2003年(平成15年)4月20日発行
- 事務局体制の刷新について
- 理事長 興膳 宏
- 中国近世語学会
- 佐藤 晴彦(神戸市外国語大学)
- 宋代詩文研究会の活動スタンス
- 内山 精也(早稲田大学)
- 「中国現代文学研究者の集い」(通称「前夜祭」)をめぐる断想
- 宇野木 洋(立命館大学)
- 2002年度委員会報告[将来計画特別委員会]
- 委員長 池田 知久
- 2002年度委員会報告[論文審査委員会]
- 委員長 丸尾 常喜
事務局からのお知らせ
◎新入会員の紹介について
学会への入会は、定例理事会(5月・10月に開催。それぞ
れ申込締切は5月15日・10月1日)において審査・仮承認を経た後、評議会において正式に決定され、併せて初年度の会費納入を待って会員として承認されます。また、入会資格は、原則として、現在、大学・研究機関等で中国に関係する研究に従事する者、あるいは中国の哲学・文学・語学及び中国に直接関連する諸領域を専攻する大学院の学生及びその修了者・単位取得退学者、とされています。
この基準に合致しない入会希望者を特に紹介される場合は、研究歴及び研究業績についてできる限り具体的な紹介状を添付してくださるようお願いいたします。必要に応じてさらに審査前に事務局から照会することもあります。
なお、外国人留学生会員は、正規の大学院修士課程及び博士課程の学生を対象としており、研究生は対象外となります。
大学院課程修了または帰国等の理由で資格変更される場合は、速やかに事務局まで届け出るよう助言の労をお取りください。
入会申込書は、中国学会HP(http://wwwsoc.nii.ac.jp/ssj3/index.html)にある書式をプリントアウトの上、必ず郵送にてお願いいたします。
なお、本年度五月分申し込みは、5月15日必着にて、学会本部(〒113-0034 東京都文京区湯島1-4-25 斯文会館内)宛に郵送ください。
◎会費納入について
会費未納の方は、至急ご送金願います。特に、昨年入会申し込みをされた場合は、会費納入が確認されるまでは正式会員として認められません。また、数年にわたって未納の方は、四年にわたって滞納されますと除名となります。これらの方々は、特にご注意下さい。
(郵便振替口座:00160-9-89927)
◎『学会報』送付停止について
平成13年度会費未納の方には『学会報』を送付いたしておりません。会費納入が確認され次第、送付いたします。会費納入の際には、振替用紙通信欄に未受領の『学会報』号数を必ずご記入ください。
事務局体制の刷新について
理事長 興膳 宏
新しい「日本中国学会会則」による最初の理事長に選出されてから、この三月で、なんとか二年の任期を全うすることができた。改革の課題は数多くあって、どこから手をつければよいやら当惑することばかりだったが、いま振り返ってみると、まずまずのスタートだったかと思っている。ここまで来ることができたのは、両副理事長と各理事、関係各委員会委員、そして三人の幹事の並々ならぬ尽力があったればこそである。よりよい体制を築くという共通の目標に向かって、みんなの熱意が常に一貫していたのは、顧みてまことに快い経験だった。この場を借りて、諸氏に心から厚くお礼を申し上げたい。
昨秋の選挙で理事長に再任されたのは、過去二年間の方針をひとまず認めていただけたものとして、ありがたく受けとめているが、同時に正直にいって、いささか気が重い。現在の私の本務は京都国立博物館の仕事だが、周知の通り、国立博物館は二年前に独立行政法人化されて、私はその最初の館長を引き受けることになった。この方の改革も余り楽な任務ではないので、できることなら理事長は一期で交替してもらえればという秘かな願望もないではなかった。
だが、そうした私の個人的な理由のほかに、もう一つ気の重くなる理由が別にあった。それは、また若い研究者を巻き添えにして、煩雑な幹事の仕事をお願いしなければならなくなるという事情である。この学会の運営にある程度通じている方ならご存じのように、二年ごとの選挙で新しい理事長が決まると、幹事には新理事長周辺の若い研究者が就任するのが通例になっていた。幹事は予算・決算の会計上の任務はもちろん、会員の登録、会費の納入、理事会・評議員会の世話をはじめとして、およそ学会の運営に関する膨大な会務を処理する重要なポストなのだが、会員数二千人を超える学会ともなると、大学での研究・教育という本来の任務を持つ研究者がそうした仕事に何年にもわたって携わるのは、きわめて苛酷なことである。
この一文を草するために、『日本中国学会五十年史』(一九九八年)をのぞいてみると、初代の加藤常賢理事長は、学会創立の一九五〇年(昭和二五年)から五八年(昭和三三年)まで、五期九年を務めておられる。これ自体がすでに驚異的なことだが、さらに驚かされるのは、現在の幹事に相当する「委員」の役は、その間ずっと石川梅次郎氏が一人で担当された事実である。石川氏は、さらにその後、第二代の吉川幸次郎理事長の四年間にも「委員」を務められたから、通算で何と十三年もの間、ただ一人で幹事の職務を切り盛りされたわけである。会員数がピークでも六百人未満という規模の小ささはあったにしても、草創期のご苦労は想像に余るところであり、この記録は将来にわたって絶対に破られることはないだろう。
「委員」の名称が一九六六年に幹事に改まったのちも、幹事担当者はずっと一人だったが、一九七七年(昭和五二年)の木村英一理事長のときに、はじめて二人幹事体制になっている。もっとも、それ以前に一九六九年(昭和四四年)の小川環樹理事長時代に二人の幹事が置かれたことがあるが、おそらくそれは理事長が京都在住であるという事情を考慮して、東京と京都に一人ずつの幹事を臨時に置いたのであろう。ところで、興味深いのは、一九七六年(昭和五一年)に会員数がはじめて千人を超えたこと、そして間もなく幹事二人制が実施されたことである。想像するに、一人の幹事で対応できるだけの仕事量をすでにその時点で超えていたという事情があったのだろう。
幹事三人制をとるようになったのは、一九九九年(平成一一年)の福井文雅理事長になってからである。ちなみにいえば、会員数はその三年前にすでに二千人の大台を超えていた。こうして記録を逐ってみると、会員数と幹事数とが実は密接に連動していることがよく分かる。すなわち、幹事は会員数が千人に達したところで二人に、また二千人を超えたところで三人に増員されていたわけである。その理由が会員の増加に伴う仕事量の激増であったことは、容易に想像していただけるだろう。
私が理事長に就任してからも、この幹事三人体制を引き続いて採用した。私が京都在住なので、河内利治・齋藤希史両幹事が東京で、木津祐子幹事が京都で、それぞれ会務を分掌していただいた。
理事長のポストが東京から外にでたのは、一九八一年から八二年にかけての金谷治理事長(東北大学)以来のことである。会員数が関東地区を中心に大きく増加したことや本部が東京にある事情もあって、地方から理事長が出た場合、会務の円滑な遂行のためにはかなり困難な条件のあることも否定できない。この二年間、幹事三人の奮闘に加えて、大上正美・金文京両副理事長にも多大の援助を受けて、膨大な会務は滞りなく処理できはしたのだが、振り返ってみればやはり悔いは少なくない。第一に、本部が斯文会館に置かれていて、幹事三人の勤務先とは地理的に隔たっており、また幹事それぞれの所属も異なるために、文書の受け渡しに多くの手間と時間を要することである。
それはOA 機器の利便を以てしても、容易にカバーできるものではなかった。
学会の規模が大きくなれば、会の円滑な運営のためにも、また会員へのサービスのためにも、独自の事務所を持ち、専従の事務担当者を置くことが望ましい。あるいは、日常的な会務を外部の専門業者に委託することも、選択肢の一つとして考えられる。事務所の件については、すでに本学会の将来計画特別委員会でも検討をつづけていただいているが、その実現のためには相当な資金が必要であり、本学会の現在の財政規模ではにわかに実現しそうにない。会務の外部委託についても同様である。
本学会の実力に見合った形で、上記のようないくつかのジレンマを解消する対策として、新年度から幹事事務を東京に一元化することにした。その具体的な方法としては、差しあたって幹事は二人とし、東京の河内・齋藤両幹事のもとに、新たに学会の外から専任の事務担当者を置くことにした。そして、数人の候補者のうちから慎重な選考を経た結果、このほど菊野紀子さんにその任に当たっていただくことになった。これまでにかつてなかった試みなので、大きな期待の反面、いくばくかの不安を抱えながらの船出であることは否めないが、今後も工夫と改良を加えながら、この方針を何とかして根づかせたいものと真剣に願っている。会員各位の理解と協力を切にお願いしたい。
(2003.4.6)
中国近世語学会
佐藤 晴彦(神戸市外国語大学)
本会の沿革
本会は1985年秋に香坂順一、宮田一郎氏などの呼び掛けにより「中国近世語研究会」という名称で発足した。10年後の1995年春に現行の「中国近世語学会」に改組している。それは「研究会」というやや個人的規模を連想させる呼び名から、もう少し学問探究の意味を込めた名称が望ましいという着想から変更されただけであり、名称は変わったものの、設立の趣旨は変わってはいない。
発足当初から会員数わずか30名そこそこというほそぼそとしたものであり、今でも123名というこぢんまりした学会である。
なお、現在の会長は上野恵司氏(共立女子大学教授)。
事務局は発足以来、大塚秀明氏(筑波大学助教授)が勤めておられている。
本会の趣旨
本会の趣旨を述べるには、本会の前にあった「清末文学言語研究会」(以下「清末」と略称)及び「明清文学言語研究会」(以下「明清」と略称)という二つの研究会にふれずにはいかない。
この二つの研究会はその名が示すとおり、清末、明清を研究対象としてきた。本会はその趣旨を受け継ぎつつ、時代範囲をもう少し広げた「近世語」を共通研究テーマとしている。ただここで「近世語」とは何ぞやということを問題とすると、それを定義づけるのはそう簡単なことではないが、大まかにいえば宋元明清時代の言語を中心に考えていただいていい。むろんその時代以外は対象にしないという固定的なとらえ方はしていない。何故なら宋代の言語を論じるには、当然それ以前の唐代の言語が問題になるわけであり、逆に時代が下って清代の言語を論じる場合、問題は当然現代語にも関わってくるから、絶対的な線引きはできないという面が存在するためである。要するに、会員各自が考える「近世語」をすべて含むというゆるやかな考えに立ち、自らをあまり律しない考えである。
活動内容
本会の活動は大きく二つに分けることができる。一つは毎年5月の最終日曜日に開催される「研究総会」で、関東と関西交互に開かれている。そこでは会員の研究発表と情報交換及び会員同士の親睦、交流がはかられている。また任期二年の会長、委員の選出もこの総会で行われる。いま一つは秋季研究集会があり、関東で開かれている。研究集会は不定期である。
この三年の研究総会の開催日、開催場所、発表者・題目は以下の通り。
第17回研究総会
日時2002年5月26日
場所関西大学
発表者 題目 奥村佳代子 「『忠臣蔵演義』と『海外奇談』について」 孟子敏 「四剪金瓶梅几枝―《金瓶梅詞話》詞語
例釈(四)」大島吉郎 「『児女英雄傳』における“〓”“麼”について」 金文京 「旧本『老乞大』の諸問題」
第16回研究総会
日時2001年5月27日
場所筑波大学学校教育部
発表者 題目 杉山志郎 「蒙文直訳体研究の一方法―独立した体系としての蒙文直訳体文法」 田村祐之 「『老乞大』と『老朴集覧』の関係について―ならびに『朴通事』成立についての考察」 波多野太郎 「“一磨兒”といふ詞彙に就いて」
第15回研究総会
日時2000年5月28日
場所神戸研究学園都市大学交流センター(UNITY)
発表者 題目 塩山正純 「モリソン訳『神天聖書』(とくにその新約部分)について」 奥村佳代子 「岡島冠山の唐話学―『唐話纂要』『唐話便用』『唐話便覧』から―」 竹越 孝 「元明漢語における“有”の機能」 松尾良樹 「トルファン文書の語学的研究」 研究動態報告 「周辺資料からのアプローチの可能性」 司会:佐藤晴彦
報告者
吐魯番文書:松尾良樹
敦煌文書:砂岡和子
黒水城文書:大塚秀明
蒙文資料:竹越孝
満文資料:寺村政男
朝鮮資料:玄幸子
唐話学資料:木津祐子
欧文資料:内田慶市また、研究集会は次ぎのとおり。
日時2002年12月15日
場所大東文化会館
発表者 題目 大島吉郎 「天一出版社刊『児女英雄傳』の底本について」 大塚秀明 「『九尾亀』の研究と井上紅梅について」 周 力 「『何典』のことばについて―その特異な用い方を中心に」
雑誌、出版物
本会の機関誌というわけではないが、本会が大きく関わっている学術誌として『中国語研究』がある。「大きく関わっている」と述べたのは本会の編集委員が該誌の編集委員の大半を占めているからである。
『中国語研究』は現在第44号(2002年)まで出版されているが、このバックナンバーは若干説明しておく必要があろう。それは先に本会の趣旨でもふれた「清末文学言語研究会」「明清文学言語研究会」ともかかわってくるからである。その継承関係は次ぎのようになっている。
『清末文学言語研究会会報』第1号~第3号
(1962年7月~1963年3月)
『明清文学言語研究会会報』第4号~第15号
(1963年10月~1974年8月)
『中国語研究』第16~第44号
(1977年3月~2002年10月)
誌名に表れているように『清末』『明清』はもちろんその時代の言語を対象とした研究が中心となっているが、『中国語研究』になってからは現代語研究が多くなっている。
そしてこの二つの研究会は上記の会報以外、「単刊」という名目で多くの工具書類を出版しており、1960年代から1970年代の、日本におけるこの領域の研究において、先導的役割を果たしてきたと言って過言ではないであろう。例えば「清末」は『「児女英雄傳」勘誤表』『江南語語彙集解』『老残遊記語彙注釈索引』などを出版しており、「明清」は『金瓶梅詞話語彙索引』『語言自邇集語彙索引』『京本通俗小説・清平山堂話本語彙索引』『水滸全伝語彙索引』『紅楼夢語彙索引』『児女英雄伝語彙索引』『官場現形記の版本,語彙注釈索引』などを出版している。いずれも今日では入手し難くなっているが、この領域の研究にとって今なお有用な工具類であるといえる。しかしそれでも当初の計画からすれば予定していた工具書類のうち半分くらいしか実現していない(『清末』各単刊巻末参照)。構想のスケールの大きさが伺えよう。
「中国近世語研究論文目録」発足間もない1987年から大塚秀明氏が毎年「中国近世語研究論文目録」を作成し会員に配付され、会員からは重宝がられていた。ただ、氏の身辺多忙と中国における論文のCD-ROM 化によるのであろう、1998年以降は滞っているのが残念である。CD-ROM が必ずにも論文を網羅しているとは言い難いので、この目録の復活に期待したい。
(「中国近世語学会」のホームページは次ぎの通り。
http://www.hakuteisha.co.jp/gakkai/kinseigo.html)
宋代詩文研究会の活動スタンス
内山 精也(早稲田大学)
宋代を専攻とする方以外で、「宋代詩文研究会」と聞いてピンとくる向きは、相当の事情通である。
なぜなら、我々の研究対象である「宋代詩文」は、戦後ずっとメジャーとは決していい難い「冷門」であったし、何より我々自身が会発足以来、さして目立った対外的活動をしてこなかったからである。理由はいたって簡単、少なくとも数年前まで我々には――研究会を発展的に運営してゆくために不可欠な三要素――実力、財力、組織力が三拍子そろって欠如していたからだ(今なお、基本的には解決されていないけれど)。身の丈に合った活動、ムリをしない自然体、しかし良かれと思うことは努めて前向きに善処する――互いに堅く誓い合ったわけではないが、自然しぜんそれが我々の基本スタンスとなった。大学や研究所等の確たる基盤を持たぬ我々研究会が、彼此20年近く活動を持続できたのも、ひとえにこのスタンスあればこそである。院生主体の自主ゼミや同人研究会の運営に、今まさに四苦八苦されておられる方々がきっと大勢いるに違いない。そういう諸姉兄に熱いエールを送る目的も兼ねて、この小文を草することとする。
本会が現在の会名を掲げ正式に発足したのは1990年のこと。だが、前身の早稲田大学中国文学会「宋詩研究班」の時代をも含めれば、さらに五、六年遡り、のべおよそ20年近い歴史になる。全ての始まりは、院生主体の自主ゼミであった。
当時、「宋詞」は参考書もかなり揃っていたし、早稲田の大学院にも演習授業があった。しかし、「宋詩」は殆ど孤立無援の状態で、どうやら独学しか道はなさそうだと一度は覚悟を決めたものの、一人で読むのは緊張感に欠け、やはり楽しくない。
何より能力不足で歯が立たない。かくて、半ば強引に周辺の知人を巻き込み宋詩を読む自主ゼミを立ち上げた次第である。
しかし、詩文を専攻する院生は20年前の当時からすでにそう多くはなかったし、宋詩となればなおさらであった。そこで、縁故をたどって、学外にも声をかけ、やっとのことで五六名の寄り合い所帯が誕生した。それがやがて離合集散を幾度か繰り返すうち、ふと気がついたら、早稲田の院生が一二名、学外の参加者が十数名という比率に落ち着いていた。それならいっそと、実情に合わせて、会名の方を改め、早稲田の中国文学会からも独立して、改めて広く会員を募ることにした。これが「宋代詩文研究会」設立の経緯である。
なにゆえ会の設立が必要であったかというと、この当時すでに雑誌を刊行していたからである(後述)。雑誌の持続的刊行のために、しかるべき母体がぜひとも必要であった。1990年の発足当初、会員数は30名足らずであったが、10年余の間に少しずつ増えて、現在では80名近くになっている。
発足時の経緯があるので、関東近県の会員数が最も多いが、それでも北海道から九州まで会員は全国各地に散らばっている。
我々研究会は院生の自主ゼミが出発点である。
よって、活動の基盤はつねに読書会にあった。そして、関東地区では、この20年間一度も変わることなく同一のテキストを用いている。銭鍾書著『宋詩選注』(人民文学出版社)がそれである。――良書と出会えたこと、それが何にも勝る我々の幸運である。参加者は、この名著に導かれながら、原典調査~資料作成~発表~意見交換~訳注原稿作成というプロセスを踏んで基礎力を養い、地道な成果を少しずつ蓄積していった。
自主ゼミが軌道に乗って、我々に訳注作成の経験がいくらか蓄積された頃、誰からともなく「雑誌を作ろう」という声が沸き起こってきた。時折しもワープロ専用機が普及し始めた頃で、メンバーの一人がすでに熟練した技術をもっていた。版下さえ自分たちで作れば、意外に安く作れるらしいという情報も、誰かがつかんできた。かくして、出来上がったのが、『橄欖』という雑誌である。
創刊号は一人一万円ずつ出し合い、100部というわずかな発行部数で刊行した(1988年4月)。蛮勇を奮って、高名な諸先生方にもご批正を乞うたところ、意外なほどの好意的激励の数々、有頂天になった我々は続刊を決意した。
第二号から第七号までは200部、第八号以降は300部、発行部数も少しずつ増加してきている。
この間、パソコンの普及に随い、第八号からは電脳編排を全面的に採用し、大分見栄えがするようになった。
『橄欖』の掲載内容は、創刊号以来の『宋詩選注』訳注の他、文献目録、論考、学会参加報告等が主である。訳注は毎号10首前後を目安に掲載している。『宋詩選注』は時代順、詩人別の編集であるので、我々の訳注が著名詩人まで到達した時、なるべく当該詩人の特集を組むよう努めてきた。
梅堯臣や欧陽脩の訳注を掲載した頃は、我々にまだ力がなく、結局沙汰やみに終わったが、王安石に到達した時、初めて特集号を編むことができた(第五号、1993年3月)。これを皮切りに、第七、第八号=蘇軾特集、第十号=黄庭堅特集と、計4回の特集号を編集している。
殆ど全てが訳注、という地味な誌面でスタートした『橄欖』であるが、号を重ねるごとに論考のウエイトが増し、読み物としての多様性を備えてきたことが、関係者として何よりも嬉しい。ちなみに、最新第十一号(2002年12月)は、論考八篇、報告二篇、書評一篇、訳注一種、目録二種という内訳である。
このように、読書会の開催と『橄欖』の発行、という二本柱に支えられながら、我々は進んできたが、数年前に、新たな支柱がもう一つ生まれている。「宋代文学研究談話会」という名の会合である。日頃、読書会に参加できない会員からの求めによって、この新しい場が誕生した。「談話会」は我々研究会の全国大会という位置づけになる。
第1回は、1996年10月に横浜市立大学にて開催された。当初は「ムリをせず」の大原則に則って隔年開催と定め、第2回はその原則通り、1998年10月に國學院大学で開催された。ところが、翌1999年9月に、我々研究会とも縁の深い復旦大学の王水照教授が来日され、急遽、臨時の第3回が開かれた。これが端緒となって、以後、毎年の開催に変わっている。2000年の第4回は中唐文学会との共催(於早稲田大学)、第5回(於慶應義塾大学)からは、時期を5月の末に移し開催している。参加者も回を逐って増加し、昨年、早稲田大学で開催された第6回は、40名前後の参加者で賑わった。
談話会の趣旨はあくまで相互交流と親睦にあるが、会員の主体的・積極的な参加を促すため、主催者は発表者が一つの世代に偏らないように配慮している。さらに若手と中堅だけではしまりがないので、折に触れてベテランの先生にも参加をお願いし、講演していただくよう努めてもいる。第5回は佐藤保先生、第6回は村上哲見先生から、お話しを頂戴した。
談話会のもう一つの特徴として、近年とみに海外からの参加者が増えている、という現象がある。
第5回は北京大学の張鳴氏と中央研究院中国文哲研究所の衣若芬氏が、第6回は四川大学の周裕〓氏と復旦大学の朱剛氏が参加され、それぞれ研究発表を行っている。今年5月開催予定の第7回でも、北京大学の張健氏による発表がすでに予定されている。昨年は四川大学の曽棗荘教授も来日されたので、臨時の講演会を開き、関東地区の月例読書会にも参加していただいた。
国際化の傾向は、『橄欖』の誌面にも反映されており、海外、とくに大陸研究者の翻訳論文が増加傾向にある。編集部が意図的にそういう路線を敷いたわけではなく、これも日中学術交流が日々隆盛に向かいつつある現況をストレートに反映したものに他ならない。
以上のように、我々はあくまで自然体をモットーに、ゆっくり歩みを進めてきた。速度は確かに遅いけれど、会員それぞれが研究会とともに少しずつ成長してきたことも事実である。身の丈が少し伸びた分、活動範囲も自ずと広がったが、我々の活動スタンスが大きく変化したわけではない。
同人集団ゆえの困難はさまざまに存在するが、にもかかわらず我々は今、この研究会にかつてないほど期待を寄せている。この研究会の存在意義を今ほど実感できる時期はないと断言してよいかもしれない。それは、我々が成長してきたことの証というよりも、我々を取り巻く環境が変化したことに大きく起因している。とくに、大陸に中国宋代文学学会という確かな拠点が生まれたことが、きわめて大きな象徴的意味を持っている。
宋代詩文研究の歴史はまだ浅い。『全宋詩』『全宋文』が近々漸く出そろうという事実(『全宋詩』は1998年に完結。『全宋文』は2004年中に全巻刊行予定)がそれを物語っていよう。しかし、それは同時に未開拓分野がふんだんに存在することをも意味している。したがって現在、大陸の研究機関の多くが、短期間でより大きな成果を上げられると、宋代詩文にかなりの重きを置いた指導体制をとり始めている。そして、二年に一度開催される中国宋代文学学会では、新しく刺激的な研究成果の一部が、現実に中堅・若手の研究者によって多数発表されている。
他方、中国古典詩文研究のわが邦学術界における実態はといえば、急速に周縁化の一途を辿っているような印象を拭い難い。当然、大陸のような体制をとることは夢物語だ。とするならば、せめて彼らと問題を共有し、相互に刺激し合う関係を結ぶことが、我々にとってより現実的な選択肢となってこよう。そういう拠点の一つとして、我々研究会がなにがしかの機会を提供できればいいと、今我々は強く願い、かつ期待している。
「中国現代文学研究者の集い」(通称「前夜祭」)をめぐる断想
宇野木 洋(立命館大学)
■「中国現代文学研究者の集い」の意味
「現代などやったって何になるのか、古典をやらないと中国など解らないのだ、という言葉に徹底的に反抗して、逆に現代が解らずに何で中国が分かるか、ということで、必死にやってきたわけです」――これは、1995年10月6日、「中国現代文学研究者の集い」通称「前夜祭」の場で、基調報告者の丸山昇先生が、若手ディスカッサントの問いに答えられた言葉である。場所は立命館大学末川記念会館、議論のテーマは「戦後50年――中国現代文学研究を振り返る」であった(この全記録は、「中国文芸研究会」の研究誌『野草』第57号、1996年2月、に掲載)。私は司会を担当していたため、そう言い切られた丸山先生の横にすわっていたのだが、戦後の中国現代文学研究の営為を同時代のものとして歩み、道を切り開いてこられた先輩方の、一種の使命感のようなものに驚かされるよりなかった。
もちろん、現代文学研究が過去においては「マイノリティ」だった事実は知っていた。だが、現在では、人数的にはまだ「マイノリティ」かもしれないにせよ(日本の現代文学研究者は、大学院生を含めても300人程度と考えられ、日本中国学会の会員比率でいえば、約2100名中の1割強にすぎないようだ。現代文学研究者は、竹内好に象徴されるように「在野」精神があるらしく、学会未加入者も比較的多いのだ)、すでに一定の層としての人員を抱え、確固たる研究の蓄積を備えた領域として認知されているのも確かだろう。
丸山先生の言葉からは、恵まれた時代に現代文学研究に従事できている自分(たち)の幸せに気づかされると同時に、後に続かざるを得ない我々の世代なりの責任とは何なのか、恵まれた環境を生かした研究を展開できているのか、という問いかけをも突きつけられたように、私には思われた。
そしてこの時、「中国文学研究者の集い」とは、まさに「老・中・青」の各世代が一堂に会して、様々な問題意識を共有し継承していく貴重な場、字義通りの大きなサークルなのだと痛感したのである。
■なぜ「集い」通称「前夜祭」なのか
「前夜祭」である以上、後に「メインイベント」が控えているわけだが、それは日本中国学会大会ということになる。学会の開催を機に、現代文学者が集まろうではないか、との呼びかけが最初になされたのは、1981年の第33回大会(開催校・北海道大学)の直前だった。当時、北大に在職されていた丸尾常喜先生が中心になって、学会前日の10月2日午後に記念すべき第1回が開催されたのである。私はまだ大学院生で、開催の知らせは受けていたものの、北海道まで出向く余裕もなく参加していないので、その当日の様子については紹介のしようもない。ただ、初の試みとあって盛会であり、活発な意見交換がなされたとは耳にした。
この「集い」を1回限りにすることなく来年も実施しようといった声も数多く寄せられ、これ以降、今日に到るまで、1度も欠けることなく続いてきたのだった。
日本における本格的な現代文学研究は戦後から始まったと言わざるを得ないところがあり、圧倒的な伝統と研究の蓄積を誇る古典文学領域とは、研究者養成システムも含めて、比較にならない地点からのスタートだったのは断わるまでもない。
従って、「マイノリティ」だった現代文学研究者たちは、現代文学研究が相対的に位置づいている大学や地域を軸に、小規模な研究グループを各地で組織し、それを通じて徐々に成果を蓄積していくしかなかった。だが、それ故にどうしても「地域主義」的傾向(?)なども生じざるを得ない側面も見受けられ、「集い」が開かれるまでは、各地の現代文学研究者が一堂に会するといった機会は、ほとんどなかったようだ。文革が終結して現代文学に対する注目も強まり、研究者も増え始めて活性化を見せてきたという状況の変化も背景にあったとは思われるが、やはり初回の呼びかけの意義は大きかったと言うべきだろう。
毎年の「集い」参加者は、日本中国学会員以外の方も含めて100名前後となっており、また研究企画の多彩さと興味深さはもとより、その後の懇親パーティにおける、全国の現代文学研究者が世代・地域を超えて一体となれる気さくな交流が何より楽しみだ、と語って下さる方も多いようだ。
ただし、不思議なことに、何かがっちりした恒常的な組織によって運営されてきたというわけでは全くないのである。極めて曖昧かつラフな形態で実施され続けてきたとしか言いようがなく、その証拠に正確な開催記録さえも残ってはいないのだ(記録されている方はいらっしゃるのかもしれないが、毎回、引き継がれてもいない)。とはいえ、前回の案内状発送先ファイルと参加者リスト、いつの間にか開設されていた銀行口座の通帳(懇親パーティ・2次会の残金などが貯蓄されている)だけは引き継がれていく。それが、次回の案内状発送などの準備作業を支えていくのである。
学会開催校に現代文学研究者がいない場合(このケースはかなり多い)などは、東京の「30年代文学研究会」と関西に事務局のある「中国文芸研究会」の中心メンバーが、研究会の力を借りながら、企画から案内状発送そして会場設営までをも請け負うというのが慣習となっている。現代文学研究者のアバウトさ(?)の証明かもしれないが、それ故に、気楽に参加できる雰囲気を生み出しているとも言えよう。ただし、最近、日本中国学会のみに「寄生」するのではなく、もっと独立的な運営にすべきではないか、といった意見が提出されたりもしていることは、率直に付記しておくしかない。
■昨年の「集い」から
「集い」では如何なる研究企画がなされていたのか。私が「集い」の運営に関わり始めたのは、1984年に就職し「中国文芸研究会」事務局の一端を担うようになって以降にすぎないが、その範囲で言えば、(1)日本の中堅研究者による自己の問題意識と最新の研究成果の披露、(2)中国のみならず韓国なども含めた外国の有力な研究者・文学者(詩人・芒克さんを招いたこともあった)による報告とディスカッション、(3)テーマを決めたミニ・シンポジウム(上述の「戦後50年」企画もその一例)などだったように思う。それぞれに興味深い報告や貴重な意見交換がなされたのだが、ここでは、昨年の「集い」の様子を簡単に紹介しておくに留めたい(司会を担当させられ、記憶もまだ鮮明だということもある)。
2002年大会(開催校・東北大学)前日の10月11日午後、当地と関係の深い魯迅の記念碑からほど近い仙台国際センターで開催された。テーマは「(中国)文学研究は何ができるか」という刺激的なもので、問題提起者は北京大学中文系・高遠東さんと代田智明さんの2人、報告タイトルはそれぞれ「魯迅的可能性」と「反転するテクストおよびテクストと読者との交錯について」であった。
魯迅の文学的・思想的営為を1つの切り口としながら、影響力を失い周辺化しているとも見なされている文学と、それを対象とする研究の持つ意味や可能性について、正面から考えてみようとの意図があったと言えるだろう。
先鋭な問題意識に裏打ちされた両報告は、高報告に子安加余子さんによる通訳が付いたこともあって、併せて2時間以上にも及んだ。その後、報告者による意見交換と論点の擦り合わせを行なった上で、参加者も交えた討論となった。司会の力量不足もあって活発な議論とまではいかなかったが、話題となった、「他者」を介在させることによって新たな自分と出会っていく魯迅の姿、「自覚」を方法とした「立人」という初期魯迅の思想、テクストの「地」と「柄」を反転させ「ずれ」を読んでいく過程で生じるテクストと読者の交錯が生み出す力の意味、等々といった問題群は、中国現代文学研究が、文学それ自身の活性化をも射程に入れた営みとなっていくことの一例を示したとも言えるのではないか。懇親パーティにおける意見交流も含めて、私にとって刺激的な時間だったことは間違いない。
まとまらない文章になってしまった(やはり「集い」を紹介するには適任ではなかったようだ)が、「集い」の持つ意義とその雰囲気の一端を汲み取っていただければ幸いである。
最後に、本年1月31日、「集い」の発足そしてその後の運営にも尽力いただき、かつ日本中国学会理事として学会との連係役を務めていただいた伊藤虎丸先生のご逝去に触れないわけにはいかない。謹んでご冥福をお祈りするとともに、先生の口癖でもあった「中国の研究者との『心霊的交流』」を、「集い」の場も含めて如何に継承していくか、今後とも考え続けていきたいと思う。
【付記】
本稿脱稿後、昨年の「集い」における代田報告・高報告(翻訳は子安さん)が『中国研究月報』2003年3月号(中国研究所)に掲載されていることを知らされた。「集い」の「成果」の1つとして、是非ともお読みいただきたい。
2002年度委員会報告
将来計画特別委員会
委員長 池田 知久
2002年度第3回委員会議事要録
日時:2003年3月24日(月) 13:00~17:00
場所:学士会館分館
出席者:6名
委員長 池田知久(東京大学)
副委員長 堀池信夫(筑波大学)
委員 佐藤錬太郎(北海道大学)
委員 野間文史(広島大学)
委員・幹事 久保田知敏(聖心女子大学)
副理事長 大上正美(青山学院大学)
欠席者:3名
委員 向嶋成美(筑波大学)
委員 山口久和(大阪市立大学)
委員 渡部英喜(盛岡大学)
議題
審議事項
以下の各点について委員に諮り了承された。
- 議事要録の承認
今年度第2回将来計画特別委員会議事要録案が提示され、承認された。 - 会則の検討
「委員会規約」の3(6)に基づいて、新会則施行後の問題点を検討し、とりあえずの中間報告案として以下のようにとりまとめた。
次回以降の委員会でさらに検討を重ね、会則変更の原案を作成する。- 適宜句読点を加える。
- 第2条の「学術の研究」を「学術の研究と普及」に、「計る」を「図る」に改める。
- 第3条に「5 斯学の啓蒙と普及」を加え、以下の番号を繰り下げる。
- 第4条の「3 外国人留学生会員」を削除し、以下の番号を繰り上げる。
この外国人留学生会員制度は、主に中国からの留学生の経済的負担軽減を念頭に制定されたものであろうが、すでに経済的な格差は少なくなっており、日本人の大学院生と同様に通常会員に
一本化する。また、現会則の第11条1の規定によりこれまで外国人留学生会員には認められていなかった評議員の選挙権を、この措置により通常会員となることで、平等に認められることになる。これに伴い、第5条3・第8条2・第9条1にある外国人留学生会員に関する規定を削除する。 - 第5条4の「外国会員」を「国外会員」に改める。
- 第6条1を「客員会員を除き会員の入会は通常会員または国外会員1名の紹介により理事会において審議・決定し、
評議員会の承認を得る。」に改める。 - 第10条3理事の「(ただし10名を越えない)」を削除する。これに伴って、現行の「評議員会・監事会規約」を「評議員会・理事会・監事会規約」に改め、その2として「理事は当面10名程度とする。」を加え、以下の番号を繰り下げる。
- 第10条8の「各種委員」を「各委員会委員」に改める。これに伴い第11条6・第12条8の「各種委員」を「各委員会
委員」に改める。また、12条8の「各種委員会」を「各委員会」に改める。 - 第11条3を「副理事長及び理事は評議員の中から理事長が委嘱し、評議員会の承認を得る。」に改める。
- 第12条5の「審議・決定」を「審議・決定・委任」に改める。
- 第15条の「全会員数」を「全通常会員数」に改め、「評議会」を「評議員会」に改める。
- 第17条を「本会則の変更は理事会の議を経て、評議員会において全評議員の3分の2以上の賛成をもって決定する。」に改める。
- 選挙規約1の(1)評議員について、現行の制度では会員数の少ない地域の評議員は減少傾向にあって、さらに地域ごとの実状を無視した結果を招きやすいとの指摘があり、次回までに佐藤
委員が改正案を作成することになった。 - 評議員会・監事会規約1(3)の「定例評議会」を「定例評議員会」に改める。
- 評議員会・監事会規約2(1)を3(1)に改め、その「その細則は監事会別に定める。」を「その細則は別に定める。」に改める。
- 委員会規約1の「審議決定」を「審議・決定」に改める。
- 委員会規約1の(6)として「データベース管理委員会」、(7)として「ホームページ管理委員会」を加え、以下の番号を繰り下げる。また、これに伴い、委員会規約3にも両委員会の任務を規定する。ただし、今回は提案者の山口委員欠席のため、詳細は次回以降の委員会で検討する。
- 委員会規約2の(2)を「理事長・副理事長は各委員会に出席できる。」に改める。
- 委員会規約2の(5)に「各委員会に幹事を置く。幹事は委員会の会務を掌どる。」を加え、以下の番号を繰り下げる。
- 委員会規約2の(6)を「各委員会の事務局は、原則として委員長の所属している大学・研究機関等に置く。」に改める。
- 委員会規約3の(3)g に「英文要旨の作成」を加え、以下の番号を繰り下げる。
- 委員会規約3の(6)b を「事務所問題」に改める。
以上
2002年度委員会報告
論文審査委員会
委員長 丸尾 常喜
『日本中国学会報』第55集投稿論文の審査について
【1】『日本中国学会報』第55集には39編の投稿がありました。第54集への投稿は31編でしたので、学会員の研究活動の活発さの反映と見受けられます。
委員会が委嘱した査読者はのべ117名にのぼります。査読者は原則として評議員の中より選び、論文の内容によっては一般会員に依頼することが、新会則による最初の大会(2001年10月福岡大学)にさいして開催された評議員会で了承されています。会則委員会規約には、論文審査委員会委員は「原則として査読を担当しない」ことになっており、「登載論文の審査・決定は査読者の報告に基づいてなされ」ますが、掲載論文の数に限りがあって(現在は一般投稿論文16編、依頼原稿4編)全体的な調整が必要になるほか、「論文修正の確認」(厳密には査読者による修正意見の提示と修正の確認)、「投稿者への対応」が当委員会の任務とされていますので、論文1編につき1人の閲読担当委員を選んで対応します。結局投稿論文1編を4人が読み、審査のために投稿論文を読んだ人は、のべ156名にのぼります。旧会則ではこれらの仕事を原則として会員の直接選挙で選ばれた「学術専門委員」25名が行っていましたが(1編につき2名が査読)、新会則では審査の仕事そのものが相当に規模の大きなものとなりました。この大規模化が私たちの研究活動をいっそう活発にすることをねがっています。【2】『日本中国学会便り』第2号(昨年12月発行)に掲載した論文執筆要領で、新たに「ワープロ使用の場合は、用紙サイズはA4、1行30字毎ページ40行、文字は10.5ポイント」と定めたのは、郵送と査読者・閲読担当委員の書き入れなどの便利を考えたものです。今回の投稿原稿はすべてパソコンを使用したものでしたが、この規定に従わないものが3分の1ほどありました。また、同要領第7項で「引用文は内容に応じて原文、訳文、書き下し文のいずれかを用い」、「原文の場合は該当する訳文または書き下し文を、訳文または書き下し文の場合は該当する原文を本文中または注に明示すること」と規定されていますが、これを守らない投稿論文が相当見られたことは残念なことです。この項には、「一読して疑問の生ずる余地のないものについては、省略することを認める」という但し書きがついていますが、これは主として平易な現代中国語を指していっているものと考えられます。現代中国語の場合も論述の主要な対象となる文章については、原文を注記することが必要でしょう。いずれにせよ投稿者には執筆要領の厳守をのぞみます。
【3】『日本中国学会報』第55集の論文審査では39編の投稿原稿のうち16編の掲載を決定し、採否について各投稿者に通知しました。論文審査委員会は、都合で予定より1週間おくれて3月30日開催となりました。一部修正の上掲載と決定したものについては、担当委員が査読者の意見をまとめてメモを作り、原稿への書き入れも1本に統合して、執筆者に届けました。担当委員と十分連絡の上修正を加え、完成原稿を5月末日までに編集担当校宛お送りください。規定で「査読者氏名は明かさない」ことになっていますので、修正意見の提示等においても、この点に気をつけています。会員諸兄姉のご理解をおねがいします。査読者において掲載水準に達しているという合意を得られず、不掲載となった論文についても、できるだけその理由を知らせるべきだという意見もありますが、今期の論文審査委員会では諸種の事情でこれを見送らざるをえませんでした。
【4】学会機関誌はどこでも大学院生、オーバードクターなどの若手研究者の投稿が重要な位置を占めるのが当然ですが、『日本中国学会報』では一定の水準を維持するため特に評議員、一般会員の中から両分野各2名、計4名の会員に寄稿を依頼しています。またベテランの研究者がつとめて投稿されることをおねがいいたします。ここでは特に若手研究者の投稿論文について指摘される問題点を以下に列記します。これらの点に注意して論文を作成されるようのぞみます。
(1)先行研究をふまえていない、そのため自分の論文の位置が不明確になっている。(2)論文の主要テーマが何であるかわかりやすく書かれておらず、またテーマの主・従を明確にしないまま論ずるため、論旨がすっきりしない。(3)中国語(原文)が正確に読解されていないと思われるものが多い。
(4)学術論文として日本語の表現に難点がある。論を構築する論文には普通用いないような表現を、自分の文体としているような論文があるが、初心者としては望ましい態度ではない。(5)新しい発見の報告、新しい資料の使用があるにもかかわらず、それを自覚的に表現しないため、論文の価値がそがれているものがある。また、テーマにかかわる資料(たとえば新発見の雑誌など)を全部目を通していないのではないかと思われるものがある。(6)論拠とされる資料のあつかいに混乱がある。たとえば、フィクション、自伝と史料とを同列に用いるなど、資料の利用にあたってとるべき基本的手続がふまれていない。
総じて若手会員には、自己のテーマを追求するだけでなく、古今東西のすぐれた論文を多く読んで、論の立て方をはじめ学問上の態度にいたるまで深く学ぶこと、自分の指導教授の指導を積極的に受けることをすすめたいと思います。