日本中国学会第61回大会
研 究 発 表 プ ロ グ ラ ム
十月十日(土) 午前
十月十日(土) 午後
- 1―5 常識への否定に見る道家の自然観―寓言を中心に― (13時30分〜14時) 発表要旨
- 叢 小榕(いわき明星大学)
- 司会 湯浅 邦弘(大阪大学)
- 1―6 『荀子』の君子論―言語と行為― (14時〜14時30分) 発表要旨
- 橋本 敬司(広島大学)
- 司会 湯浅 邦弘(大阪大学)
- 1―7 「魂魄」について―『荘子』と『楚辞』を中心に (14時30分~15時) 発表要旨
- 白 雲飛(大阪府立大学大学院)
- 司会 石川三佐男(秋田大学)
- 1―8 女媧と西王母―「再生」から「不死」へ― (15時〜15時30分) 発表要旨
- 重信あゆみ(大阪成蹊短期大学非常勤講師)
- 司会 杉原たく哉(早稲田大学)
- 1―9 上博楚簡『鄭子家喪』の文献的性格 (15時30分〜16時) 発表要旨
- 福田 一也(大阪教育大学非常勤講師)
- 司会 近藤 浩之(北海道大学)
十月十一日(日) 午前
第二部会 文学(先秦~唐) (13号館1階 13101教室)
十月十日(土) 午前
十月十日(土) 午後
十月十一日(日) 午前
十月十日(土) 午後
- 3―1 梅堯臣の詠妻詩について (13時30分〜14時) 発表要旨
- 林 雪雲(大阪府立大学)
- 司会 内山 精也(早稲田大学)
- 3―2 陸游と四川人士の交流―四川制置使兼知成都府范成大の治績と関連して― (14時〜14時30分) 発表要旨
- 甲斐 雄一(九州大学大学院)
- 司会 内山 精也(早稲田大学)
- 3―3 宋元文学批評史上における劉辰翁の評点活動の評価―劉辰翁評点『李長吉歌詩』を中心に― (14時30分~15時) 発表要旨
- 奥野新太郎(九州大学大学院)
- 司会 高津 孝(鹿児島大学)
- 3―4 『紅楼夢』における人物住居の描写について―瀟湘館と蘅蕪苑、怡紅院をめぐって― (15時〜15時30分) 発表要旨
- 渋井 君也(早稲田大学大学院)
- 司会 金 文京(京都大学)
- 3―5 『紅楼夢』賈宝玉の人物像と性同一性障害 (15時30分〜16時) 発表要旨
- 合山 究(九州大学名誉教授)
- 司会 金 文京(京都大学)
十月十一日(日) 午前
- 3―6 帰有光の時務文―もうひとつの『未刻集』が語るもの― (15時〜15時30分) 発表要旨
- 野村 鮎子(奈良女子大学)
- 司会 大木 康(東京大学)
- 3―7 王漁洋の「南唐宮詞八首」について―個性を与えられた女性たち (15時30分〜16時) 発表要旨
- 荒井 礼(筑波大学大学院)
- 司会 大平 桂一(大阪府立大学)
- 3―8 『『三侠五義』における「侠義」と「緑林」について (15時30分〜16時) 発表要旨
- 稲澤 夕子(京都大学非常勤講師)
- 司会 鈴木 陽一(神奈川大学)
- 3―9 王国維の「人間」について ―生への抗い、隠の挫折と無への希求― (15時30分〜16時) 発表要旨
- 小島 明子(お茶の水女子大学大学院)
- 司会 竹村 則行(九州大学)
十月十日(土) 午前
- 4―1 郁達夫と『西青散記』―田園で歌われる不遇抒情詩 (10時〜10時30分) 発表要旨
- 高彩 雯(東京大学大学院)
- 司会 大東 和重(近畿大学)
- 4―2 日本人が賈樟柯の映画から見る中国社会―『世界』と『長江エレジー』を巡って (10時30分〜11時) 発表要旨
- 蓋 暁星(東京大学大学院)
- 司会 大東 和重(近畿大学)
- 4―3 瞿秋白『多余的話』の語りの構造―「時間」をめぐるテクスト分析的試み― (11時〜11時30分) 発表要旨
- 白井 澄世(東京大学大学院)
- 司会 宮尾 正樹(お茶の水女子大学)
- 4―4 魯迅『野草』テクスト解釈の新しい方法 (11時30分〜12時) 発表要旨
- 鄧 捷(早稲田大学非常勤講師)
- 司会 北岡 正子(関西大学名誉教授)
十月十日(土) 午後
- 4―5 「犯罪」を消費する読者と近代探偵小説 (13時30〜14時) 発表要旨
- 池田 智恵(早稲田大学大学院)
- 司会 鈴木 将久(明治大学)
- 4―6 文壇に初登場した時期の施蟄存について ―「新旧我無成見」を中心に (14時〜14時30分) 発表要旨
- 徐 暁紅(東京大学大学院)
- 司会 鈴木 将久(明治大学)
- 4―7 王蒙小説に見られるソビエト文学的表現をめぐって (14時30分〜15時) 発表要旨
- 小笠原 淳(神戸大学大学院)
- 司会 岩佐昌 暲(熊本学園大学)
- 4―8 新時期微型小説の可能性 ―そのジャンルとしての到達点と今後の可能性― (15時~15時30分) 発表要旨
- 渡邊 晴夫(元國學院大学)
- 司会 岩佐昌 暲(熊本学園大学)
十月十一日(日) 午前
十月十日(土) 午前
講演会 (13号館1F13101) 十月十一日(日)午後(13時30分~)
- 中国近世における東西思想の交流について 講演要旨
- 岡本 さえ(東京大学名誉教授)
- 司会 堀池 信夫(筑波大学)
発表要旨
第一部会 哲学・思想
『文心雕龍』隠秀篇の中で劉勰は、「隠」を「文外の重旨」と定義する。そして、その内実を「文外」に複層的に意味を重ね合わせることと規定する。
このことは従来、文学研究においては言外の含蓄・余韻・余情を意味するものと解釈されてきた。また『文心雕龍』諧讔篇には「讔」という語が見え、
これは婉曲的な表現を用いて諫言を行うものと理解されてきた。このことはやはり「文外」に意味を重複させることといえる。
本発表は上記の「隠」すなわち「文外の重旨」をめぐって、たんに余韻や余情というのではなく、劉勰がそれを成り立たせるために依拠していた古典の典拠を検証し、
その上で「隠」がどのような構造を持っているのかを検討するものである。
その典拠については、諸家の指摘する『周易』繫辞上伝を淵源とした「言不尽意」の伝統を、日常的なものと形而上学的思惟を踏まえるものとに区分して論じる。
また、魏晋玄学の「言不尽意」をめぐる思索として、「言」と「意」の間に「象」を挿入することで「意」に到達しようとした王弼『周易略例』の行論を取り上げる。
後者、すなわち「隠」の構造については、劉勰自身がそれを易の互体に擬していることに着目する。
互体とは、一卦六爻から第二・第三・第四の爻、もしくは第三・第四・第五の爻を取り出して新たな卦を生じることである。
それは卦全体の内に隠れているものを引き出す操作であり、そこには、取り出す前の卦を決定すれば、それに対応する互体の卦も必然的に定まるという法則性がある。
劉勰が「隠」を互体の論理に比況したのは、互体の構造、法則性が彼の「隠」のうちに存在すると考えたからであった。
1―2 陸象山と王龍渓の心学思想 ―その顔回論から見えてくるもの―
宋明代の儒学思想の中における顔回の存在は極めて大きい。顔回は言うまでもなく、その「好学」の姿勢ゆえに、孔子が最も愛し、一目置いていた弟子であった。
その学問に対する姿勢、そしてその到達した境地に関していえば、後世においても、その評価は最も高く、誰もが賞賛して已まなかった人物である。
そのような顔回に対する評価がとりわけ高くなるのが宋明代であった。この時代における顔回論の地平に関しては、
柴田篤氏の「『顏子沒而聖學亡』の意味するもの ―宋明思想史における顏囘―」(『日本中國學會報』、第五十一集、1999年)にその概略が簡潔にまとめられている。
柴田氏はこの中で、周濂渓・程伊川・朱子・王陽明・王龍渓に焦点を当て、それぞれの顔回に対する解釈・評価を、簡潔かつ的確に述べておられる。
本発表では、氏の研究を踏まえながら、特に、王龍渓、そして、新たに陸象山を取り上げる。陸象山と王龍渓、この二人に焦点を絞って、
その顔回論をさらに深く掘り下げることにより、そこから見えてくる心学思想の特色を明らかにしていきたい。
陸象山と王龍渓、この二人に焦点を当てた理由として、まず『陸象山全集』『王龍渓全集』、共に顔回ついての言及がとりわけ多いこと、
そして、顔回論を通して求められている学ぶ者の理想像が非常に似通っていることが挙げられる。王龍渓は王陽明晩年の高弟であり、
その本心(良知)に直接立ち返ることを第一としたが、これは陸象山の思想に通じるところも大きい。
実際、王龍渓は、師の王陽明以上に陸象山を高く評価し、そして多くを語っている。
本発表では、二人の顔回論を比較・検討していくことを通して、それぞれの心学思想の特色を明らかにし、
ひいては宋明心学思想に共通するテーマを打ち出していきたいと考えている。
李二曲(一六二七―一七〇五)について、顧炎武は「険苦力学、師無くして成れる、吾は李中孚(二曲)に如かず」と、
貧困のなか、師を得ずに学を成就した点を評価する(『亭林文集』「広師」)。李二曲は修学過程にあっては、意識的に経、史を始め、
先人の事績が記された書を自らの師とし、そして何よりもその「実践」に力点を置いた人である。
李二曲の『四書反身録』(康煕二十五年序 六十歳 以下『反身録』)は、『四書』に関わる二曲の言葉を門人王心敬が録したものである。
『四庫全書総目提要』は、李二曲の学的基盤は王陽明にあるとし、さらに『反身録』には二曲が自説に固執している面も見られると記す。
しかし、康煕四十二年、李二曲の長子慎言が康煕帝に『反身録』を献上した際には、『四書集注』を羽翼するという評価を得たのである(『二曲集』惠?嗣「潜確録」)。
そもそも李二曲によれば、「四書は乃ち万古不易の常経、日(ひび)に用ひ常に行ひて焉(これ)に違(たが)ふ可からざる者」であり(『反身録』)、
程朱が『四書』を発明表章したのは、読者が中身を体現することを期待したからであるのだから(『反身録』王心敬「識言」)、
まずは読者に経文、伝文と自身との合致を求め、合致しない時は朱注及び大全をみよ、と述べる(『二曲集』「関中書院会約」)。
このように『四書』を主体的に咀嚼し、「反身実践」するというのが、李二曲の基本的な態度なのである。従って、
「経」を口にしても体現しない者は「経」に叛く者、注釈の精巧さを求める者は「経」を侮る者と見なす(『反身録』)。
これら欠格者に対する批判が、『反身録』述作の意図に込められているのは言うまでもない。
本発表では、『四書集注』との比較という観点を交えながら、『反身録』に顕れた「反身実践」主張の実態を明らかにし、
さらに当時『反身録』への批判があったことを踏まえ、主に朱子学を宗とする同時代の人士との対比にも言及したい。
本発表では、明代後期の李贄(李卓吾、一五二七~一六〇二)における学問について、とりわけ師弟をめぐる問題について扱いたいと考えている。
彼が学問について、ある種の危険性を見出していたことはよく知られている。とりわけ、名高い「童心説」(『焚書』巻三)が読書し、
義理を識ることによって得られた、道理や聞見によって心の本来性が失われることを問題にし、儒教の六経語孟の価値を疑問視するものであったことは周知の通りである。
また、たとえば「釈迦仏後」(『続焚書』巻四)において、不立文字が説かれ、三蔵教語について、毒を万世に流すものとされるなど、
このように、言語を媒介として広がるイデオロギーへの批判は、教派の別を超えて言及されていくもののようである。
その一方で、彼はコミュニケーション全般を必ずしも否定的にのみとらえていたわけではない。これについても、つとにいくつかの先行研究があるところである。
しかし、その独創的な批評や価値観などを中心とした考察はなされてきたけれども、学問の問題、とりわけ師となり弟子となることをめぐっては、
まだ考える余地のあるところではないかと思う。
李贄は三教一致を説き、儒、仏、道の聖人、すなわち孔子、老子、釈迦を聖人として認めており、それゆえ彼らが教えを説いたこと自体については、単純には否定していない。
では、彼の思惟において人が人の師であること、あるいは弟子であることについて、いかなる位置づけがなされていたのか。
また、彼の学問批判といかなる緊張関係にあったのか。彼の聖人観なども視野に入れつつ、検討していきたい。
道家には儒家のような明確な師承がないうえ、遁世志向も一因となり、その書物や著者に関しては不明な点が多いが、
ここでは「道家」と分類される書物の思想的価値に注目し、道家思想の特徴の一つである常識への否定を考察の対象とする。
道家といわれる人びとは、それまでに蓄積された自然科学や人文科学の知識を生かして、宇宙の森羅万象をつかさどる自然の法則を解明しようとした。
その認識はすでに現代科学の領域にまで及んでいる。なかでも不条理な常識を覆すのが最大の特徴の一つであり、
『列子』『荘子』における平明にしてエスプリに富んだ寓言に顕著に現れている。その奔放不羈な論理は、人間を自然の一部と解釈する道家の自然観に基づくものと考えられる。
道家の理論によれば、普遍的な常識が存在しない以上、非常識はそう判断する人の持っている常識と相容れないものに過ぎないということになる。
そこで、『列子』「周穆王」中の「宋陽里華子中年病忘」や「秦人逢氏有子、少而惠、及壮而有迷罔之疾」を中心に、
『列子』「説符」中の「人有亡鈇者」や『荘子』「外篇・秋水」中の「井鼃不可以語海者、拘於虚也;夏蟲不可以語冰者、篤於時也」などの話と照合しながら、
常識の形成にスキーマ(schema)がどのように作用しているのか、人はなぜ常識を疑わないのかといった課題に、道家の理論方法を探り、その自然観の構造を考える。
「故に君子は必ず辯ず」(非相)と言う『荀子』は、続けて「凡そ人其の善しとする所を言うを好まざる莫く、君子を甚だしと為す」と、
君子が必ず弁じ善いと思うことを言うのを最も好む存在であると言う。これが、『荀子』の考える君子の大きな特色の一つであることは、
『論語』に「君子は言に訥にして、行いに敏ならんと欲す」(里仁)と、君子は訥弁であることを求めると言うのに照らせば明かである。
君子は自ら弁じる一方で、「凡そ言先王に合わず、禮義に順わざる、之を姦言と言う。辯ずと雖も、君子は聽かず」(非相)と、
先王の「遺言(勧学)」に合致せず、禮義に順わない言葉を姦言とし、いくら弁説してもその言葉を聞くことはない。
君子という存在にとって言語が非常に重要であったことは容易に理解できる。
また次のような言説もある。「君子の學は、耳より入り、心に箸き、四體に布き、動靜に形わる。端として言い、
蝡として動くも、一に以て法則と為すべし」(勸學)と、君子の学は、言語として耳からはいり、身体全体に行きわたり、行為として表現され、
どんな些細な言動も法則とすべきものとなる。故に、「君子の學や、以て其の身を美しくす」(勸學)と言われるのである。
これは、君子がその行動によって君子であることを証明することを示している。
このように、『荀子』の君子は言語と行為によって支えられた存在であった。本発表は、何故荀子がこのような君子を創造しなければならなかったのか、
その思想的政治的狙いが何であったのかを考察するものである。
「魂」も「魄」も篆書以前の文字は存在しない。余英時『中国古代死後世界観的演變』「魄則有比較古老的来源」によれば「魄」の方が古い。
「魄」が「たましい」とされるのは『老子』「載營魄抱一、能無離乎」である。『老子解義』は「形魄」と解する。『荘子』にも似た例があり、
『楚辞』には「魂」「魄」が多くみえる。
「魂」は、「魂魄」という概念で説明されることが多かった。『禮記』禮運篇「君與夫人交献、以嘉魂魄、是謂合莫」では「魂魄」は「死者の魂魄」と説明される。
『春秋左氏伝』昭公七年は「人生始化曰魄、既生魄、陽曰魂、用物精多、則魂魄強、是以有精爽至於神明。匹夫匹婦強死、其魂魄猶能憑依於人、以為淫厲」という。
白川静『字訓』の「時にはそのものから遊離して遊行し、他のものに憑依することがあると考えられた」も、それに拠る。
「魂」は「陽気」、「魄」は「陰神」と「陰陽」の枠組みで説明するのは『説文解字』である。角川『新字源』も陰陽で説明している。
『荘子』内篇斉物論「其寐也魂交其覚也形開」の「魂」は「魂神(成玄英)」「精神(司馬)」である。外篇知北遊「魂魄将往、乃身従之、乃大帰乎」は「陰陽」という説明はない。
しかし、唐の成玄英が疏に「魂魄往天骨肉帰土」と解する。恐らく時代の考えが現れていると思われる。『楚辞』招魂の「魂魄離散汝筮予之」の「魂」は、
人から去る「みたま」であり、「招魂」と呼ぶ儀式が成り立つ。『楚辞』九章惜誦では、魂が「天にのぼる」。
本発表では、『荘子』と『楚辞』を中心して「魂魄」の概念がどのように扱われているかを考察したい。
女媧と西王母は文献上では全く関係がないが、画像石では同じ画面に描かれることもある。楊利慧氏は「女媧は西王母の部下あるいは姉妹であった」と述べ、
たしかに西王母の方が地位が高いようにみえる。
馬王堆帛画では、画の上部にいる人身蛇尾の女性が女媧だとされており、曽布川寛氏は天帝だとみている。画の下部には力士とされる上半身裸の男性がいる。
大形徹氏は、この男性はエジプトの地下の神であるベスと繋がりがあるとする。私はそれを一歩進めて、ベスはその容姿、役割から西王母とも繋がりがあると考えている。
当初、西王母は男性神であったようにみえる。そうすると帛画の力士は西王母の原型ともいえ、女媧と西王母は馬王堆帛画の中で、すでに上下に描き分けられていたことになる。
『楚辞』天問では「女媧、體有り。孰れか之を制匠(つく)れるや(目加田誠氏の訓読)」とされる。
王逸は「傳えて言う、女媧は人頭蛇身、一日七十化し、其の體、此の如し。誰れか制匠して之を圖く所ならんや」と注釈する。
女媧は変化して自らを作り出したということであろう。『風俗通義』には女媧が人類を創造したという記述がある。
その姿は再生を象徴する蛇身である。馬王堆帛画は昇仙図と呼ばれているが、死者の再生復活をねがう図のようにみえる。
ベスは地獄の神だが、その恐ろしい姿から、辟邪の役割をもち、護符とされた。力士にも同様の役割があるだろう。
前漢末に西王母を信仰すると現世で不死になれるとされたが、このころ、西王母は「母」という名から女性とみなされ、その後、美しい姿で描かれるようになる。
馬王堆では、天上と地下、女性(女媧)と男性(力士≒西王母)と、きれいに分けることができた。
ところが、西王母が女性化したため、女媧と競合し、従来、女媧のもっていた役割を西王母が侵すことになり、ついにはその地位が逆転してしまったように思われる。
二〇〇八年十二月、『上海博物館蔵戦国楚竹書』の最新刊である第七分冊が刊行され、その中に『鄭子家喪』と題する一篇が収録されていた。
第七分冊の公表直後、インターネット上の学術サイト「簡帛網」などに、第七分冊関連の論文が陸続と発表されたが、多くは文字の考証を中心とする札記類である。
これらの成果により、原釈文のままでは読めなかった多くの箇所が読めるようになり、『鄭子家喪』についても、全体の通読は一応可能となってきている。
ただし、『鄭子家喪』の文献的な特色や、『鄭子家喪』の著作意図などを論じた専論は、まだほとんど提出されていない。
『鄭子家喪』が記すのは、春秋の五覇として名高い楚の荘王の故事である。以下、その内容を簡単に記す。
物語は、鄭の子家が死去する一報がもたらされるところから始まる。この知らせを聞いた荘王はひどく憤慨する。
なぜなら、鄭の子家は嘗て鄭君を弑殺した大罪人であり、それ相応の処罰が求められるはずなのに、今、何事もなく安楽な死を迎えてしまったからである。
かくして荘王は、子家の罪を放置した鄭を三ヶ月包囲する。鄭は子家の葬儀を粗雑に行うことを条件に許しを請い、楚王も納得して鄭を解放する。
このとき晋は、鄭救援のために軍を南下させており、晋・楚の両軍は、両棠の地で激突。楚は晋を破って大勝利を収める。
楚が鄭を三ヶ月間包囲したこと、また、楚軍が両棠で晋軍を打ち破る所謂「?の戦い」については、『左伝』『史記』などにも関連する記載が見える。
しかしながら、なぜ楚は鄭を包囲したのか、また、なぜ楚は「?の戦い」で大勝利を得ることができたのか、以上の見方については各文献で見解が異なっており、
必ずしも『鄭子家喪』の認識と一致しない。
そこで本発表では、まず上記の歴史事件に関する『鄭子家喪』の認識を分析し、史書等の関連文献との比較を通して、『鄭子家喪』の文献的性格について考えてみたいと思う。
『史記』の八書に天官書が有り、『漢書』がそれを踏襲して天文志を設けて以降、一部の例外を除き、後に正史とされた史書は連綿と天文志を備えてきた。
だが、「天文」が「天の文象」と讀み解けるのに對し、「天官」とは、どの樣に讀み解くべきなのであろうか。
唐の司馬貞『史記索隱』には、「天文に五官有り。官とは、星官なり。星座に尊卑有ること、人の官曹列位の若し。故に天官と曰ふ。」と有り、
「人閒の官吏同樣に尊卑が存在する星座」つまり、「星官」という概念に基づいて「天官」解釋を行っている。
以後、この説は「天官」解釋の主流となり、特に清朝には、錢大昕に「五宮字皆當作官」説を立たせる根據の一部ともなり、
現代の諸研究者による「天官」解釋も、この司馬貞説の影響を受けているものが多い。
しかし、『史記』天官書の本文や周邊資料を檢討すると、天官書からは、「星官」の概念を見いだすことはできない。
また、「星官」の概念は、天の中外官の發生と關係するものである。つまり、人は天に從うものである、という要求の裏返しとして、
人閒に於ける中外官の差別化が天に投影された結果として發生したものである。だが、この中外官の差別化は、
漢の武帝の死後に明確化していくものであり、天の中外官も、それ以降に整備されていくものであって、
司馬貞説がその延長線上に位置するものである以上、その妥當性は疑わざるを得ない。
本發表では、以上の見解を詳述した上で、『史記』天官書に於ける「天官」の原義に對する私見を述べたい。
『漢書』叙伝下において、班固は自ら『漢書』撰述の経緯を述べ、「為春秋考紀、表、志、伝、凡百篇」という。
これについて顔師古は「春秋考紀、謂帝紀也」と注し、李賢も顔説を襲って、紀の叙述形式が「春秋之経」のそれに似ることを指すとする。
これらによれば『漢書』十二紀の原名は「春秋考紀」であったことになる。
十二世にわたり編年的に皇帝の事績を綴る紀の体裁が『春秋経』を彷彿させることは確かだが、先学の指摘するように、
編年体史書と『春秋経』との結合が『漢紀』『帝王世紀』『竹書紀年』等の出現を経て確立された認識であるとすれば、上の見方をそのまま自明とすることはできない。
一方で、周知のように『漢書』芸文志では『太史公』等を六芸略春秋家に属せしめており、これを推せば、ひとり紀に限らず『漢書』そのものが春秋学の書であってよい。
現に顔師古は上引の注につづけて「而俗之学者不詳此文、乃云漢書一名春秋考紀、蓋失之矣」といい、「春秋考紀」を『漢書』全体にかける別解の存したことを示している。
しかしこれも班固の意を得ていないと思われる。紀伝の関係を『春秋』経伝のそれに擬える説もあるが、それが思想史的に見て妥当であるかどうかはやはり検討の余地があろう。
班固がいかなる意図をもって「春秋考紀」を称したか、直接的な証拠を示すことは困難だが、班彪「略論」、劉歆「世経」等との比較を通して、
修史に際し班固の念頭にあった春秋観を、ある程度は想見することができよう。今回の発表では、とりわけ戸川芳郞氏の論考「偶談の余(2)」「同(3)」を導きの糸としつつ、
近年進捗の著しい漢代春秋学研究の成果にも学びながら、いささかの卑見を述べたい。
中国思想史において、国家の統治方法は、「郡県」-「封建」という概念により議論されてきた。
後漢「儒教国家」の衰退を機に、後漢末から提唱された「封建」の主張は、官学であった今文系経学、
就中『春秋公羊伝』でその勢力を抑制してきた同姓諸王を、『春秋左氏伝』を典拠に、皇帝の藩屏として積極的に活用しようとするものであった。
かかる議論は、歴史的には、漢魏交替期より本格的に進展する社会の分権化に対応して、皇帝権力の分権化により、
国家権力全体としての集権化を目指す思考と位置づけることができる。
西晉「儒教国家」は、「井田」「学校」と並ぶ儒教の理想的な統治手段として、同姓諸王の「封建」を行い、
王に都督・将軍の軍事的機能を併せ持たせ、皇帝権力を分権化した。しかし、王には諸侯への礼遇を、
諸侯には尊王を求めていた『春秋左氏伝』の理念と乖離する西晉の封王制は、武帝の死後、八王の乱を惹起する。
八王の乱の最中、成都王穎の参軍事であった陸機は、聖王の経国の義は封建に在ると考え、「五等諸侯」論を著した。
その中で、陸機は、すでに限界を露呈していた皇族の封建を主張することはなく、地方行政の立て直しの具体的な手段として、五等爵を持つ貴族に封土を与えることを主張した。
西晉における五等爵制は、爵制的秩序による国家的身分制を形成し、州大中正が設置されていた九品中正制度と相俟って、
世襲制を帯びた官僚制度の運用という中国貴族制の属性を生み出していた。しかし、本来的に皇帝からの自律性を有する貴族の中には、
五等爵制という皇帝が定めた秩序に基づく国家的身分制としての貴族制に対して、必ずしも満足しない者も多かった。
そうした中、敗亡した呉の出身でありながら、「文学」という文化的価値により、西晉の貴族へと参入し得た陸機が、
なぜ五等諸侯の「封建」を主張したのか、その思想史的・歴史的背景を考察してみたい。
「論語義疏」皇侃(AD488-545)に、「侃案」という表現を用いた疏(類似表現を含めてすべてで三十二条)がある。
この「侃案」の「侃」とは、皇侃自身を指すであろう。その一方、論語義疏の経・注に繋がれる疏の多くは、論述者の名を記さない。
この論述者の名を記さない疏も、皇侃が撰述したものであろう。すると「論語義疏」の中には、皇侃が撰述した疏として、
(1)「侃案」という表現を用いた疏と、(2)論述者名を記さない疏が並存することになる。
(義疏には、魏晋六朝時期の論語説家の名を示した疏もあるが、ここでは除外する)皇侃が撰述したこの二種の疏は、論語義疏の中でどのように関るのであろうか。
この問題を解明する前提として、「侃案」という表現に注目する。「按」は注釈のタームとして見慣れた語であり、かえって見過ごしていることがあるかもしれない。
そこで、いったん論語義疏の「侃案」から離れて、注釈の中で「按」という語が、どのように用いられているのかを通時的に考えてみる。
その結果を踏まえ、論語義疏に見える皇侃が撰述した(1)「侃案」を用いた疏と(2)論述者名を記さない疏について、
その記述内容の違いを明らかにし、その関りを考察する。これによって論語義疏という注釈がいかなる意図のもとに撰述された注釈であるかを明らかにしたい。
第二部会 文学(先秦~唐)
「明神」という語は、『左伝』に多く登場し、そこでは、盟誓の際に誓いの言葉を記した載書の中に見える。
載書では「此の盟に渝くこと有らば明神 之を殛せ」とあるように、「明神」は盟誓の確かさを保証し、背く者には罰を下すとされる神として、意識されている。
しかし、実際に出土した載書である「侯馬盟書」や「温県盟書」においては、「明神」に言及した例は認められない。
そうであるとすると、「明神」とは専ら盟誓にのみ関わる神と見なすことはできないのではないかと考えられる。
では「明神」とは如何なる神として、当時の人々に認識されていたのだろうか。このことを明らかにするためには、
載書以外の資料中に見える「明神」の用例について検討を加える必要がある。「明神」は、載書以外では『左伝』・『国語』・『晏子春秋』等に散見されるが、
これらの資料中では、「明神」は、四方神・四凶・人鬼・祖先神など雑多な神々として現れる。これら「明神」に充当される個別の神格にのみ注目すると、
「明神」には一見何の共通した性格も見られないように思われる。
しかし本発表では、これら「明神」に充当される個々の神格ではなく、それぞれの文脈において、「明神」という語に賦与されていた意味について考えてみたい。
その際、『左伝』・『国語』・『晏子春秋』といった伝世文献だけではなく、出土資料である「秦駰祷病玉版」をも考察の対象とし、
「明神」という語が持つ共通の意味内容、すなわち「明神」の役割・性格について考察してみたいと思う。
2―2 戦国時期の「詩」をめぐる「志」と「情」―「詩言志」説の再検討
『尚書』舜典篇に見える「詩言志」は、『春秋左氏伝』襄公二十七年の「詩以言志」や『荀子』儒效篇の「詩言是其志」、
『礼記』楽記篇の「詩言其志」などの類似表現とともに、古来、中国古典詩歌を規定した概念として存在してきた。
また、これが当時、相当普遍的な認識であったことも上海博物館蔵戦国楚竹書『孔子詩論』の「詩亡離志」など、新資料によって裏付けられている。
この「詩言志」への考察は、朱自清『詩言志辨』や聞一多「歌与詩」などによって本格的に取り上げられて以来、そこに述べられる「志」の理解に対し、
多くの見解が示されている。それは、「志」の内容が政治的・道徳的な指向の強い方向(「志」)にあるのか、
あるいは「六情」や「七情」に代表される感情的・情緒的な色彩の強い方向(「情」)にあるのか、
という点をめぐる議論であり、いまだ共通の認識を得るまでにはいたっていない。
そこで、およそ戦国時期の諸文献資料における「志」と「情」の用例を分析してみると、
「志」は心のなかにあって外部へ向けて表されていない意思という意味合いが強いようである。
一方、「情」は人間が本来的にもっている性質を表していることが多く、とくに郭店楚簡『性自命出』や上海博物館蔵戦国楚竹書『性情論』などの新出資料の記述では、
「情」は「性」と表裏をなすものであることが強調されている。
本報告では、これらの点を踏まえて、戦国時期における「詩言志」の再検討という観点から、
「志」と「情」の意味の分析を通して、当時「詩」がいかなるものとして認識されていたのかについて迫っていきたい。
これにあたっては、伝世文献にとどまらず、新出の楚簡資料を含めて言及していくつもりである。
漢代古詩と古楽府とはどのような関係にあるのだろうか。古楽府の中に、しばしば古詩と同じ五言のリズムが流れること、
また古詩との類似句が少なからず認められることなどから、両者が深い影響関係によって結ばれているのであろうことは、
これまでにも多くの先学によって指摘されてきたとおりだ。それでは、両者の間には具体的にどのような交渉があったのだろうか。
現在のところ、古詩は古楽府から派生したものだとする見方が大勢を占めているように看取される。定説では、古詩は文人の手に成り、
古楽府は民衆の歌に出自を持つとされているが、この前提によるならば、俗から雅への洗練という過程に両者を位置づけようとするこの推論はたしかに理解しやすい。
だが、すでに幾つかの先行研究が示唆するとおり、この推論は必ずしも全面的に妥当であるとは言えない。
思うに、古詩・古楽府ともに、これを漠然と一括りにして捉えることが視界を不鮮明にしているのではないだろうか。
古楽府と総称されてはいても、古詩との関わりが明らかに認められるのは、『宋書』楽志にいうところの「清商三調」及び「大曲」であって、
「相和」十三曲にはそれが無い。他方、古楽府との影響関係が、辞句レベルに留まらず、その発想にまで及んでいる古詩は、
発表者がこれまでに仮称してきたところの第一古詩群には属さない諸篇に偏っている。
また、西晋王朝の宮廷音楽としてその本辞が再編集された古楽府の中には、明らかに一部の古詩の句を新たに取り込んで成り立っているものが存在する。
こうした事例を手がかりに、古詩と古楽府との関係を究明し、以て漢代における五言詩歌の展開について、その経緯の一端を探り出したい。
東晋(317-420)の文人湛方生は『晋書』などの史書に伝はおろか名前も記載されていない人物である。
『隋書』経籍志に「晋衛軍諮議湛方生十巻録一巻」とあることから彼が衛軍諮議参軍であったことが分かるが、この集そのものは現在に伝わってはいない。
『藝文類聚』『初學記』をはじめとする類書等に二十九篇(断片を含む)の湛方生の詩文を見ることができる。
これらの現存する詩文のうち、「廬山神仙詩」の序文に見える「太元」という元号から彼が太元年間(376-394)あるいはそれ以降の人物であることが分かる。
この「太元」とは陶淵明「桃花源記」に記されていた元号でもあり、さらに湛方生の詩に用いられている語句から陶淵明の詩語との重複を見ることが出来る。
長谷川滋成氏はこのことを「湛方生の詩」(『東晋の詩文』溪水社2002、初出は『中国中世文学研究』第二三号))において既に言及されており、
これらの事実を指摘したうえで、陶淵明との交流あるいは影響関係の可能性を示唆されている。
湛方生の現存する詩文は、魏晋以降の文学の主流であった五言詩だけではなく幅広いジャンルに及んでいる。
「詩」と冠するものの中に六言詩が見られるほか、「賦」「謡」「詠」「吟」「教」「頌」「賛」「七」「銘」「解」「盟文」「弔文」など多岐にわたっており、
「謡」「詠」「吟」のような『文選』には見られない文学ジャンル(文体)の詩文も含まれている。東晋時代において、
これらの作品あるいは文学ジャンルはそれぞれどのような場の、どのような需要のもとで創作されていたのであろうか。
また、どういった人々と共有されていたのであるのだろうか。本発表では現存する湛方生作品の文学ジャンルを手がかりとして彼の文学活動の場を探り、
そのうえで陶淵明文学との関わりについても検討を行っていきたい。
謝霊運山水詩について、小川環樹氏が「つまり山水は、したがって同時に浄土です」と喝破され、
それを志村良治氏や衣川賢次氏が検証し論証されてから、四半世紀余りが経ちました。しかしなお、よくわからない点は残っています。
たとえば、謝霊運山水詩のかなりの割合を占める、山水描写から憂愁へと収束する詩群を、どう解釈したらよいのか。
「浄土」を見たにもかかわらず、憂愁はなおつきまとうのか。あるいはそれらを、漢魏以来の「信に美なりと雖も吾が土に非ず」(王粲「登樓賦」)という、
自然(美)と人事(憂)を対比するモティーフの踏襲型に流し込んでよいものか。
また、「賞」が山水を賞(め)で、それと物我一体に冥合して「理」に通ずることであるとしても、
その「物我一体」とはいかなる様態か。その時「我」の「情」はどうなっているのか。
発表者はこれまで、紀元前以来の「賞」字を検討することによって、少なくとも『世説新語』までの「賞」は、
「錫賚」「賞揚」「心解」の三意に共通するコア・イメージを有し、相互間の往復運動の像を内包するであろうと推定してきました。
また、謝霊運詩文における「情」は、慧遠や竺道生や宗炳らの思想におけるのと同様、「無」であることが期待されており、
謝詩においてそれを実現する契機となりうるのが「賞」であろうと考えてきました。
以上のような考察を踏まえて、謝霊運山水詩を再検討し、それがいかなる意味を持つものか、
また、山水描写から憂愁へと収束する詩群はどのように位置づけられるのかを、発表者なりに考えてみたいと思います。
沈約が晩年に著した「郊居賦」は、賦の主題としては潘岳「閑居賦」や謝霊運「山居賦」の系譜を継ぎ、
陶淵明「帰去来辞」も明確に意識された、六朝隠逸文学の集大成とも呼ぶべき賦である。と同時に、それらの先行する賦や辞とは、
さまざまな面で異質さを感じさせるテクストとなっている。例えば、住処を「郊」におき、ことさらに貧相に描こうとする姿勢。
潘岳や謝霊運が自得の空間としての豊かさを描いた「居」とも、陶淵明が「自然」たりうる場所として帰った「田園」とも異なり、
それは「窮野」「荒郊」に拓かれ、その中でつつましやかにあることが強調される。自己の志を「褊」とするのも、隠逸において常套の「拙」とは異なる自己規定であろう。
また、「山居賦」が自身の経歴や世のありさまについてほとんど触れないのに対し、「郊居賦」は、世に翻弄された沈氏の歴史、
そして自身の経歴を縷々語り、さらに斉末の混乱とその嘆き、梁朝の勃興とその喜びが述べられ、この部分だけで賦全体のほぼ三分の一が占められる。
隠逸という観点からのみ「郊居賦」を読もうとすると、これらの要素はいささか不純であり、例えば謝霊運の豪放さや陶淵明の真率さとの落差を際立たせるもので、
修辞のみが先行する印象を与えるかもしれない。しかし、「荒茫」たる世界が招隠詩に通じ、山河から歴史を説く形式が「征」の賦の流れでもあることなどを確認するならば、
「郊居賦」は、狭い意味での隠逸文学ではなく、それまでさまざまな形式や主題で書かれてきた文学を、
自己のありかたを定位するという観点から集成しようと試みたテクストであったと読むことができる。
そう読むことで、いわゆる隠逸文学の概念自体も広く捉え直すことができよう。吉川忠夫、中森健二、今場正美の各氏らによって為されてきた貴重な研究を踏まえつつ、
もう一度「郊居賦」の可能性を探ってみたい。
韋応物の晩年について、従来は、王欽臣「韋蘇州集序」に「貞元初、又歴蘇州。罷守、寓居永定精舍。」
(貞元の初め、又 蘇州を歴。守を罷め、永定精舎に寓居す。)とあることや、韋応物の「寓居永定精舎」詩の題下注に「蘇州」とあることなどから、
韋応物は蘇州刺史辞任後に没したとされていた。だが、二〇〇七年に出土した韋応物の墓誌(友人の丘丹撰)には「遇疾終于官舍。」(疾に遇ひて官舎に終はる。)とあり、
従来考えられていた事跡と異なる。
墓誌の記述を確かめるために調査をしたところ、『錦繍万花谷』続集巻九「真州」に「獨憐幽草澗邊生、上有黄鸝深樹鳴。春潮帶雨晩來急、野渡無人舟自橫。」
(独り憐む 幽草の澗辺に生ずるを、上に黄鸝の深樹に鳴く有り。春潮 雨を帯びて晩来急なり、野渡 人無くして舟自から横たはる。)という詩が引かれ、
その注に「出韋應物「過永定寺題詠」。在六合縣。北有茅草澗。」(韋応物の「永定寺に過ぎる題詠」より出づ。六合県に在り。北に茅草澗有り。)とあるのが見つかった。
この記述などから、現在発表者は滁州六合県に永定寺があり、韋応物は滁州刺史退任後、そこに閑居し、蘇州刺史退任の事実はなかったのではないかと推測している。
このことは、永定寺にまつわる韋応物詩の繋年に関わってくる。同時に、韋応物が蘇州刺史を退任しないまま生涯を閉じたのであれば、
「寓居永定精舎」詩などをもとに考えられていた、晩年の韋応物の吏隠意識についても再考を迫られることになる。
今回の発表では、永定寺にまつわる韋応物詩を中心に繋年を見直した上で、晩年の韋応物の吏隠意識がどのようなものであったのかを再考してみたい。
晩唐の詩人司空図(八三七-九〇八)は、詩人としてよりも寧ろ詩論家として広くその名を知られている。
詩の味わいの重要性を説く彼の文学論は、独自であるとともに後世に与えた影響も大きく、文学理論史の上で重要な位置を占めるものである。
しかし、その難解な文学論には、今なお多くの問題が残されている。そもそも彼の文学論は書簡などによって断片的に語られたものが多く、
体系的に把握することは困難である。のみならず、そこで用いられる文学批評の諸概念およびその表現方法は実に特異であり、
その意味を正確に捉えることは容易ではない。彼の文学論の中でもよく知られ、おそらく最も重要である「味外の旨」もまた未だ十分な認識が得られていないのである。
「味外の旨」は「李生に与えて詩を論ずる書」において用いられた言葉である。従来これは無批判的に、詩文のもつ味わい、
滋味と解釈されてきたが、その味わいがいったい如何なるものであるかということは論じられてこなかった。
司空図のテクストを詳細に分析すると、ここで言われている味わいは、従来考えられてきたような個々の作品それ自体の趣ではなく、
作品に通底する作者の個性であると考えられる。本発表では、このことを「柳柳州集の後に題す」「詩賦」といった彼の他の文学論を参照しながら考察したい。
また、「味外の旨」は「韻外の致」「象外の象」とともに「三外説」と総称され、この三者の関係を把握することが、
司空図の文学論を理解することであるとされる。本発表では、従来の「三外説」の問題点を指摘しながら、この三者の新たな関係を考察し、
彼の文学論の基本的な枠組みを提示したいと思う。とりわけ、司空図の文学論と「意境論」との関わりについて詳しく述べたい。
南宋尤袤本(以下尤本と略称)によって李善注『文選』を覆刻した清の胡克家は、その著『文選考異』の巻末において、袁説友の跋文を引用しながら次のように述べている。
「尤公 博く羣書を極め、今 親ら讎校を為して補うこと有り云云」(以上、胡克家による袁説友跋文の抜粋)と。
(中略)此の跋末に尤の讎校を言えば、語 未だ竟らずと雖も、其れ改易する所有るなり。顯然たること已に見ゆ。今 後に錄附して、以て詳考に資す。
胡克家は、ここにみえる「親ら讎校を為して補うこと有り」という袁説友の発言を重視し、尤袤が『文選』李善注を刊行する際、「改易」つまり手を入れたとみなしている。
このような胡克家の見方に対しては、従来の研究においても考え方が一定していない。程毅中・白文化「略談李善注《文選》的尤刻本」は、
尤袤は改易していないと否定する。森野繁夫「宋代における李善注文選」は、尤本が六臣注本から抽出再編されたものと推定している。
岡村繁『文選の研究』は、尤本の祖本が北宋国子監本からのものであり、五臣注『文選』の記述が剽窃されていたであろうと推定する。
傅剛『《文選》版本研究』は尤本あるいは尤袤の用いた底本は、李善注を主として五臣注『文選』、六臣注『文選』を参照しながら成ったと結論づけている。
富永一登「『文選』李善注の伝承」は、「従省義例」を分析した上で、尤本の成立について、尤本が李善注の旧を復元させようという考えのもとに、
北宋刊本では分かりにくかった個所を改変しようとしたのだろうと推定している。
本発表では、尤袤が『文選』李善注を改易したのか否かという問題について、どのように考えるのが妥当なのかを、
李善注の中にみえる「善曰」という記述に着目し、近年刊行された北宋国子監本・吐魯番本『文選』などと尤本を比較しながら検討する。
また、尤袤の用いた底本についても、若干の考察を試みるつもりである。
仏僧が一般大衆に対して経典の内容を説く俗講の場で用いられる講経文は、経文の引用、散文による解説、韻文による歌讃を繰り返す形式で制作され、
「敦煌変文」の中で最も厳格な規則性を有している。この規則性及び俗講の解明は、既に「変文」初期研究から向達・孫楷第氏らによる優れた研究が存在し、
一定の共通認識を得ている。だが、講経文が俗講の中で如何に用いられていたのか、及び使用楽器や曲調を含めた具体的な上演形態については、
現在までほとんど論じられていない。本発表は、主に講経文の韻文分析を通して、これらの解明を試みるものである。
最初に、S.4417に見られる俗講の手順を中心に、円仁の『入唐求法巡礼行記』、及び「廬山遠公話」等の記述を参考にして、
敦煌における俗講儀式を再構成する。これは、講経文が「作梵」に始まり「回向」に終わる一貫した儀式の一部分として組み込まれていたものであり、
全体のバランスの中で作品が如何なる位置を占めるかを把握する必要があるからである。また、現存作品における散文と韻文の交代回数等から、
講経文の具体的な上演時間の割り出しを試みる。多くの講経文は、各々16句程度の韻文部分を20回程度繰り返している。俗講儀式を再構成すると、
これらは早朝から夕刻前までの数時間において演じられていた可能性が高い。したがって、講経文の「経文――解説――歌讃」の一サイクルは大よそ30分程度で構成され、
聴衆を飽きさせない長さとなっていたと考えられる。
次に、P.2418《父母恩重経講経文》を用いて、韻文の歌讃部分を中心とした具体的な分析を行なう。
歌讃部分を更に「仄声韻等」「その他の七言平声韻」「唱将来の七言平声韻」に分類すると、これらも「経文――解説――歌讃」のサイクルと同様、極めて規則的に配置されており、
かつ平仄や粘法の遵守状況も各々異なっている。つまり、講経文では押韻の種類も明確に役割分担されており、
歌讃は「誦――吟――唱」の如く、うたい方を変えて演じられていた。そして、このような異なったうたい方は、
「各小段―→各「唱将来」―→作品全体―→俗講全体」における基本構造として繰り返されていたと考えられる。
最後に、上演に際してどのような楽器や曲調を用いていたかを、作品内の記述の他、他資料や日本の声明等を参考に考えてみたい。
第三部会 文学(宋~清)
北宋は伝統的儒学が、儒・仏・道の融合を経て、新儒学すなわち理学へ発展していった転換期だが、社会倫理の規範も、
緩いものから厳格なものへと変貌を遂げていった。倫理道徳が新たに形成されていくにつれ、男性中心の国家政治社会の中で、
社会の女性に対する評価も、徐々に後退していき、極めて保守的な方向に変化していった。宋代文化の特殊性は、宋代文人特有の生活態度や価値観を決定づけた。
梅堯臣は、新傾向の宋詩の創始者と目される詩人であり、彼が妻を詠じた詩は独特な風格に満ちている。梅堯臣の妻に対する描写には、
前代の詩人を超越した個性的な女性観表現されている。梅堯臣の妻を詠じた詩は、「人間の婦を見盡したれど、
美しく賢なるに如くは無し」に代表される悼亡詩がよく知られている。しかしそれ以外にも、梅堯臣は数多くの詠妻の詩を残している。
彼は作詩の過程で、ある時期における妻の生活の断片、思想、情感、心理状態を理知的に観察し、女性の中に独自の価値観を見出した。
梅堯臣の詠妻詩は、(一)女性に対する観察が一貫性を持っていること、(二)妻に対する評価が非常に平等公正であること、の二点に要約される。
本発表では、梅堯臣の妻に対する一貫した描写と、妻を観察する独自な視点を手掛かりに、
梅堯臣の妻を詠じた作品群及び妻の墓誌銘(作者は欧陽修であるが、行状その他の材料を提供したのは明らかに梅堯臣であるので、
彼の関与は否定できない)に分析を加え、梅堯臣の女性観の形成過程を検討していきたい。これらの作品群を正確に評価検討することは、
梅堯臣の為人や作品の理解に資するだけてなく、士大夫が家庭生活を重視したとされる宋代文化を理解する上でも重要であると考える。
3―2 陸游と四川人士の交流―四川制置使兼知成都府范成大の治績と関連して―
南宋の陸游(一一二五~一二一〇)が「放翁」と号したのは、淳煕三年(一一七六)に成都に寄寓していた際、
「燕飲頹放」を譏られたことに由来する(『宋會要輯稿』職官七十二之十五)。従来、この弾劾の理由に過ぎない「燕飲頹放」が、
そのまま陸游の実生活での態度として評価されてきたため、陸游の成都寄寓時代は、上司である范成大(一一二六~九三)との文学的交流を除くと、
理想と現実の間に鬱屈とした時期として、必ずしも積極的な評価を与えられていない。
ところで、淳煕二年から四年(一一七五~七七)に四川制置使兼知成都府として赴任した范成大の治績は、
当面の対金講和を是とし内政を重視する中央の方針と軌を一にしており、とりわけ四川人士の登用がその特色とされる。
また、同時代人の評価において、范成大の文名の高さが四川統治に有効に働いたことが指摘されている(劉宰「書石湖詩巻後」)。
こうした范成大の政治的課題である四川人士の人心掌握という側面から、陸游と范成大の文学的交流は、
政治的意義においても積極的評価を与えるべきであると発表者は考える。范成大着任の二年前(乾道九年、一一七三)から成都に居た陸游が交流していた四川人士は、
北宋名臣の子孫であったり、また蘇軾・黄庭堅と繋がる一族であった。南宋期四川は、独自の文化的伝統に支えられた地域であり、
その四川人士を読者として、陸游の詩文は創作されたのである。その重要性は『剣南詩稿』という書名にも表れている。
本発表では、陸游の四川人士との交流について考察し、四川人士を陸游詩の読者として想定することで、
その創作活動が范成大の治績に貢献していたことを明らかにしたい。また、陸游が捉えた四川人士の士風を探ることで、南宋期四川の文化的位置付けについても言及したい。
3―3 宋元文学批評史上における劉辰翁の評点活動の評価―劉辰翁評点『李長吉歌詩』を中心に―
宋末元初の劉辰翁(号は須渓、一二三二―一二九七)は、唐宋の詩を中心に大量の評点を残した人物として中国文学批評史上にその名を知られている。
発表者はかつて、従来の文学史では宋末の文人として位置づけられることの多い劉辰翁の文学活動は、むしろ元代文学において、
より重要な意味を持つことを論じたが(「劉辰翁の評点活動と元朝初期の文学」/『中国文学論集』第三七号、九州大学中国文学会、二〇〇八年)、
元代における彼の活動の中心である評点活動が如何なる文学思想をもとにしてなされ、また宋元時代の文学批評と如何なる関係にあるのかという問題についての考察は、
いまだ不充分であった。
そこで今回の発表では、劉辰翁の評点にあらわれた文学思想が宋元時代の文学思想と如何なる関係にあるのかについて考察する。
彼の評点が出版されてまで当時の人々に求められ、受け入れられたのは何故なのか。宋元文学批評史の中で劉辰翁評点の出現が持つ意義について探りたい。
劉辰翁の評点が作品中に込められた作者の情を読み取ることをその特徴とすることは従来指摘されるが、
それは元代に盛んになる性情論と深く関わるものであると同時に、宋代の詩学に対する批判と反省から生まれたものでもある。
就中、宋代以降の印刷技術の発展を背景として当時盛んに出現した詩文への箋注に対する批判や、科挙がもたらした文学の衰退への批判が大きな要因として挙げられよう。
今回は、劉辰翁の最初期の評点の著作であり、また劉辰翁評点の中でも当時において影響が最も大きく、後世の評価も高い、
李賀『李長吉歌詩』への評点を中心に取り上げて、詳細な分析を試みる。その分析を通して、如上の諸問題に対する私見を提示したい。
3―4 『紅楼夢』における人物住居の描写について―瀟湘館と蘅蕪苑、怡紅院をめぐって―
林黛玉は大観園の瀟湘館に、薛宝釵は蘅蕪苑に、賈宝玉は怡紅院に住む。瀟湘館と蘅蕪苑、怡紅院における風景の描写とその主人公の林黛玉や薛宝釵、
賈宝玉の人物の設定、また作品のプロットへの暗示の役割などは、非常に注意すべき問題である。
瀟湘館で最も目を引く景物は「千百竿翠竹/無数の青竹(第十七・十八回)」である。「竹」と瀟湘館の「瀟湘」の二字は、
湘妃が竹に滴らせた涙が斑点となるという「湘妃竹」の典故と非常に密接な関係がある。作者はそれを借りて林黛玉の賈宝玉への愛情の執着を表すと同時に、
間接的に林黛玉が最後涙が尽きて亡くなるというプロットにも関連させている。しかし、瀟湘館を遮る「無数の青竹」と同時に、
作者はまた裏庭に「大株的梨花兼着芭蕉/大きな梨花それに芭蕉(第十七・十八回)」という景物を設置している。
『紅楼夢』において、「梨花」と「芭蕉」は林黛玉と直接的な関係性が見出だせないにもかかわらず、
なぜ、瀟湘館で「無数の青竹」とともに大きな「梨花」と「芭蕉」も設置されているのだろうか。また、賈宝玉の住む怡紅院にも「芭蕉」が設置されている。
怡紅院と瀟湘館に設置されている「芭蕉」の共通点と相違点は何であろうか。蘅蕪苑において、作者は「一株花木皆無、只見許多異草/一株の花や木も見当たらず、
あるのはさまざまな珍しい草ばかり(第十七・十八回)」を用いて「異草/珍しい草」を強調し、また「金簦草」「玉蕗藤」「山石」などの景物も設置されている。
作者はなぜそのように景物を設置したのだろうか。
本発表では主に、林黛玉と薛宝釵、賈宝玉の大観園での住居である蘅蕪苑と瀟湘館、怡紅院を中心にし、
住居とその主人公たちの個別描写にのみならず、そこに住む人物たちの相互関係、
および作者がいかにして住居の景色描写を通してプロットや人物の運命を掲示しているかなどについて考察していきたい。
『紅楼夢』の主人公の賈宝玉は、他人から「瘋癲(気がふれている)」「乖張(へそ曲がり)」「痴頑(へんくつ者)」「怪譎(奇妙きてれつ)」などと何度もいわれ、
本人もそれを自認している。しかし、本当に異常性格であるかといえば、そうでもなく、実に聡明で爽快なところもある。科挙の学問は一向にやらないが、
詩文の才能には目を見張るものがある。儒書は読まないが、老荘や仏書には精しい。このように、彼の人間像は矛盾だらけで本当に掴みにくい。
こうした風変わりな人物が小説の主人公になることは中国文学史においては稀有のことである。とりわけ、淫欲の情を起こすこともなく、
多くの美女と親密につき合うこと、さらには、自らが男性であることを顧みず、女性との同化を望むかのように振る舞うさまは、一体どう説明したらよいのであろうか。
私は以前から、賈宝玉には性的倒錯の傾向があり、『紅楼夢』を性的倒錯という視点で解釈できるのではないかと考えていたが、
具体的にどのような種類の性的倒錯に該当するのかを特定できなかったので、この問題を放置してきた。しかし、ここ十余年来、わが国においても、
性同一性障害(Gender Identity Disorder, GID)の問題が、法学・医学の面でも、精神心理学の面でも大きく取り上げられるようになった。
私は、それらに関する医師・研究者の著書や、症状を公表(カミングアウト)した障害者の報告書を読み、
賈宝玉は、今日のいわゆる性同一性障害者に当たるのではないか、と考えるに至った。
もし『源氏物語』の光源氏にも比すべき賈宝玉が性同一性障害者であるとすれば、『紅楼夢』の作品世界の多くの不可解な部分が、
さながら大きな疑団が一挙に消え去るように説明可能となる。また、『紅楼夢』という作品に対する従来の見方にも転換が必要になるだろう。
3―6 「帰有光の時務文―もうひとつの『未刻集』が語るもの―
私は今年二月に上梓した『帰有光文学の位相』(汲古書院)において「二つの『未刻稿』」と題する文を発表し、
上海図書館と台北の国家図書館に蔵される帰有光の未刻鈔本について紹介した。未刻とは、帰有光の没後、
万暦に刻された『帰太僕先生集』(崑山本)に対する謂いである。二つの未刻稿鈔本は同一人物の手によるものだが文には出入があり、
しかも後人のつけた跋文によれば、これ以外にも複数の未刻鈔本が存在していた。
今年五月、私は北京図書館古籍館で新たに『帰震川未刻集』不分卷二冊を発見した。前掲二つと同一筆跡による鈔本で、
収載文の多くは重複するものの、前者にないものとして「時務」文がある。康煕本『震川先生集』(通行本)や嘉慶刻『帰震川先生大全集』にも見えない帰有光の佚文である。
「時務」文は十九篇。①帰有光が挙人時代に崑山県に提出した意見書である「呈稿」、②長興知県として布告した「掲帖」、
③強盗や殺人、婦女暴行、横領事件を審理して下した判決文「審単」の三種に分けられる。③は『折獄亀鑑』を彷彿とさせるもので、
裁判調書や判決文が未刻集とはいえ個人の別集の中に残された例は少ない。
帰有光は六十歳でようやく進士の第を得て長興知県を拝命したものの、次に任ぜられたのは順徳府の通判で、仕事は馬政を司ることであった。
順徳府は直隷地とはいえ、明一代を通じて一旦県令となった進士及第者が倅官として馬政に携わった例はなく、事実上の左遷であった。
墓誌銘によれば、長興での帰有光は裁判の際に婦女子といえども証人として出廷させ、彼らが呉語で話すのに耳を傾け、
訴えには迅速に対応し胥吏が暗躍して賄賂を取るすきを与えなかったというから、土地の有力者の不興をかったに違いない。
新発見の時務文は、具体的な資料が乏しい県官時代の帰有光の事跡を明らかにすると同時に、
明の文人官僚が日々の業務の中で現実の世俗に如何に向き合ったのかを示す貴重な資料でもある。
3―7 王漁洋の「南唐宮詞八首」について―個性を与えられた女性たち
王漁洋の女性を題材にして詠じた詩には、往々にして描写対象となった女性を称揚したものがある。
本発表でとりあげる「南唐宮詞八首」は、漁洋が意識的に女性を称揚しようとしたことが窺える。その特徴は次のとおりである。
一、女性を称揚するとき、従来の「宮詞」とは異なり、詠じられている女性が特定できるようになっている。
これは、詠じられた女性を特定することで、女性に存在感を持たせ、実際に優れた女性がこの世にいたことを強調する狙いがあったのだと考える。
二、南唐の皇帝、特に元宗と後主の二人は文学的に優れた才能を発揮していた。しかし、彼らの文学的才能を称揚した詩がなく、
王朝の繁栄ぶりが強調して描かれている。これは、繁栄した王朝だからこそ、才能豊かな女性たちが現れてくるという認識があったのだと考える。
つまり、南唐の皇帝たちは優れた女性を輩出し支える存在として描かれているのである。
三、「南唐宮詞八首」の構成。其一・二は皇帝たちのことが描写され、其三・四・五・六は才能豊かな女性たちを描写し、
其七・八は再び皇帝のことが描写されている。女性が詠じられている詩を、皇帝が詠じられている詩がさしはさむ構成をとっていることに気付く。
つまり、はじめに王朝が繁栄していくさまを描き、次に繁栄した王朝の中で自由に才能を昇華させていく女性を描き、最後に女性が才能を維持できるように、
王朝の繁栄が保たれていたことを描いている。これは、女性の才能が際立つように、構成が工夫されているのである。
本発表では、「南唐宮詞八首」のこれらの特徴を詳述し、詩において女性を称揚することが、王漁洋の一特徴であったことを論じてみたい。
『三侠五義』は、清代侠義小説の代表作とされる。従来の研究では、しばしば『水滸伝』と比較され、内容が体制的であることが、
『三侠五義』をはじめとする清代侠義小説の特徴とされた。確かに、『三侠五義』では、侠客義士は包拯の推挙によって官途に就く。
そこに体制に反抗する英雄像を見いだすことはできず、落草した英雄達が中心人物となる『水滸伝』とは基本的な設定に大きな違いがある。
その一方で、『三侠五義』においては、盗賊である「緑林」は悪と見なされており、侠客義士とは明確に区別されていた。
また、清代侠義小説において、忠臣や孝子を救うという道徳的価値観と結びついた「侠義」という概念についても、『三侠五義』では、
「緑林」とは相容れないものであると認識されている。
ただし、『三侠五義』に見られる「緑林」観が、清代侠義小説に普遍的なものであるとはいえない。同じく清代侠義小説でも、
小説として流行した『三侠五義』に比べ、演劇として人気を博した『施公案』や『彭公案』では、官僚以外の主要な登場人物のほとんどが「緑林」であり、
「緑林」には善も悪もある。さらに、「緑林」が「侠義」を標榜することも珍しくはない。盗賊を悪とみなし、英雄とはっきり区別する傾向が強いのは、
むしろ金聖歎本や『蕩寇志』など、『水滸伝』の続作に見られる特徴であった。
そこで、本報告では、『三侠五義』の「侠義」と「緑林」の関係を手がかりに、『三侠五義』に描かれた価値観について分析すると共に、
清代侠義小説や共通する題材の戯曲、また『水滸伝』の続作を視野に入れ、その位置づけについてもできるかぎり明らかにしたい。
3―9 王国維の「人間」について―生への抗い、隠の挫折と無への希求―
王国維の「人間」は従来『荘子』「人間世」が典拠とされ、隠遁思想の反映と評されてきた。「現実逃避」の「逆説」と見る竹村則行氏の説はこれにもとづくが、
陳鴻祥氏によれば王国維の「人間」にはそれに対比される「天上」や「楽」がないという。
陳氏の言及の通り、確かに王国維の詞中では「人間」が「天上」と対比されている例がない。また、「天上」に類するものとして対比されている自然に関していえば、
その様相は古代の隠逸詩とは異なり、自然との不調和や隠遁の不可能が述べられている。
かつて『荘子』は大隠を説き、あるいは古代の詩人たちは一般に山居に身を置くことで小隠を実現させてきたが、
王国維にとっては世間との距離は問題ではなく、「現実逃避」は不可能であった。このことから、王国維の「人間」は古代のそれとは異なり、
「人間」に対するものがこの世には存在しえないという意味において陳氏の説はおのずと首肯される。
しかし、王国維の「人間」に対比されるものの存在は果たして否定されてよいのだろうか。そもそも彼の隠遁不可能はその我執に起因しているが、
「無我の境」は実のところ「身」が伴う以上は達成されず、「死」によってはじめて得られる境地であった。
王国維の晩年の自沈については多々議論されてきたが、若年の頃からもすでに死への憧憬は認められる。『人間詞』ののちの改名『苕華詞』からは、
「人間」は王国維にとって憂いの伴う生の場を意味するとともに、死への希求を暗示したものであったことが窺える。
本発表ではまず陳鴻祥氏の説に対して、王国維の「人間」には対立するものが果たしてなかったかという問題を提起したい。
そして、従来挙げられてきた彼における隠遁の意味や『荘子』との関係性について再考することにより、「人間」についての新たなアプローチを試みたいと思っている。
第四部会 文学(近現代)
一九一九年に郁達夫は一時帰国した際に、北京で兄の郁曼陀と世界各国の文芸作品を討論した。
達夫がイギリス、ドイツの田園小説を珍重すべきだと言ったのに対して、兄の郁曼陀は『西青散記』を勧めた。
郁達夫は日本に戻ってから上野の帝国議会図書館で『西青散記』を発見し、全体を抄録したくなるほど賛美し、その後もずっと同書を探し続け、
『西青散記』の「情」と才女の悲劇を嘆き、哀感の漢詩を綴り続けた。
大正年代には、イギリスとドイツの田園小説の移植に従い、旧制高等学校などの場では「田園」という虚構の抒情空間が流通し、複製されていた。
郁達夫も八高に在学していた時、イギリスとドイツの田園小説に接触し、それに深い共感を覚えたものと思われる。
郁達夫が日本で発見した清代の『西青散記』と、日本で出会ったヨーロッパの田園小説が如何に若き郁達夫に影響を与え、
彼を創作へと駆り立てて、不遇な哀情を抱く「私」という自我像を造り出したのであろうか。
また郁達夫だけではなく、森鴎外も『西青散記』に深く同情して、武田泰淳も『西青散記』に基づき、
戦後第一作の小説「才子佳人」を書いている。不幸になりきる勢いと弱者に共感する態度は、文人が想像世界へ脱走するエネルギーになるといえよう。
このような日本における『西青散記』の系譜において、郁達夫はどのような位置にあるのか、この点についても併せて考察してみたい。
4―2 日本人が賈樟柯の映画から見る中国社会―『世界』と『長江エレジー』を巡って
中華人民共和国において大衆メディアである映画は、主に国内外へのイデオロギーの宣伝に寄与してきた。
人民映画『白毛女』、『不屈の人々』などは、日本においてある程度「中国を知る窓」の役割を果たしたといえよう。
しかし一九八〇年代以降、改革開放の気運の中で、チェン・カイコー(陳凱歌、一九五二~)、チャン・イーモウ(張芸謀、一九五〇~)らが芸術としての映画を作り始めた。
彼らの作品は西欧の中国ファンを魅了したが、日本では「彼らの映画は西欧への媚態である」
「(彼らの映画を観ても)現在の中国をまっすぐ見据える視点を獲得するのはほぼ不可能だ」といった批判も下された。
しかしジャ・ジャンクー(賈樟柯、かしょうか、一九七〇~)の映画の出現が、日本人の「現在の中国をまっすぐ見据える視点を獲得する」期待を満たしたと言っても過言ではない。
「ジャ・ジャンクーは中国の城鎮(田舎町)を発見した」と言われたように、今まで小説や映画にはほとんど登場しなかった城鎮を、
ジャ・ジャンクーは生々しく表現した。城鎮とは、様々な理由で農村部から離れた人たちを吸収している、都市と農村部の中間のような地方単位である。
中国経済の発展の恩恵を如実に享受している都市とは対照的に、農村部、さらに城鎮は長期の停滞状態にある。長い間、中国のマスメディアで農村問題を扱うことは、
かなりタブーに近いものであったが、彼はタブーを打ち破り、城鎮のリアルな映像をドキュメンタリー風に撮り続け、
改革開放の追い風に取り残された人間の生き方に焦点を当てた。そんな彼の作品は、カンヌ・ベネチア・ベルリンの三大映画祭すべてで最高賞を受賞し、
また日本では市山尚三(オフィス北野のプロデューサー)が「名実ともにアジアを代表する映画作家」と絶賛し、
北小路隆志(評論家)が「劇的な変化を体験しつつある中国の現在を目撃することができるようになった」と評価している。
日本でも彼の映画はほぼすべて上映されており、映画監督の北野武氏が所属するオフィス北野が彼の映画制作に出資を行うなど、支持する日本人は多い。
本報告は、日本人がジャ・ジャンクーの映画の受容を通じてどのような中国(人)像を形成してきたかを探りながら、日本人の中国認識の特徴、歴史性などを明らかにする。
4―3 瞿秋白『多余的話』の語りの構造―「時間」をめぐるテクスト分析的試み―
一九二〇年代に中国共産党の指導者をつとめ、ロシア文学者でもあった瞿秋白は、一九三五年国民党に処刑された時、
革命家としての生い立ちを綴りながら自らの「反革命性」を述べた文書を遺した。
この『多余的話(余計な言葉)』は「革命」を裏切る文書として共産党政権下で長く批判されてきたが、
その一方、中国近代知識人の特異な精神を表す作品として多くの研究者の注目を集めてきた。
先行研究では主に書かれた内容(意味)を検討したものが中心であったが、報告者の関心は様々な解釈を引き出す作品の構造にある。
そこで本発表ではテクスト分析の方法を用いてテクストの構造を明らかにし、その構造に込めた瞿秋白の文学的意図を考察したい。
テクスト分析方法の中でも報告者が用いるのは「自伝」(注-西欧の自伝)の分析方法である。「自伝」は一九七〇年代、
フィリップ・ルジュンヌによって精密に定義されたジャンルである。自伝の特徴の一つとしてルジュンヌは「物語の回顧的展望」を挙げているが、
それは過去から現在への直線的な時間だけではないことも指摘している。瞿秋白は五四期の文学作品『俄郷紀程』『赤都心史』や、
その他のエッセイにおいて、語りによって将来の自己像を創出しようとする傾向があるが、その語りには複雑な時間意識が表れている。
彼が人生の最後において書いた『多余的話』にも、過去から現在だけではない複雑な時間が流れているが、
本報告ではそれがどのような自己像を創出するものであったのかを検討したい。
更に、このようなアイデンティティを模索する時間的な「語り」が中国新文学において現れたことの意味を、「近代性」をキーワードとして初歩的考察を試みたい。
魯迅の「詩と哲学の融合」とされる象徴詩群『野草』は、時代に即して様々に解釈されてきた。2000年以後の中国では、
『野草』を魯迅の「恋愛詩」として読む研究も行われている。これらの斬新な研究に納得できる一面があるものの、
文学テクストの解釈の恣意性も強く感じさせてしまうところがある。
たとえば「秋夜」の中の、火に飛び込む「小さな飛び虫」。胡尹強『魯迅:為愛情作証』(2004)は、それが「許広平」を象徴している、
「本物の火」が「恋の火」だ、と指摘する。それまでに、「飛び虫」は「命を粗末にする愚昧な青年像」(李何林1973)、
或は「黙々と抗戦した烈士」(片山智行1991)の象徴とされてきた。これら新旧の説は一見して違うように見えるが、
共通するのは、テクスト外の資料(伝記的資料或は魯迅という文脈)を基になされた「読み」(「推測」)に過ぎない。
このような読み方は否定すべきものではないが、恣意的解釈になる恐れを孕んでいる。
心象風景が多く描かれる『野草』において、「諸々の表象が意味するものが絵解きでもするような具合に解釈されることがあるのも、
ある程度自然な成行きといわなければならないが」(木山英雄1963)、その解釈は、まずテクスト内情報(書かれた「行」)に基づき、
それらがテクストの「構造的磁場」において生成したコンテクスト(「行」の「間」)を読み解く作業であるべきではないだろうか。
「飛び虫」を例に言えば、「飛び虫」は「小さい」という描写において、「小さな薄紅色の花」と関連を持つ。また、「飛び虫」が「火」に向かうという描写は、
「棗の木」が「空」に向かって「突き刺す」という表象に共通性がある。「空」は「怪しく高い」というなら、「火」もまた同様に「うさんくさい」という構図になる。
「この火はほんものだ」という台詞の下に隠された魯迅の思考が、この構図において明白に見て取れる。
本発表は詩作品としての『野草』の行間を読む試みである。この際、社会言語学者野林正路の「意味の磁場」
(『意味の原野――日常世界構成の語彙論』和泉書院2009)に関する研究方法を用いる。
中国において、近代に大きな文化的変革が起きたのは言うまでもないが、
その変革の一部として近代文学と近代的通俗小説――いわゆる五四文学と鴛鴦胡蝶派とが発生した。その中で特に探偵小説に注目したい。
探偵小説はエドガー・アラン・ポーにより近代に「発明」されたとされる。その発生は、よく近代メディアの成立との関係の中で論じられ、
エドガー・アラン・ポーの『マリー・ロジェの秘密』や、日本で最初の創作探偵小説とされる黒岩涙香の『無惨』は、
実際の殺人事件の報道記事をそのテクストに内在している。探偵小説の発生の背後には、近代メディアが成立し、
それが多くの読者を獲得し、またその読者の中に、新聞に掲載された「犯罪」報道をスペクタクルとして消費する、
そのような想像力が芽生えたことが大きく関わっていると考えられている。
中国の探偵小説の発展を考えると、日本や欧米とは異なっている。近代中国においても、政界ゴシップなどの新聞報道を受容し、
それをスペクタクルとして再生産する読者またはそのような想像力が存在していた。しかし、晩清以来、翻訳がブームとなり、
20年代以降には創作もされたが、その後発展したとは言いがたい。その原因は一体何であろうか。そこで、この想像力に注目し、
それが中国においても確認できるか否か、それが探偵小説の創作へつながっているか否かを考えたい。
特に「犯罪報道」はどのように受容/再生産されていたのだろうか。ここで注目したいのが黒幕小説である。
黒幕小説は1916年に『時事新報』紙に掲載されたのがきっかけで流行したとされ、暴露小説的な性格が注目されるが、
その題材は殺人、強姦、窃盗といった様々な犯罪を多く扱っていた。この黒幕小説の流行は、
「犯罪報道」をスペクタクルとして受容する想像力の存在を示唆している。この黒幕小説とそれが掲載された新聞投稿欄を通して、
ほぼ同時期に創作の試みがされ始めた探偵小説との関係を考えたい。
4―6 文壇に初登場した時期の施蟄存について―「新旧我無成見」を中心に
施蟄存(1905-2003)は1920年代初頭に創作活動を始め、数年間にわたって「鴛鴦胡蝶派」刊行物への投稿を重ねた後に、
新文学に転身したとされる作家の一人である。当初、彼は中国伝統小説、西洋文学と五四新文学などの素養を深め、
『民国日報』副刊「覚悟」、『礼拝六』、『半月』などの刊行物に多くの作品を発表していた。
また、彼は当時の新旧両派の論争には寛容な態度を示すとともに、処女作の発表以後の『蘭友』や、
「蘭社叢書」の編集、『江干集』の私費出版、維娜糸文学会の発足といった活動からは、彼が流行作家を目指していたことが明らかである。
後に、『小説月報』(1928)で作品を発表し、雑誌『現代』を編集したことは、より多くの読者を獲得し流行作家になろうとしたという意味で、
最初期の文学活動と同じ性質のものであったに違いない。
また、「青萍談吐」で、施蟄存は新旧の論争には意味はなく、中国文学を新と旧に分けて、
お互いに攻撃するようなことはすべきでないと主張し、新文学と「礼拝六派」との間の差とは句点の有無のみであると述べ、
旧文学が新文学に敵わないところは西洋文学への紹介、翻訳が不足している点であると指摘した。
さらに、彼が「新旧我無成見」で語った、新旧文学にはそれぞれ読書市場の需要が存在し、どちらが良いか悪いかを断定する必要はなく、
共存発展することが大事である、という観点からは、施蟄存の寛容で開放的な文学観がうかがえる。これらの作品は施蟄存の文学創作全体を理解し、
初期の文学観念の形成を辿るための絶好の手掛かりである。
本論は筆者が『蘭友』、『最小』報などで新たに発掘した史料をも使いながら、施蟄存が文壇に初めて登場した時期の文学活動に注目し、
彼と「鴛鴦胡蝶派」作家との関係及び新旧論争への態度とその自作への反映について考察し、創作開始時期の施蟄存像に迫ろうとするものである。
本発表は当代作家王蒙(1934-)の文学テクストを、ソビエト文学との比較の視座からテクスト分析的に再読し、
その文学性の一端に新たな光をあてようと試みるものである。
王蒙は中国がソ連文学を模範的なテクストとして大量に受容していた四、五十年代に青春を謳歌し、その影響下で作家人生を始めた。
作家自身の言葉を借りれば、王蒙にとって「青春とは革命であり、文学であり、ソビエト」であった。
しかし王蒙研究にとって強調されてしかるべき両者の関係についての問題の多くは、いまだ手付かずの研究課題として残されたままである。
ある先行研究は、王蒙の意識の流れを、西洋モダニズムからの摂取物だとし、またある研究は李商隠や李賀、
先秦詩歌の「興」体に既に意識の流れなるものが存在することを強調して、王蒙の連想体の源泉をここに求めようとする。
しかしむしろ、王蒙テクストの生成にはソビエト文学的表現がかなり強い影響を与えたのではないか。
例えばソ連文学のなかにも連想体や心理描写が広範に用いられており、してみれば、王蒙の意識の流れは、
ソ連文学から派生したものだと捉えることが可能となる。王蒙とソ連文学との強い結びつきを考えた時、
この可能性は排除できないし、充分に検討の余地を残している。
本発表は、これまで顧みられることのなかった王蒙文学とソ連文学をめぐるこうした命題を、
最新の自叙伝を導きの糸としつつ、比較断章法で明らかにしていきたい。焦点となるのは、
「海的夢」(1980)等に見られるゴーリキーのロマンティシズムや、オストロフスキー『鋼鉄はいかに鍛えられたか』から継承された王蒙テクストの英雄像を考察すること、
そして「春之声」(1980)に代表される王蒙の「意識の流れ」を、アイトマートフ小説の心理描写との比較のなかで読み解くことである。
王蒙が受容したソビエト文学的表現の考察を通して、王蒙小説の文学性に新たな議論の枠組みを提示したい。
4―8 新時期微型小説の可能性―そのジャンルとしての到達点と今後の可能性―
中国の微型小説は一九八〇年代の半ばころに新しいジャンルとして確立したあと、盛況といってよい状況が現在までつづいている。
一九九〇年代文芸雑誌の発行部数が激減したときも、微型小説の専門誌『小小説選刊』と『微型小説選刊』
(ともに半月刊)はそれぞれ四十万部をこえる発行部数を維持していた。現在刊行されている微型小説の専門紙誌は二十種をこえる。
年間に各種の新聞雑誌に掲載される作品は二万篇をこえ、優秀作品を収めるアンソロジーも毎年四種出版されている。
そのほかに各種のアンソロジーが毎年かなりの数刊行されている。昨二〇〇八年には一九七六-二〇〇〇年の作品を収める『中国新文学大系』
(全三十巻の予定、上海文藝出版社)の一巻として第十六集『微型小説巻』が、まず発行された。
一つの時代の文学の全ジャンルをカヴァーする大部な文学大系の一巻に始めて微型小説が入ったことになる。
微型小説は現在中国で多くの読者と作者をもっているが、文芸界と研究の分野での認知度は高いとは言えない。
しかし、中国における微型小説は日本における掌編、ショートショートとは異なる位置を文芸界で得つつあるようにも見える。
本発表は以下の項目をもとに一九八〇年代半ば以降の中国における微型小説の発展と到達点を明らかにし、小説の一つのジャンルとしての可能性を考える。
一、一九八〇年代以降の中国の微型小説の量的および質的発展
二、現在における到達点を示すいくつかの指標――『中国新文学大系』の『微型小説巻』の刊行など
三、中国における微型小説をめぐる特殊な状況と理論研究の状況
四、小説の一つのジャンルとしての可能性
『吉首大学学報(社会科学版)第28巻第1期』(2007年1月)に掲載された沈従文「来的是誰?」は、
「文革」中の1971年、湖北省の五七幹部学校に下放されていた沈従文が書いた小説であり、
年譜上「沈従文年表簡編」(沈虎雛編、『沈従文全集 附巻』2003年所収)の1971年の項目に
「5月、起草黄永玉家世内容的小説、開篇題為《不速之客》。此作品未完成」と記される作品と同一のものと思われるが、
これは久しく小説創作を放棄したと考えられてきた沈従文が、建国後に書いた唯一の小説作品として注目される。
また『収穫 二〇〇九年第二期』に掲載された沈従文「幹校書簡与詩」は、周囲からの勧めがありながらなぜ建国後、
彼が公に小説を書けなくなったか、その理由を語ると同時に、右記「来的是誰?」を冒頭の第1編とする、
新たな長編小説「家史兼地方誌」執筆の構想と創作への熱い思いを述べた書簡資料である。
本発表では、『従文家書』を初めとする既往の書簡資料から伺える1971年前後の沈従文の思考の特徴にふれ、
右記2点の新資料、特に後者の内容を整理分析し、『辺城』『湘行散記』『長河』等、往年の沈従文の作品の根底にあった、
故郷の人と土地を描くことの本質と、彼の表現方法の特性について報告したい。
作家銭鍾書(一九一〇~九八)は長篇小説『囲城』によって中国文学史上確固たる地位を築いた。
彼の作品には、主人公や主要登場人物の父親に関する記述が幾つか見られる。作品中の母親の存在感の希薄さに比せば、
父親の占める存在感は看過できず、又彼らの形象にはある共通した特徴が指摘できる。科挙の受験経験を持つ清末の旧式文人であるという一点である。
銭鍾書の小説が背景としていた民国期において彼ら父親たちは、主人公や主要登場人物ら新しい世代との鮮明なる対比として描かれているように見える。
よく知られていることではあるが、銭鍾書の父親銭基博(一八八七~一九五七)は「国学大師」と称される著名な文人であった。
息子である銭鍾書に厳しい教育を施し、古文の読み書きを徹底させた点は『囲城』にも投影されており、銭基博自身、息子の古文の才能を自慢にしていたようでもある。
しかしその一方、当時最高の教育機関であった国立西南聯合大学で教鞭を執っていた銭鍾書を、自らの勤める湖南の小さな師範学校に呼び寄せるなど、
父親としての支配権を存分に振るってもいた。逆に言えば、このことは銭鍾書には父親に逆らう強さがなかったことを示してもいよう。
魯迅は「我々は今日いかにして父親となるか」で中国における父権の強さを問題にしたが、因襲の束縛からは容易に脱却できるものではないらしく、
銭鍾書も父親を超えんとあがいていたのである。
本発表では銭鍾書の作品における父親像を分析し、彼の文学活動における父銭基博の影響を指摘する。
又、それらの作業を通じて、銭鍾書ら中国近代知識人の営為が、比喩としての「父殺し」と「父権の復活」の繰り返しであったのではないかという問題について考察したい。
父親と息子は相剋するが、息子はいずれ父親となる。銭鍾書は父を超え、二十世紀中国を代表する学界の泰斗となったが、
彼の後半生の創作面における沈黙は何を意味していたのであろうか。
第五部会 語学
『麁幼略記』は、江戸時代の長崎で唐通事を養成するために作られた唐話と日本語の対訳集である。
同書では、唐船によって輸入された貨物の商品名を「紬、紗、绫、緞、絨、絹、羅・・・」など二十一類に分類した約五百七十語が収められている。
織物関係が大半を占め、語ごとに左に福州音、右に南京音を片仮名で注し、下に日本語の訳語が加えられている。
唐話資料の中で、福州音を注したものは極めて珍しい。「一」が「ソッ」、「大」が「トワイ」、「細」が「イユ」、「茶」が「タア」となっているなど、
注されている福州音は福州方言の特徴を色濃く反映している。本発表はこうした同書に加えられている福州音を考察の対象とし、
テキストは古典研究会編輯の『唐話辞書類集』第十六集(汲古書院、一九七四年刊)所収本を使用する。
『麁幼略記』の著者は不詳だが、宮田安『唐通事家系論考』(長崎文献社、一九七九年刊)によって、
長崎で福州語の通事を担当していた者のは多くは福州府出身の唐人だったことが明らかにされていることから、
同書の作成には福州語の通事による関与が伺わせる。また、正確な成立年代も不詳だが、一本に「松岡玄達(一六八六―一七四六)」による題記が見られることから、
成立の下限は十八世紀前半と推測され、約三百年前の福州方言の生の姿を伝える貴重な資料だと言える。
福州方言は中国南方の主要方言の一つであり、その歴史的変遷を知る資料としては、
『戚林八音』(十六世紀末―十七世紀初の成立)やアメリカ人宣教師R. S. Maclayと C. C. Baldwin(一八七○)によるALPHABETIC OF THE FOOCHOW DIALECTなどが知られており、
これらの資料と相互に参照すれば、福州方言のこの約三百年間に起きたいくつかの重要な音韻変化を具体的に知ることができる。
例えば、『戚林八音』の秋韻と焼韻、輝韻と杯韻は現代福州方言ではそれぞれ区別を失い、合流してしまったが、同書ではこの四つの韻ははっきりと区別されている。
また、現代福州方言では入声韻尾は[-ʔ]の一つに合流しているが、同書は『戚林八音』と同様な二種類の入声韻尾の存在を示している。
明の呉興の王文璧の編纂にかかる『中州音韻』は音注の施された最初の曲韻の書として知られる。
周徳清の『中原音韻』には存在していた平声の陰陽の区別をなくして一つにし、更に濁音声母を復活させた。
『中州音韻』はその後の音注附きの曲韻の書の祖であり、また『元曲選』の「音釈」の基礎となっているものであるから近代漢語音韻史上に重要な位置を占めるといえよう。
内閣文庫本の巻首には「虞集の『中州音韻』序」があり、次に「凡例」八条がある。
その「凡例」の第一条に「翻切・圏注、一遵洪武正韻、其旧本有而正韻無者、闕之、或正韻有而旧本少者、補之」というように、
『中州音韻』編纂に当たっては『洪武正韻』が主たる根拠になっているようである。
このたびの発表は両者を詳細に比較することによって『中州音韻』の音注(反切あるいは直音)及び訓注が『洪武正韻』
(ひいては『洪武正韻』を基礎に多くの資料を集成した『韻学集成』)にもとづくものであることを論証しようとするものである。
時間があれば、音注の詳細を検討することによって『中州音韻』の表す音系をも明らかにしたい。
『老乞大』・『朴通事』の清代改訂本や『華音啓蒙』に続く中国語・朝鮮語の対訳課本類として、
朝鮮時代末期の19世紀末から20世紀初にかけて筆写された会話写本類が存在する。これまでは、
『你呢貴姓』(韓国学中央研究院蔵書閣蔵)及び『學清』(朴在淵氏蔵)のみが著名であったが、近年になってこれら以外の資料にも目が向けられつつある。
本発表では、『騎着一匹』(蔵書閣蔵)、『中華正音』(蔵書閣・東京大学阿川文庫・駒沢大学濯足文庫蔵)、『華音撮要』(東京大学小倉文庫蔵)、
『關話略抄』(同上)といった諸資料を取り上げ、この資料群に対する若干の考察を試みることにしたい。
会話部分に見られる中国語の内容によって、これらの諸本は次の3系統に分けることができる(仮に巻頭の数文字により系統名をつける):
(1)“你呢貴姓”系…『你呢貴姓』、『學清』
(2)“王大哥”系…『華音撮要』(前半部)、阿川文庫『中華正音』
(3)“騎着一匹”系…『騎着一匹』、濯足文庫『中華正音』
この他、上の系統に属さないものとして、『關話略抄』、蔵書閣『中華正音』、『華音撮要』(後半部)が存在することになる。
それぞれの資料に見られるハングル音注を検討すると、これらの資料群は概ね同じ基礎方言に属すると考えられるが、
来母やr化韻の表記方法等を指標として、内容上の系統とは別にいくつかのグループに分けることが可能となる。
また文法面では、動詞“是”、副詞“就”、文末助詞“嗎”(“麼”)等の特殊な用法、さらには語順や句の切り方において、
等しくpidgin-Chinese的な特徴を指摘しうる。本発表では、こうした諸現象の検討を通して、この資料群の系統と言語に関する全般的な理解を得たいと考える。
科挙進士科の答案作成規定として作られた略式の韻書は、北宋初期の雍熙年間『校定韻略』に始まり、
景徳四年『新定韻略』・景祐『礼部韻略』・元祐『礼部韻略』、南宋の『増修互註礼部韻略』・『附釈文互註礼部韻略』、
『押韻釈疑』、『増修校正押韻釈疑』、金の『新刊韻略』、元の『蒙古韻略』。さらに『古今韻会挙要』などへ、
官民によって受けつがれ、答案で用いるべき字音・字体の規範として、大きな影響を与えつづけた。この一群の韻書を、
かりに「韻略」と総称しておく。「韻略」をはじめとする公式の韻書や字書は、科挙受験者のみならず、答案の謄録の実務にあたる者にとっても、
原本から正確に転写をおこなうための重要な参考書だったはずである。必要だと思われる情報の増訂を重ねるうち、「韻略」は『広韻』以上に詳しいものとなっていった。
この増訂過程を検討するにあたり、ぜひとも視野におかねばならない要素が、経学であり(たとえば『六経正誤』と『増修互註礼部韻略』の関係)、
民間における経書の刊行・流通である。とりわけ附釈音経注疏合刻本の出現は重要であろう。『経典釈文』に起因した字音の誤りについては、
唐代すでに記録されている。附釈音本が普及することで、『経典釈文』の参照が従来よりはるかに容易になると、読者が「正しい」と信ずる字音を選び、
その見解を科挙の答案に持ちこんでしまう可能性が高まった。南宋において、答案作成の対策を教え、正誤判定を示した『押韻釈疑』が出現せざるを得なかった背景のひとつである。
元代以降になると、『経典釈文』を強く意識した韻書はもはや作られない。かわって目立ちはじめるのが、韻藻を掲げた『韻府群玉』、
さらには「古音」の押韻例を集めた著述であった。一連の変化の過程は、宋代以降の韻書と学芸の関係を考える糸口となる。
講演会
1.明末清初の危機と「西学」受容
「梯航九万里、中華を慕って来た西儒」の科学技術が明朝に役立つと見た高官徐光啓・李之藻は暦局や守城に西学を採りいれ、
叢書《天学初函》(1630年)を刊行した。また明末清初の戦乱に苦しむ文人の一部は、天主=上帝と説くイエズス会を受け入れ、
「東海西海心同理同」を強調して「華夷の弁」を否定した。しかし仏教徒は心外の天主に祈る邪教と呼び、儒家や地方官も無父無君の夷教を嫌った。
清朝は禁教令を出し、キリスト教宣教師と中国人との接触を禁じた。しかし同時に満人皇帝は宣教師の技術・学識を活用し、側近とする。
宣教師は通訳としてヨーロッパの政府使節を迎え、天文観測、地図や宮殿の作製、さらに欧州往復に漢籍や特産物を持参し、東西に影響を及ぼす。2.ヨーロッパにおける中国の受容
近世(16-18世紀)の中国に来たヨーロッパ人はふつう1ヶ月以上は滞在できなかったが、宣教師・外交官・商人を問わず自分の中国体験を本国に書き送った。
ヨーロッパでは王国も教団も市民もみな、世界の情報を待ち望んだ。儒学への適応政策をとり、16世紀末に入国に成功し永住できたイエズス会士の中国報告が質量ともに抜きんでた。
キリスト教を知らない文明国、古い歴史をもち聖書に記述されぬ大国が地上に存在することが、人々に衝撃を与えた。
しかも陶磁器、絹織物、漢方薬などの中国製品はヨーロッパで人気を集め、啓蒙思想家らは儒学を合理的な教説とみなした。
他方儒学を無神論とするカトリック諸会は、イエズス会と「典礼論争」を百年間も続け、教皇をも巻き込んだ。
軍事力強化のヨーロッパは18世紀末から反中国となるが、近世の交流はシノロジー(中国研究)の発展をもたらす。
異文化との邂逅に際し、東西の人々はお互いに何を考え、どのように相手の主張を噛み砕こうと苦心したのか、――思想交流の現場から、中国近世に一筋の光を当ててみたい。