、日本側の人物は、大杉栄、中國側は、雑誌『天義』『衡報』の編集者である劉師培、フランスルートでは、雑誌『新世紀』の編集者である呉稚暉、李石曾である。これらの人物が、エスペラントの傳播に關係したとされるが、その細部は、はっきりしていない点が多い。しかし日本でエスペラントが流行した頃、日本にいた中國人達が祖國に持ち帰り、廣めていったことは間違いないであろう。
今回の發表では、主にその日本ルートで、どのような人物がエスペラント傳播に關わったのか、またその人物がその当時最大の規模のエスペラントの學校である北京世界語專門學校に關わりがあったのかを検証していきたい。
第四部会 文学・語学(現代)
4―1 戦時の「夢」に浮かぶ都市―張恨水のエッセー集『両都賦』への一考察
張恨水は新聞編集者兼作家として民国期の北京(北平)に前後二十年にわたって滞在し、数多くの北京に関する作品を残した。しかしこれまでの張恨水研究は主に彼の小説に集中し、まだ彼のエッセーを重視するには至っていない。『両都賦』は一九四四年八月一日から一九四五年一月三〇日まで重慶「新民報」に連載発表された26篇エッセーの結集であり、張恨水自身の北平と南京での暮らしを回想したもので、彼の二都のイメージを探るため有力な資料となるであろう。
『両都賦』という題名の源は班固「両都賦」およびその模倣作である張衡「二京賦」と左思「三都賦」である。この三作は長安、洛陽などの都城の繁華壮麗を描くとともに、都市の優劣を比較している。この名を借りた張恨水はどのような比較の意識も持っていたのだろうか。また当時「両都」の南京と北平が淪陥区の首都と故都であったということは、「陪都」の重慶で執筆していた張恨水にとって、どんな影響を及ぼしたことであろうか。
この問題を解くための一つの鍵として、『両都賦』の読者対象が考察されるべきであろう。彼のエッセーは誰にむかって語られたのか。重慶育ちの人に向かってか、または戦争のため重慶に移った北平と南京の人に向かってか。記憶を共有する人に向かってか、または共有しない人に向かって紹介するためか。本報告ではこのような視点から、張恨水の記述の角度を分析したい。
また、このエッセー集は、気候、風景、公園、飲食店、民俗など総合的視点から都市の立体像を構成している。このような都市像は張恨水の北平および南京での経験とどのような関わりがあるのか。両都における彼の曾遊の地とエッセーの記述との関係を分析したい。特に、繰り返して出現する「夢」という言葉はどのような意味を持っているのか、「夢」と抗日戦争と作家の個人体験とはどのように関わっていたのか。「夢」と都市イメージの再創造(想像)との関係についても考察したい。
戴望舒(一九〇五~一九五〇)は「現代派」の詩人として知られている。彼は、一九二〇年代に文壇デビューを果たして以降、モダニズム詩の旗手としての役割を果たしてきた。
注意したいのは、一九二〇、三〇年代における戴望舒の影響力が、他のモダニズム詩人と比べて突出して大きかったことである。例えば、施蟄存によると、雑誌『現代』に掲載された詩のほとんどが戴望舒の影響下にあったという。また、徐遅や鴎外鴎など三〇年代中頃から活躍する詩人も、デビュー前から憧れの的だったことを公言している。他にも、小説家の穆時英は、自分の作品に何度も詩を引用していた。彼の詩は、胡適の謳う口語詩や新月派の格律詩に変わる新しい詩として、都市の青年たちに受け入れられたのである。
では、なぜ戴望舒の詩は、これほどまで支持されたのだろうか。これまでの研究は、彼の詩を西洋の象徴主義の文脈や、上海の都市文化などから考察するものが多かった。しかしながら、ただ海外の詩人に影響を受けて、都会的な詩を書いたというだけでは支持を集めた理由にならない。今一度、彼の追究した詩を再考して、人々の共感する要素を探る必要がある。
例えば、戴望舒の詩の特徴に、「詩情」を表現するために言葉の形式性を排除した点が挙げられる。詩集『我底記憶』(水沫書店、1929年)から『望舒草』(現代書局、1一九三三年)を見てみると、新月派の影響の残る詩から、新たなリズムを追究した詩へ。さらに、詩の形式性を排除し、散文化を推し進めた詩への変遷が認められる。戴望舒は、当時の中国語を乗り越えた、新たな詩の言葉を模索し続けた。そこには、万人の共感する「詩情」を表現するための、普遍的な言葉への夢想があるように思える。
本発表では、主に『我底記憶』と『望舒草』を検討して、戴望舒の詩創作が、一九二〇、三〇年代の青年たちの共感に結びつく様子を考察したい。
4―3 郭沫若の詩題に用いられた「日本人民」「日本友人」語の考察 ―一九六〇年代前半の旧詩を中心に―
郭沫若を詩人として分析する際、しばしば「新詩作家」という評価が下される。しかし、彼が新詩とともに、生涯ライフワークとしてきたのが旧詩である。
自撰詩集『東風集』(人民文学出版社、一九六三年)は、彼が一九五九年三月から一九六三年二月にかけて創作した詩歌を集めたものである。この中に「寄日本人民」四首(一九六〇年五月十三日)と「贈日本話劇団」六首(一九六〇年九月三十日)という旧詩の連作がある。前者は『人民日報』に発表されたものである。後者は訪中中であった日本新劇団(村山知義団長)に贈られたもので、『沫若詩詞選』(人民文学出版社、一九七七年)では其一のみが採られ、「贈日本友人」と改題されている。彼がいう「日本人民(友人)」とは具体的に何なのか?
更に、一九六四年一月創作の旧詩「聞河上肇著作集将出版、賦寄日本友人」(全集未収録)にも、「日本友人」の語が見られる。郭沫若と河上肇は面識すらなかったが、郭沫若は一九二五年に河上肇の『社会組織と社会革命に関する若干の考察』を翻訳・出版し、それを機にマルクス主義に傾倒した。また、両者とも自伝(自叙伝)を記し、古典研究に従事する等、共通点も有する。
本発表では、一連の旧詩の詩題に見える「日本人民(友人)」をキーワードにして、知日派の郭沫若が時勢を如何に描写し、何を伝えたかったのか、詩人のみならず政治家の立場から分析したい。とりわけ、一九六〇年代の前半は安保改正をめぐって、日本の政界・社会が混沌としていた時代でもある。また、この三種の詩は期せずして旧詩のスタイルであるが、彼の詩作における詩型選択の法則性について、同時期に創作された新詩及び文、それ以前(留学・亡命時代、一九五五年の訪日期間中)に日本を詠じた詩文と比較して可能な限り考察したい。
中国人民文学初期の代表的作品の一つであり、作者黄谷柳の代表作でもある『蝦球伝』は、一九四七年から一九四八年にかけて香港の共産党系新聞『華商報』副刊「熱風」に三期(第一期『春風秋雨』一九四七年一一月一七日~一二月二八日、第二期『白雲珠海』一九四八年二月八日~五月二〇日、第三期『山長水遠』一九四八年八月二五日~一二月三〇日)分けて連載され、好評を博した。第二期連載の開始とともに第一期分が単行本として刊行され、続く第二期、第三期分と合わせて三冊本として版を重ねた。日本には、一九四九年にいち早く紹介され、紹介者実藤惠秀と島田政雄による訳書が刊行され(『蝦球物語』一九五〇年)、これも当時としては珍しく半年間に四版を重ね、その後の日本における人民文学作品受容の先がけとなった。作品の内容については、第一期連載中から「蝦球問題」として、主人公“蝦球”の人物形象の是非をめぐって熱い論争が繰り広げられていたが、一九四九年『文芸報』に掲載された茅盾による評価、作品分析がいわば定番となり、現在に至るまで引き継がれている。実際には、一九五六年、作者黄谷柳は、主人公“蝦球”の人物形象、及び茅盾により評価された“蝦球”をとりまく小市民の人物形象を加筆、修正、あるいは削除し、一九四七年の新聞連載版、改訂前の単行本の作品世界とは質的、内容的に異なるものとなっている。しかし、香港文学、都市文学など、新しい視点による分析を提示する作品論を含めて、改訂による人物形象と作品世界の変化に言及することはなく、解放前の茅盾による評価を作品評価の前提にしている。
本報告は、こうした『蝦球伝』をめぐる状況を踏まえ、一九四七年版と一九五六年改訂版の異同を比較し、人物形象がどのように変化し、それが作品世界にいかなる変化をもたらしたかについての考察を提出する。これにより『蝦球伝』の作品分析を示すとともに、改訂による変化を通して人民文学における人物形象形成の特徴の一端を提示できればと思う。
孫犁はその文章の美しさによって知られる作家である。その文体は言うまでもないことだが、その思想を体現したものである。文体が思想の体現であるとして、孫犁の思想とは如何なるものであったのか。それは美しいものだけを描くという美意識であり、抗日の闘いに立ち上がった農民に美を見る思想である。その文体は他の作家と異なるどのような特徴を持っているのかを、彼とともに解放区を代表する作家の双璧であった趙樹理の文体と対比することによって、明らかにしたい。農民の好んで使う語彙と方言の使用が比較の一つのポイントとなる。
孫犁の文体は文革後に大きく変化した。文革前の孫犁の文体は五四文学の伝統を受けつぐ標準的な口語文体であったが、文革後は文言をとり入れた「文白相間」の文体に変った。その変化の程度は時には作品の一部を文言だけで書くというまでになった。この顕著な変化の原因の一つに苛酷な文革の体験があったことは確かであるが、文革中の体験(読書を含めた体験)と心境の変化をたどることによって文言をとり入れるに至った思想状況を明らかにしたい。
文体の比較に用いる作品は文革前の代表作「荷花淀」と文革後の代表作『芸斎小説』に収められている「幻覚」その他の作品、そして趙樹理のものは「小二黒結婚」など初期の作品である。
第五部会 日本漢文
5―1 藤井竹外「芳野」詩の背景―元稹「行宮」詩と李氏朝鮮徐居正「皐蘭寺」詩―
幕末の漢詩人藤井竹外(一八〇七~一八六六)は、「絶句の竹外」と称されるほど絶句に優れた作品を残す。就中、七絶「芳野」は生前からもっとも人口に膾炙し、河野鉄兜の「芳野」、梁川星巌「芳野懐古」の詩とともに「吉野三絶」と称された。本発表では、その詩の背後には、従来言われてきた、元稹の「行宮」詩に加えて、李氏朝鮮の鴻儒徐居正の「皐蘭寺」詩があったことを考察する。竹外の詩は、
芳野
古陵松柏吼天飆 古陵の松柏 天飆に吼ゆ
山寺尋春春寂寥 山寺春を尋ぬれば 春は寂寥
眉雪老僧時輟帚 眉雪の老僧 時に帚くを輟め
落花深処説南朝 落花深き処 南朝を説く
というもの。この漢詩は、次に挙げる中唐の詩人元稹の「行宮」詩を利用したものと言われてきた。
寥落故行宮 寥落たり 故の行宮
宮花寂寞紅 宮花 寂寞として紅なり
白頭宮女在 白頭の 宮女在り
閑坐説玄宗 閑坐して 玄宗を説く
ところが、最近韓国の漢詩を読んでいて、気づいた李氏朝鮮時代の鴻儒徐居正(一四二〇~一四八八)に「皐蘭寺」の作がある。この詩は元稹の「行宮」の表現を用いながら、百済滅亡の際、落花巌から投身自殺した三千人の女官を悼む。
皐蘭寺
江干石壁断山腰 江干の石壁 山腰を断ち
中有皐蘭寺寂寥 中に皐蘭有り 寺は寂寥
白衲垂頭僧独在 白衲垂頭の僧独り在り
掃雲閑坐説前朝 雲を掃き閑坐して 前朝を説く
一読、竹外の「芳野」詩を想起させる。「前朝」を「南朝」に換えたのが、竹外の手柄であったと言えよう。時あたかも、幕末の風雲急を告げる時にあたって、勤王派の人々の琴線に触れたのが、「説南朝」であった、と思う。かくして、元稹、徐居正の詩を巧みに利用した竹外の「芳野」の詩は、彼の代表作として今に伝わる。
5―2 漢文日記叙述と漢籍―摂関家の日記としての『後二条師通記』―
平安朝宇多天皇以降多く残りはじめる貴族たちの漢文日記は、「古記録」と呼ばれ「史料」としての価値が重視されるあまり、他のテクストとの関係性や、その個別の論理については見過ごされてきた感が強い。漢文日記はそれ自体独立して存在し生成されてきたのではなく、仮名テクストや他の漢文テクスト、あるいは語られたものと書かれたものとの関係性から、より深く広く探っていく必要があるのではないか。
本発表では院政期初頭の関白藤原師通の『後二条師通記』(以下、『師通記』)を主たる考察対象とする。『師通記』には、起筆にあたる永保三年(一〇八三)から応徳二年にいたる三年間、二種類のテクストが現存する。それは一方が当初書かれたテクスト(本文A)で、もう一方がその後書き換えられたテクスト(本文B)とすることができる(拙稿「漢文日記の生成―『後二条師通記』二つの本文―」『日本文学』56-9、二〇〇七年)。この二つのテクストの最大の特徴としては一方が「法成寺参」というような日本語の語順のままの漢字表記であるのに対して、もう一方が「参法成寺」のように漢語の語順に則っていることがあげられる。これらの差異をどのように考えるべきか。
また記主師通は摂関家嫡流でありながら極めて熱心に漢学に励んだことでも知られており、日記上にもその痕跡を多く残している。これらを単に作文のため、心情の表出とするのは安易である。師通が漢学に励んだことの意味と、それを日記上に記すことの意味を問うべきではないだろうか。
本発表ではこれまで別に論じられることが多かった漢文日記生成の問題と、漢学の問題、あるいは平安時代の日本語を漢文で書くことと、東アジア古典語としての漢文を書こうとすることの位相を、摂関家の日記という視点を加えて総合的に論じてみたい。そうすることで漢文日記テクスト群と『師通記』個々の性格の一端を明らかにすることができると考えている。
5―3 中国古典籍研究における日本伝存資料の意義 ―北京大学図書館蔵余嘉錫校『弘決外典鈔』をめぐって
北京大学図書館には、余嘉錫(一八八四~一九五五)が自ら書写し校注を施した『弘決外典鈔』四巻抄本二冊が所蔵されている。余嘉錫は、周知の通り、『四庫提要弁証』『目録学発微』等を著した中国近現代を代表する文献学者である。本発表では、余嘉錫が当該写本を作成した経緯と意図を明らかにしつつ、古典籍をめぐる日中学術交流の一例として紹介報告を行いたい。
『弘決外典鈔』(具平親王撰。正暦二年(九九一)序)は、唐僧湛然撰『止観輔行伝弘決』に対する注釈書である。『弘決外典鈔』は、仏者撰述書に対する注釈書ではありながら、『止観輔行伝弘決』中の「外典」に関する部分の解説を旨とすることから、注釈文には「外典(漢籍)」からの引用を豊富に有するものとなっている。加えて、『弘決外典鈔』が引用するのは、主に唐代以前の写本テキストに拠る本文であり、その資料価値については、楊守敬が『日本訪書志』で宝永版本『弘決外典鈔』を紹介して以来、俄然中国学者の注目するところとなった。
しかし、余嘉錫が書写したのは宝永版本そのものではなく、後に徳富蘇峰が、長年の念願をかなえて入手した宝永版本に、これもまた捜求の果てに発見した「金沢称名寺所蔵円種手校弘安本」との校異を書き入れて影印刊行した「成簣堂所蔵宝永対校本」(昭和三年(一九二八)刊)であった。そして、余嘉錫が書写した影印本は、当時北京人文科学研究所に所蔵されていた一本(現中国科学院国家科学図書館蔵)であったことが調査によって判明した。また余嘉錫は、一九三六年発表の論文「牟子理惑論検討」(『燕京学報』第二十期)において、『弘決外典鈔』の記述を根拠として考証を行っている。発表では、これら余嘉錫の残した足跡を通して、戦時期の北京における古文献研究の環境や北京人文科学研究所の果たした役割等も検討するとともに、中国古典籍研究における日本伝存資料の意義について改めて考えてみたい。
5―4 『千家詩選』と『新選集』 ―周防国清寺旧蔵本をめぐって―
宋末元初の詩家劉克荘の編集と題する『分門纂類唐宋時賢千家詩選』は、元代に通俗の詩学書として行われたが、明清の間に殆ど忘却され、中国では明鈔本一部と清の「棟亭十二種」本を伝えるのみとなった。これに対し日本では、入元した禅僧の手によって伝えられた古版本二部と、室町時代の伝写注釈本が残り、江戸後期には「棟亭十二種」本を覆刻した官版も行われた。そこで長らく、この『千家詩選』に対する認識は、日本の漢学者、書誌学者の間に限られてきたが、近年「全宋詩」の編集をきっかけに、同集に漏れた詩篇を収める資料として関心を集め、中国における在外資料研究の流行を背景として、校証や論考が相次ぐようになった。
『千家詩選』の古版本には、お茶の水図書館成簣堂文庫収蔵の二十二巻本と、周防国清寺旧蔵の前集二十巻後集存十巻本とがあり、ともに宋末元初の建本の様式を備えている。後者は現在、北京大学図書館と慶應義塾大学斯道文庫に分蔵するが、もとは日本の伝来で、両者を併せてもなお、数巻を欠く。北京大学収蔵分は、近代に半ばを割いて中国に戻し、蔵書家の間を転々とした。現存本中、前後集の形をとるのはこの本だけで、後集は書肆の増編と推される。本発表では、この版本をあらためて紹介し、論説の端緒としたい。
また『千家詩選』の国清寺旧蔵本には、一つの著しい特徴があり、欄外や巻中の空行に、室町期禅僧の筆蹟で、夥しい数の唐宋の詩篇を書入れている。これらは室町期の建仁寺の僧、江西龍派の編纂した総集『新選集』から移写した作品と思われる。江西の『新選集』は、慕喆龍攀の続編『新編集』とともに、天隠龍沢の『錦繡段』の藍本となったことですでに名高いが、国清寺本の書入れは、もとの『新選集』の受容例として注意される。また『新選集』自体、『三体詩』『聯珠詩格』といった選集に加え、『千家詩選』を編纂の資料とするから、両者の相互関係について考え、その背景にある五山禅僧の学問や、国清寺蔵書復原の可能性に言及したい。
『文選集注』は唐代の文選注五種を集成した書で、李善注、五臣注以外に、文選鈔、文選音決、陸善経注といった中国ではすでに亡佚した注を収める点に資料的価値がある。本発表では此書を取り上げ、次の二点について考察を加えたいと思う。
一つは、平安時代に於ける『集注』利用の実態である。この問題については、すでに山崎誠氏が式家藤原氏の場合について論じられたことがある(「式家文選学一斑」『中世学問史の基底と展開』一九九三年)。本発表では、三河・鳳来寺旧蔵の暦応二年(一三三九)藤原師英写『和漢朗詠集』の裏書に『集注』が引かれることを指摘し、その裏書の由緒を検討することによって、南家藤原氏に於いても『集注』が利用されていたことを明らかにしたい。
今一つは、『文選集注』の現存する伝本二種(金沢文庫本と東山御文庫蔵本)の書写年代と両者の相互関係である。この問題については、これまで論じられて来なかったわけではない。しかし、金沢文庫本の書写年代を平安前期(十世紀初め)とする説もあれば、平安中期(十一世紀初め)とする説もあり(これに加えて、唐鈔本と見る向きもある)、論者によって見解が異なっている。また東山御文庫蔵本(九条家旧蔵本)の書写年代も確定しているわけではない。本発表では、『集注』の書誌学的調査と、『御堂関白記』を始めとする関連史料・資料の検討とを通して、この問題について私見を提示したい。
今、たとえば六臣注『文選』の慶安刊本や寛文刊本を読んでみると、正文と李善注との間で同一句なのにもかかわらず訓読が異なっていることに気がつく。そもそも、『文選』正文の訓読は、足利学校本国宝『文選』のそれも含めて、訓点の施されたテキストの正文の表記や注文の解釈とは異なる和訓がついていることがままあり、所与のテキストとは関係なく博士家伝来の読みが書き入れられたものだとされる(斯波六郎『文選諸本の研究』斯波博士退官記念事業會 一九五七年)。従って、同一句の正文の訓読と注文の訓読が異なるのは当然のことではある。
筆者は『文選』「西京賦」正文の訓読と李善注所引「西京賦」との間で、どれほど訓読が異なるかを機械的に調査したことがある。その結果、違いが有意味であるか否かを問わず、76%の訓読に相違が見つかった(「文選の正文と注文における訓読の異同について」『日本漢文学研究』4、二〇〇九年)。
一方また、江戸期に官学となった朱子の新注に関して、『毛詩』の「薄」「言」「薄言」の訓読を調査した。『毛詩』の古注では「薄」は「ここに」、「言」は「われ」と読むのが定訓であるが、新注では「薄」を「いささか・しばらく」、「言」を「ここに」と読む。
特に、『毛詩』に32箇所出現する助詞としての「薄」字の訓読「しばらく・いささか」についてみると、惺窩・道春・闇斎・松永昌易・後藤・一斎らの訓読は、12箇所目に存在する「薄之爲言、聊也」という集伝をめぐって、(一)そこを境にして和訓をかえる、(二)その箇所にのみ集伝を反映させる、(三)その集伝をほぼ全書に反映させる、という三種類の対応の仕方が存在した(「藤原惺窩の経解とその継承-『詩経』「言」「薄」の訓読をめぐって-」『日本漢文学研究』5、二〇一〇年)。
今回は『文選』の正文と注文に引かれる『毛詩』の「薄」「言」「薄言」について、古注によるものか新注によるものか、訓読の実態を調査考察してみる。
5―8 日本漢詩における「和臭」・「和習」・「和秀」―『東瀛詩選』を手掛かりに―
日本漢詩を研究する際、「和習」の問題はよく提起される。しかし、「和習」とは、具体的に何を指すのか、また、どういう理由によって生じたのか、未だに明確に指摘されていない。そこで、本発表では、中国人の兪樾が一八八三(明治十六)年に編纂した日本漢詩集『東瀛詩選』を手掛かりにし、「和習」と思われる箇所を三つに分けて、考察した。
まず、日本の漢詩人は、訓読によって作詩するので、訓読や日本語の影響による文法上の不適切な表現や、日本人が漢文を書く時の癖、いわゆる「和臭」が一番多く見られる。第二に、日本漢詩に、中国語にも日本語にも共用する詩語であるが、日中における地理感覚や美意識の相違によって、理解のずれが生じたもの、また、日本の地名や、日本の風物など、中国の詩には見られない「和習」もしばしば見られる。第三に、中国の詩人に無視されたり嫌われたりした生き物などが、日本人特有な感性によって注目を浴び、日本文学においてはかえって重要な役割を担っていた場合もある。これら「和心」が満ちた表現は、「和臭」や「和習」とは異質なものであり、むしろ「和秀」と言えよう。
更に、考察を進めるうちに、江戸の文法書によって、文法上の誤りが生じたり、五山禅僧によって、本来中国の原意から離脱し、禅的な解釈が付与されたりした経緯、つまり「和習」が発生した原因も明らかになった。
以上のように、『東瀛詩選』は「和習」の実体を考察する上で、非常に貴重な研究材料である。「和習」の特徴を見る資料として興味深いだけでなく、中国人の視点から日本文化の特質を照射するという意味においても追究する価値があると思われる。
江戸期、『古文真宝』や『文章軌範』が漢文入門書として愛読されたことはよく知られている。しかし、享保から天明にかけて、李攀龍の書簡を集めた『滄溟先生尺牘』が、この二書に匹敵するほど盛んに読まれていたことは今日忘れられている。
本発表では、先ず該書の流行の証言を見た後、その要因には次の三つが考えられることを述べたい。①尺牘の制作は、作文学習の第一歩に相応しいと認識されていた。②書肆の板株(出版権)をめぐる熾烈な争いによって、古文辞派の文集の供給不全が起こり、早期に刊行された『滄溟先生尺牘』に人気が集まった。③古人の交流と該書を結びつけて語る服部南郭の序文は、読者を魅了するものであった。これら三つの要因が重なり、『滄溟先生尺牘』の流行は地方にまで及んだのである。
続いて、武田梅龍『李滄溟尺牘便覧』や高橋道齋『滄溟先生尺牘考』などの注釈書について考察する。これらの出版をめぐっても書肆の間に確執が生じていた。また、井上蘭䑓門下とその周辺に、『滄溟先生尺牘』の注釈に関心を寄せた人物が多かったことに注目したい。放蕩無頼で物議をかもすこともあった彼らは、経書同様の熱心さで該書の注解に取り組んでいたのである。
最後に、尺牘制作の指南書と邦人の尺牘集の問題に触れたい。宝暦から天明にかけて、『滄溟先生尺牘』の盛行を受けた尺牘指南書が編纂されるが、これらには古文辞への疑義がしばしば見られる。古文辞派の詩文は既に斜陽期に入っていた。しかし、古文辞を批判しながらも、自己の尺牘を単行著として出版する者もいた。尺牘を文章の代表とする意識は根強かったのである。書簡の往来を重要な文芸の営みと見なすこのような意識は、江戸中期の漢詩文を考える上で示唆に富むとものといえよう。
本発表では、仁斎学における朱子学批判の意義を、仁斎が最重要課題とした学問論との関係から考察する。
仁斎学においては「学問」=「修養」=「日用における徳行の実践」である。この「日用における徳行の実践」を諄々と説いたのが『論語』であり、だからこそ『論語』は「最上至極宇宙第一」〔『論語古義』綱領六、等〕とされる。そして仁斎は、「子、予の意を識らんと欲するときは、則ち語孟二書を観て足れり。……惟だ恐らくは、子、之を視て以て徒らに聖門平正親切の書と為して、深意の在る所を知らざらんことを。」〔『童子問』上一〕というように、『論語』の説く「日用における徳行の実践」が、そのあまりの平易さ・卑近さゆえに軽んぜられることを何よりも警戒した。
仁斎が朱子学を批判するのは、平易なる修養に厭き足らず日用から乖離する危険性を、朱子学の中に見出すからである。体系化された「理」に沿わせようとする修養法では、修養の自己目的化(「向上の一路を求む」〔『童子問』中五十九〕)へと向いかねないことを、仁斎は恐れたのである。そこで仁斎は、「孝弟忠信」という人倫日用における修養(=相手のある修養)によって、相手からの反応によって自己反省することを旨とした(「学問の要は唯だ己に反求するに在り」〔『童子問』中五十六〕)。すなわち、日用における実践それ自体の中に規範を求めたのである。
もうひとつ、仁斎が朱子学を叩き台にして思想を展開するのは、道学という普遍的な議論の場に参与するという意義をも持つ。北宋以来の道学者たちと問題意識を共有し、かつ、そこから「高遠」なる議論を排除し、学者の通弊である「日用からの乖離」を克服することで、日本における儒者の地位確立に努めたのが仁斎だ、とも言いうるのである。
5―11 海保青陵『老子國字解』について―徂徠學派における『老子』研究―
周知の通り、日本で老莊研究を盛んに進めたのは徂徠學派である。しかし、徂徠學派による老莊研究の内實については、未だに明らかになっていない部分がある。
徂徠學派における重要な『老子』關連書物は、太宰春臺『老子特解』と宇佐美灊水『王注老子道德經』であろう。前者は『莊子』を『老子』の註釋と見なして『老子』を解釋したもの、後者は徂徠の提唱した古文辭學を基礎とした、『老子』王弼註の校訂本である。
徂徠學派の流れを汲み、『老子』註釋書を記した漢学者に海保青陵がいる。青陵は經世家としてよく知られているが、また簡法嚴刑主義者でもあり、そこには『老子』の愚民思想や『韓非子』の法術思想の影響のあることが先學によって明らかにされている。青陵は、中國先秦思想、とりわけ『老子』から思想的影響を受けているのである。
青陵の『老子』註釋書は『老子國字解』という。本書の特徴としては、さしあたり次の點を擧げることができる。
- ①傳統的古典解釋法である訓詁、押韻によって『老子』本文を解釋する。
- ②「人ノ智ヲ養ヒ、人ノ行ヲ助クル用」に立つもの、「老子ハ智惠ノ出シヨフ也」として、『老子』の書を「智」の方法を記したものとする。
- ③老子その人を「真ノ儒者」と見なしたうえで「老子ヲ論語ニテ注スルツモリ也。即チ本文ヲ論語ニテ注シテ見スベシ」と述べ、『老子』を『論語』によって解釋する。
このように青陵は、徂徠學の傳統ともいえる古典解釋法を用い、そこから獨自の『老子』解釋を展開している。
本發表は、春臺『老子特解』・灊水『王註老子道德經』に續く青陵『老子國字解』をとりあげてその『老子』理解を檢討し、徂徠學派における『老子』受容の一端を明らかにしたい。
幕末から明治期にかけて生きた阿波藩出身の岡本韋庵(監輔、天保一〇~明治三七)は、五回にわたる樺太渡航でロシアの南下政策を目の当たりにし、生涯を通してロシアの脅威を訴え続けた漢学系知識人である。その人脈は幅広く、坂本龍馬・雲井龍雄・後藤象二郎・福沢諭吉・南摩綱紀・秋月胤永・岩倉具視・大久保利通・陸羯南・井上哲次郎・井上円了・樽井藤吉・郡司成忠・山県有朋・吉川顕彰・中村正直・重野成斎・谷干城など、幕末明治を彩った人物たちとの交流があった。また中国渡航の際には、曲阜で孔子の末裔孔慶鏜と会い、杭州では林琴南と交歓し、兪樾や蔡元培と文章を交わしている。
残した著作は四十点近い。さらに徳島県立図書館には未刊行の写本や日記・書簡ほかが数多く残されている。そして、それらの著作はいずれも明治という時代が知識人たちに課した課題とも言える「欧米列強に対抗できる強い日本」という点に行き着く。具体的には水戸学を軸とした国粋主義者であると同時に、日清戦争後も清国との連携を唱えたアジア主義者であった。
今回は岡本の著作の中から日本と中国の義勇の士を列伝形式で紹介する『義勇芳軌』(明治一八)、明治一二年の「教学聖旨」の示す方向性に沿った小学生用国史教科書『国史紀要』(明治一八)、ロシアの危険性を声高に主張する『亜細亜之存亡』(明治三三)、清国にも維新を求めるという目的で清国(杭州)で出版された維新志士の列伝である『大日本中興先覚志』(明治三四)、『大日本中興先覚志』の増補版として国内で出版された『明治維新人物』(明治三六)など、主に維新史に関わるものを中心に取り上げ、当時議論の俎上にあった国体論・知育徳育問題・移民植民論・対清政策論などに対する岡本のスタンスを報告する。
5―13 『博物新編』 ―幕末明治初期に渡来した自然神学的科学書の正体―
幕末から明治初期にかけ、日本で最も読まれた自然科学の入門書は『博物新編』であった。『博物新編』は入華宣教師ホブソン(合信、Benjamin Hobson)が自然神学の観点から自然科学の知識をまとめたもので、一八五五年、中国の広州から刊行された。内容は物理学、化学、天文学、動物学に及び、当時の最新の科学知識を中国語で分かりやすく説明している。本書は刊行後まもなく日本に伝わり、幕末には翻刻版が作成されたほか、慶応四年から明治三年にかけ大森惟中の『博物新編訳解』が出版され、これが藩校や明治初期の上等小学の教科書となった。『博物新編訳解』は『博物新編』をカタカナ混じりの読み下しにしたもので、一部、原文にある字句の考察を追加するが、基本的には原文の忠実な日本版である。『日本教育資料』によれば、藩校・郷校の自然科学の教科書を明示する延べ65校中、約3割にあたる19校で『博物新編』を教科書として採用している。
『博物新編』が渡来した時期、日本では未だキリスト教は禁止されていた。したがって、同時期に渡来した漢訳西洋科学書が和刻本として翻刻される場合には、蕃書調所の教授や版元の手によって、キリスト教に関係する語句が削除されるか、あるいは他の語句に置き換えられることが殆どであった。しかし、『博物新編』においては、そのような処理が施された形跡が見られない。本文を読んでみると、自然科学がキリスト教の唯一絶対神の手によってもたらされたと容易に解釈される部分にも何の手も加わっていない。さらに、『博物新編』には官版が存在し、それが当時の日本の子どもたちの博学の教科書となっていったのである。
本発表では、自然神学の立場から著された『博物新編』が字句の訂正を受けることなく、そのまま幕末から明治初期にかけて自然科学の知識を習得する教科書として使用されたということに注目し、その中国での成立、日本における普及の様子、自然神学と結びついた内容を論じてみたい。
5―14 西大寺本金光明最勝王経平安初期点における中国口語起源の訓読
魏晋南北朝から唐代に至る中国では、口語的表現の二字漢語を多数造出して複雑多彩な表現を生み出した。これらの中国口語的表現を含む文章は、元来単音節語であった古典漢文の訓読法では読み解くことが難しい。発表者は、中国口語的表現を少なからず含む『日本書紀』中の主として中国口語起源の二字漢語を取り上げて、平安中期の岩崎本平安中期点以来の訓読資料を手がかりに、日本人が其れらの口語的表現を読解し得たか否かを検討して、専門研究書『日本書紀における中国口語起源二字漢語の訓読』を刊行した(北海道大学出版会、二〇〇九年三月)。
元来漢訳仏典は四字一句を基調とすることが多いが、それと密接に関連するのが二音節語の多用であり、口語語彙が多く含まれているが、日本の訓点で其れらの中国口語起源の二字漢語を読解し得ているか否かを検討する為に、代表的平安初期訓点資料である西大寺本金光明最勝王経平安初期点を取り上げる。同本は、八三〇年頃加点の詳密な訓点資料であり、春日政治による訓点語学の記念碑的労作『西大寺本金光明最勝王経古点の国語学的研究』(岩波書店、一九四二年一二月)に影印・訓み下文・研究が公刊されている。本発表では、前述の日本書紀に傲って中国口語起源二字漢語の箇所を、本資料が如何に訓読しているかを検討する。
5―15 大正後期の「漢文直読」論をめぐる学問と政治 ―文化交渉学の視点による考察―
近代における「漢文直読」論の形成要因について、一八七九年東京学士会院で行なわれた「漢学宜しく正則一科を設け少年秀才を選み清国に留学せしむべき論説」という重野安繹の講演や一八八六年『東洋学芸雑誌』に発表された「支那語読法ノ改良ヲ望ム」というチャンバレンの論文などにも明らかなように、主として「日清修好条規」成立以降の直接交渉の必要、近代西洋の学問方法による刺激および江戸時代以来の徂徠学の影響などが挙げられるであろう。
しかしながら、明治前期に一旦唱えられたことのあるこの「漢文直読」という学問上・教育上の主張が大正後期の青木正児・倉石武四郎によって再提起された時には、なぜ政治的に危険視され、孤立無援の境地に陥ってしまったのだろうか。言い換えれば、『支那学』創刊当初に掲載予定の青木の「本邦支那学革新の第一歩」は、なぜ同誌の第五号にまで掲載延期されたのだろうか。そして、吉野作造らと親交のある大正デモクラットで赤門名物教授の春山作樹が斯文会研究部会での発表において青木の音読主張に対する賛意を表明した際、同席の東大文学部副手であった倉石も同調しようとしたが、なぜ師の塩谷温から「君は発言しない様に」と注意されたのだろうか。
結論としては、第一に、青木と倉石の主張は第一次大戦直後の激動した日中思想界および日中関係のなかで政治的妥当性を欠いたものと考えられていたようである。第二に、その「孤高の論」は漢学者・支那学者の仲間から支持を集めにくいものでもあった。漢文訓読に馴れている人々はそう簡単に従来の慣習を捨てて「革新の第一歩」を踏み出せないばかりか、当時上田万年ら国語ナショナリストたちが明治後期に一旦挫折した「中学校漢文科廃止」の主張を再提唱し、全国中学校長会議などにある程度のコンセンサスも得ていたため、多くの漢文教師が失職に追い込まれかねないという危険な状況の最中にあったからである。