2004年(平成16年)4月20日発行
- 上野本『王勃集』のことなど
- 理事長 興膳 宏
- 人文学における共同研究と情報発信
- 湯浅 邦弘(大阪大学)
- 中国学の情報化と漢字文献情報処理研究会
- 二階堂 善弘(関西大学)
- 東京都の大学改革
- 南雲 智(東京都立大学)
事務局からのお知らせ
◎新入会員の紹介について
学会への入会は、定例理事会(年2回、5月・10月に開催)
において審査・仮承認を経た後、評議会において正式に決定
され、併せて初年度の会費納入を待って会員として承認され
ます。入会資格は、原則として、現在、大学・研究機関等で
中国に関係する研究に従事する者、あるいは中国の哲学・文
学・語学及び中国に直接関連する諸領域を専攻する大学院の
学生及びその修了者・単位取得退学者、とされています。
この基準に合致しない入会希望者を特に紹介される場合は、
研究歴及び研究業績についてできる限り具体的な紹介状を添
付してくださるようお願いいたします。必要に応じてさらに
審査前に事務局から照会することもあります。
なお、外国人留学生会員は、正規の大学院修士課程及び博
士課程の学生を対象としており、研究生は対象外となります。
大学院課程修了または帰国等の理由で資格変更される場合は、
速やかに事務局まで届け出るようにお願いいたします。紹介
者の方も助言の労をお取りくださるようお願いいたします。
近年、住所不明会員が急増しており、事務処理に支障をき
たしております。ご紹介者に住所不明者の連絡先を確認させ
ていただくことがございますので、ご了承ください。
入会申込みは、日本中国学会HP(http://wwwsoc.nii.ac.jp/ssj
3/index.html)にある書式をプリントアウトの上、学会本部(〒
113‐0034 東京都文京区湯島1‐4‐25 斯文会館内)宛にご
郵送ください。なお、本年度5月分の申し込みは、5月14日
(金)必着でお願いします。
平成14年度会費未納の方には、本年度の『学会報』を送付いたしておりません。会費納入が確認され次第、 送付いたします。会費納入の際には、振替用紙通信欄に未送付の『学会報』号数をご記入ください。
◎会費納入について
会費未納の方は、至急ご送金願います。特に、昨年入会申
し込みをされた場合は、会費納入が確認されるまでは正式会
員として認められません。また、数年にわたって未納の方は、
4年滞納になりますと除名になりますので、これらの方々は
ご注意ください。
(郵便振替口座:00160‐9‐89927)
◎『学会報』送付停止について
平成14年度会費未納の方には『学会報』をお送りしていま
せん。会費納入が確認され次第、送付いたします。会費納入
の際には、振替用紙通信欄に未受領の『学会報』号数をご記
入ください。
上野本『王勃集』のことなど
理事長 興膳 宏
最近は、文献資料のデジタル・データベース化や、
電子ブックの普及などで、書物という概念がずいぶん
変容をきたしてきた。電器屋で辞書を買うなんて、以
前は想像もつかなかったことが当たり前のようになり、
冊子本の辞書の売れ行きが極端に落ちてきたそうだ。
そんな環境の中で暮らしていると、書物のこともつい
利用の便のみで考えてしまいがちになるが、それは世
代間の文化の伝達という見地からすると、かなり危う
い面をはらんでいるのではないか。
まだ京都大学に在職しているころ、付属図書館に所
蔵される重要文化財指定の古典籍の補修に関係したこ
とがある。冊子仕立ての抄本で、虫損がはなはだしく、
いますぐ補修の手を加えなければ、将来の保存が危ぶ
まれる状態だった。修復成って戻ってきた本を見て、
すっかり面目を一新した姿に思わず感嘆の声を上げた
が、一冊の修理費が五百万円と聞いて、もういちど嘆
声を発した。予算が乏しいので、全二冊の典籍は二年
がかりで補修を完了した。
いま、私は京都国立博物館に勤務しているので、文
化財修理のことにも職務上の必要から関係する機会が
多く、修理事業の内部を多少知るようになった。この
博物館には一九八〇年に文化財保存修理所が設置され
て、全国の重要な文化財の修理に当たっている。修理
所には五つの工房が入って、絵画・書迹・典籍・染
織・彫刻などの修復作業がきめ細かく行なわれている。
ここはいわば文化財の病院であり、運びこまれた患者
の症状をいち早く正確に診断し、症状に応じた処置を
施すという点では、病院の役割と何ら変わるところが
ない。
大学病院などの大きな病院では、時おり院長を始め
とする医師団の回診というものがあるが、わが博物館
の修理所でも毎月一度、博物館の関係者が巡回を行な
う恒例の行事がある。ただ、病院の場合と異なるのは、
院長に相当する館長、つまりこの私がずぶの素人だと
いうことだ。ド素人の「院長」は、巡回のたびに、い
ろいろなことを教えられて、蒙を啓かれている。
修理の現場を見るたびに感嘆を新たにするのは、こ
の仕事が気の遠くなるような忍耐を必要とすることだ。
虫食いだらけの文書を修理する場合、まず料紙の紙質
を科学的な方法で詳しく調査・分析して、そのデータ
をもとにして特別に同質の補修紙を作成する。その際、
料紙の強度に配慮しながら、補修紙との間にアンバラ
ンスが生じないよう十分注意する。補修作業にとりか
かる前の準備段階で、すでにこれだけの手間をかける
のである。こうしていよいよ補填作業にとりかかるの
だが、個別の穴に合わせて補修紙を整えるに際しては、
紙の重なりあう部分を削って限りなく薄くし、料紙と
の一体感を高める。そのほかにも、糊の質、糊を溶か
す水の量、裏打ち紙との関係など、種々微妙な問題が
あり、それらを総合的に判断して、具体的な処置を決
めてゆくのである。人体の手術も複雑だが、文化財の
修理もそれに劣らず複雑である。
さて、朝日新聞社主上野尚一氏の所蔵にかかる国宝
唐抄本『王勃集』巻二十八が、さきごろ奈良国立博物
たぐろ
館に新しく設けられた文化財保存修理所で、田畔徳一
氏の主宰する工房において、めでたく修理を完了し、
みごとな姿に生まれ変わった。『王勃集』は、周知の
通り日本・中国を通じて数少ない唐抄本の一つであり、
東京国立博物館に存する巻二十九・三十とともに国宝
に指定されている。『王勃集』は、『旧唐書』経籍志・
『新唐書』芸文志等によれば三十巻とされるが、宋の
『郡斎読書志』では二十巻として著録され、『四庫全
書』を始め近世以降の流布本でも、もっぱら二十巻の
書として伝わっている。だから、我が国のみに存する
これらの残巻は、『王勃集』の古い形体を実証するも
のとして貴重である。
左から上野尚一氏、筆者、田畔徳一氏、一人おいて赤尾栄慶氏。
唐抄本『王勃集』巻二十八は、巻首に「墓誌下」と
題され、すべて四首の墓誌から成っていたことが知ら
れる。いま、そのうち第二の墓誌の本文を欠くが、墓
誌三首が収められており、いずれも通行本未収の作品
である。上野尚一氏の曾祖父に当たる有竹斎上野理一
氏は、一九一〇年(明治四三年)に、この書の写真版
複製巻子本を作成して好事の士に頒かたれ、それに内
藤湖南が跋文を書いた。いま『内藤湖南全集』第十四
巻(一九七六年、筑摩書房)の『宝左文』に収録さ
れる「上野氏蔵唐鈔王勃集残巻跋文」がそれである。
湖南の紹介によって、この天下の孤本は広く江湖に名
を知られるようになった。一行が十六字から十八字ほ
どから成る端正な書は、初唐のころの書風を知る上で
も貴重な資料を提供している。
『王勃集』の裏面には、平安時代の書写になる『大
乗戒作法』が存している。いわゆる紙背文書であるが、
実は『王勃集』を反故紙として『大乗戒作法』を写し
たのである。『王勃集』の継ぎ目に押された「興福伝
法」の朱方印によって、もとは興福寺に伝わるものだ
ったことが確実だから、元来は裏文書の方が表として
利用されたはずだ。以前の修理の際に、裏打ち紙が施
されていたために、それが全貌を現わしたのは、今回
の修理の過程が初めてである。高野山に蔵される『文
館詞林』残巻を始めとして、こうした数少ない唐抄本
はほとんどすべてといってよいほど、紙背に仏教関係
の文書を有している。貴重な中国古典の古写本が今に
伝承される裏の事情を、ここに改めて再認識させられ
た思いがある。
田畔氏のまとめられた保存修理報告書によって、形
体の上についても多少の説明を加えると、この巻子本
は縦二五.三cm、横約三五〇cmで、七枚の紙を貼り
こうぞ
継いでいる。紙質は雁皮に楮を配合した混合紙である。
全巻にわたって虫食いによる欠損がはなはだしく、他
にも折れや糊浮き、しみ、墨の滲みなどが随所に認め
らる状態だった。病状としては、かなりの重症といえ
る。
この修理のむずかしい点は、『王勃集』だけでなく、
紙背の『大乗戒作法』も含めて、当初の形に復元する
ように仕上げる必要があることだった。調査の結果、
料紙は新たに裏打ち紙を加えなくても、十分な強度を
維持していることが分かり、表裏とも文字の判読に支
障のないよう細心の注意を払いながら修理は進められ
た。長い伝統の中で練り上げられた手業と最新の科学
的な手法との結合が、この困難な作業をみごとに成功
にみちびいたのである。所蔵者上野氏によれば、準備
段階を含めると、二〇〇〇年夏からまる三年間の歳月
を閲して、修復はようやく完成した。最後に上野氏の
要請で、私が題字を揮毫し、全ての作業が終わったあ
と、昨年九月二五日、京都国立博物館において、所蔵
者への引き渡しが行なわれた。
みごとによみがえった『王勃集』を前にして、見る も気の毒なほどやつれ果てた修復前の姿を思い浮かべ つつ、私の感慨もまたひとしお深いものがあった。 (この一文を草するに当たって、所蔵者の上野尚一氏、
修理を担当された田畔徳一氏、及び京都国立博物館保 存修理室長の赤尾栄慶氏から資料の提供を受けた。こ こに記して謝意を表する。)
人文学における共同研究と情報発信
湯浅邦弘(大阪大学)
戦国楚簡の研究
「二正面作戦」と呼ぶにふさわしい状態が、ここ
数年続いている。
一つは、戦国楚簡の共同研究である。戦国楚簡と
は、1993年に中国湖北省荊門市郭店で発見された戦
国時代の楚の竹簡(郭店楚簡)、および1994年に上
海博物館が購得し現在公開が進められている楚簡
(上海博物館蔵戦国楚竹書)などの総称である。『周
易』『礼記』『孝経』『老子』などの伝世文献とも密
接な関係を持ち、中国古代思想史に再検討を迫る貴
重な資料群である。
公開された竹簡は膨大な数にのぼり、内容も、儒
家・道家・兵家など、多様な思想領域にわたる。し
かもそれらは戦国時代の古文字によって筆記されて
いる。独力での研究には自ずから限界があると言え
よう。
そこで、構想されたのが共同研究である。出土資
料研究や古文字学に実績のある研究者が長期的展望
のもとに研究会を組織し、解読作業を共同で進める
こととしたのである。
戦国楚簡研究会(大阪大学)
日本の研究機関では、研究所・センターなどの名
称により、共同研究班が恒常的に組織されている場
合もある。また、科研費などの外部資金によって、
短期集中的な共同研究が推進される場合もある。
しかし、組織の枠を越えた長期プロジェクトとし
て、こうした研究を継続するケースは少なく、実の
ところ、それには大きな負担がかかる。
それにも関わらず、こうした研究会が構想された
のは、楚簡という資料の特殊性もさることながら、
漢文学・支那学の伝統の上に成り立つ日本の中国学
が、新たな研究状況に対応できず、危険な状態にあ
ると感じられたからである。中国・台湾では、これ
ら新資料に対して、多くの優秀な若手研究者が積極
的に研究を進め、また、次々と共同研究組織が形成
されつつある。日本では、これとは対照的に、新資
料への取り組みはにぶく、個人ベースの研究が中心
となっている。
この研究会は、それぞれが多忙な職務の合間を縫
って、平成10年から毎年5回程度の研究会を、大阪・
松江・東京などで開催し、竹簡の読解と研究論文の
執筆を進めている。個別論著を除く共同研究全体の
成果として、すでに『新出土資料と中国思想史』(『中
国研究集刊』別冊特集号、2003年6月)、『戦国楚系
文字資料の研究』(科研報告書、2004年3月)など
を刊行した。
懐徳堂の研究
次に、大阪大学中国哲学研究室が直面しているも う一つの研究が「懐徳堂」である。1724年に大坂に 開学した学問所懐徳堂については、関係資料約5万 点が、現在、大阪大学附属図書館に「懐徳堂文庫」
として収蔵され、資料の整理・研究、電子情報化な戦国楚簡研究会(大阪大学) どの事業が、国立大学の法人化という事情もあって、 急速な勢いで進められている。平成13年には、CG
による旧学舎の復元や貴重資料データベースの制作 などが行われ、翌年には、『懐徳堂文庫図書目録』 全頁を電子化した「懐徳堂文庫電子図書目録」がイ ンターネットでの公開を始めた。さらに平成16年初
頭には、これまでの関係デジタルコンテンツを統合 し、総合研究サイト「WEB懐徳堂(http://kaitokudo. jp/)」として公開した。
WEB懐徳堂トップページ(http://kaitokudo.jp/)
懐徳堂文庫電子図書目録
この懐徳堂事業も、実は、学内外の多くの関係者
による協力と共同研究によって推進されたものであ
る。加えて、この研究は、インターネットやEメー
ルを最大限に活用し、常に情報を共有・公開しなが
ら進められた。
その結果、予想を越えた思わぬ研究の進展が生ま
れた。それは新資料の発見や関係者からの資料提供
である。こちらが積極的に情報を公開した結果、こ
れまで知られることのなかった貴重資料の提供や発
見が相次いだのである。
具体例を二つだけあげよう。今から200年前の懐
徳堂の学者中井竹山が奈良の墨の老舗「古梅園」に
発注した際の墨型が平成15年秋に発見された。そこ
に記された漢文を解読した結果、江戸時代の寛政の
改革に、実は懐徳堂が大きな役割を果たしていたこ
と、また、その自負を背景に、懐徳堂が日本の学術
文化の発展に積極的に寄与しようとしていたこと、
江戸・大坂・奈良をむすぶ知のネットワークが想像
以上に緊密であったこと、などが明らかになった。
また、昭和20年3月の空襲で焼失した懐徳堂学舎
については、関係者からの貴重な写真の提供があっ
た。それにより、これまでほとんど知られることの
なかった堂内の様子が判明し、また、当時の文部大
臣や満州国総
理が来堂する
など、大正・
昭和初期にお
いて懐徳堂が
日本を代表す
る知の拠点で
あったことが、
改めて複数の写真から実証されたのである。
共同研究の成果がインターネットを通じて公開さ
れ、それが新たな発見や研究の進展につながる。こ
れは、暗い研究室の中に閉じこもっていては、決し
て得られなかった貴重な体験であろう。
平成14年秋には、大阪市内の高校からの要請で、
懐徳堂デジタルコンテンツを活用した授業を2年生
38名に対しておこなった。高校生の反応はそのまま
鏡となって、私を映し出すこととなった。
広く社会にとって、我々の古典研究はどのような
意義を持つのか、また、どのような努力をしていく
べきなのか。鏡はそのような問いを発していた。
大阪市立扇町高校での懐徳堂の授業
中国学の情報化と漢字文献情報処理研究会
二階堂善弘(関西大学)
情報化社会と中国学
後世、21世紀初頭の一番の特色を問われたら、お
そらく「情報化社会の確立」ということになるので
はないか。それほど、1990年代からの情報技術の発
展とその一般化の流れは社会を大きく変化させたと
言える。
いまやビジネス・教育を問わず、ほとんどの分野
でIT化が進み、社会の至るところに情報機器は浸透
している。職場の風景を見ても、人々は書類ではな
く、パソコンのディスプレイに向かって仕事をする
ようになっている。
また学術情報を含むあらゆる情報は、インターネ
ットを通じて得るのが当たり前になった。理系の一
部分野などでは、ネット上に論文を発表していない
研究者は、「研究していない」と見なされるほどに、
インターネットが重視されている。
このような変化は当然のことながら、中国学の研
究・教育現場にも大きな影響を与えている。台湾中
央研究院の提供する『二十五史』などの電子データ
を提供するサイトを使いこなすことは、すでに日常
的に行われているし、書同文作成の『四部叢刊』や
『四庫全書』などの数億字規模のデータベースは、
研究に不可欠な資料となっている。また、業績の発
表についても、インターネットを通じて行うことは、
中国学のみならず、他分野でも一般的になりつつあ
る。今後も、よりいっそうの情報化と、他分野との
融合・発展が、中国学を含めた人文科学全体に求め
られていくであろう。
漢情研の成立とその背景
漢字文献情報処理研究会(JAET、以下「漢情研」
と略)を設立したメンバーの多くは、いまだデータ
ベースなどほとんど無く、またインターネット自体
が未発達であった時期から、今日の状況を予測し、
行動してきた。とはいえ、ここまでの急速な情報技
術の一般化は予想以上だった面もある。
まず漢情研設立の経緯についてみたい。
1990年代前半、パソコンは非力でありながら高価
で、また通信手段は専用回線か、パソコン通信くら
いしかなかった。何よりもパソコンで扱える漢字は、
せいぜいJISコードに含まれる6千字程度であり、
漢籍を扱うには圧倒的に少なかった。また中国語を
表記するためのワープロの技術はほとんど発展して
いなかった。
大型電算機を使用できるような大きな組織では、
多大なる研究資源の蓄積があったが、それを他の機
関の者が利用するには、コスト面など、多くの壁が
存在した。
この時期に、パソコン新しい道具を研究に役立て
ようとする若手の研究者が、コンピュータでどうや
って漢字を処理したらよいか、或いは多言語処理や
データベースなど海外の動向はどうか、といった情
報交換と議論を、パソコン通信(主にニフティサー
ブ)の会議室上で細々と行っていた。これが漢情研
の母体である。ここに集まったメンバーのうち、中
国学を専攻する者はむしろ少なく、国文学や仏教学
など、別の分野の若手研究者が多かった。このよう
な性格は、その後の漢情研にもそのまま引き継がれ
ている。
その後インターネットが発達し、海外のデータが
直接流入するようになり、またOSやソフトウェア
の発展により、中国語を含めた多言語データがパソ
コンでも扱えるようになった。ただその当時、まだ
ソフトウェアの使いこなしにはかなりの知識と技術
が要求され、一般化にはほど遠い状態であった。も
ともとパソコンは欧米で開発されたため、漢字のよ
うな文字を扱うには、技術的にかなりの困難があっ
たのだ。また当時は、提供されるデータも、『論語』
や『孟子』などの流布本の電子テキスト程度のもの
にすぎなかった。
そのような状況の中、95年に花園大学国際禅学研
究所から出された「禅ベースCD1」の衝撃は大き
かった。このCD-ROMには多くの仏典の信頼性の高
いテキストデータや、多漢字を扱うためのツールが
収録されていたが、豊富な内容にもかかわらず、き
わめて安価に提供された。そして翌年には、台湾の
中央研究院が『二十五史』や先秦諸子のデータベー
スをインターネット上に開放した。これにより、信
頼性の高い膨大な電子データが、ネットに接続して
いる者であれば「誰にでも」使えるようになったの
だ。この開放の意義は大きかった。
そして、WindowsやMac OSなどのUnicodeの対応
が進み、幾つかの言語を混在することは比較的容易
になった。また扱える漢字の数も、約2万字に増え
た。
このような動きを受けて、97年から98年にかけて、
ニフティの会議室に集まったメンバーが中心になり、
制約の多いパソコン通信から、より自由なインター
ネット上に活動の場を移し、バーチャル研究会を発
足させることとなった。いったんは「中国語情報処
理」の研究会として発足したものの、会員に様々な
分野の者が存在したため、これを改め、中国語に限
定されない「漢字文献」という名称に変え、再発足
した。
漢情研の性格と活動
当初漢情研は、大学院生や助手・講師といった若 手東洋学研究者の数名の集まりにすぎなかった。し かしその後、徐々に会員は増えて100名を超え、ネ ット上に設置された会の掲示板において活発な議論
が行われるようになった。また会員は研究者に限定 されず、コンピュータ関連のビジネスに携わる者も 多かった。事実、漢字情報処理はすぐれて「先端的 な研究」であり、東洋学や情報処理に限らず、行政
処理や図書館実務にまで影響が及ぶものであった。 そのため、意図するとせざるとにかかわらず、様々なコラボレーションが行われることにもなった。
しかし、漢情研がまず会として取り組んだのは、 何と言っても東洋学の情報化の現状を広く知らせ、 多くの研究者の意識の変革を促すことであった。何 故なら、当時はコンピュータに対する無理解や誤解
が多く、害悪視する者すら存在するような状況であ ったからだ。また海外の研究に比べて、人文系の情報化への取り組みは明らかに遅れていた。会ではこ のような動きを、冗談交じりに「攘夷運動」と称し
ていたこともあった。
98年に会の幾人かのメンバーが中心になり、好文
出版から『電脳中国学』を出版したのは、なるべく
多くの研究者や周辺分野に関わる人々に、最新の技
術と動向を知って欲しい、というのが主な動機であ
った。もっともこの書は、会のスタンスが定まらぬ
まま、実用書なのか研究向けなのか、曖昧な性格を
併せ持ったまま出版されてしまった。とはいえ、い
ささかの好評を博し得たようで、部数を重ね、多く
の反響もいただいた。
続けて、2000年には、国文学に関わるメンバーが
中心となって『電脳国文学』を出版した。さらに、
スタンスを明確にし、全面的に内容を見直した『電
脳中国学II』を2001年に出版した。この書はマニュ
アルとしての機能が重視されている。研究論文につ
いては、会誌として『漢字文献情報処理研究』を発
行し、こちらに掲載することにした。2000年から毎
年発行を続け、2003年には第4号を出している。な
お当誌については、編集段階から日本中国語CAI研
究会のご協力をいただいている。
主にバーチャル研究会の活動を中心とする漢情研
であるが、上記のような出版活動の他、実際に顔を
合わせての活動も重視している。1998年に第1回の
研究大会を早稲田大学で開催してより、99年には駒
沢大、2000年には法政大と、ほぼ毎年12月に研究会
を催してきた。また、夏には夏期講座として、漢字
文献処理とその周辺に関わる問題について講師を招
く形で学習会を行っている。2003年夏期講座では、
法律学の講師を招いて電子資料の著作権に関する問
題を検討した。
さらに掲示板での議論やニュースを伝えるために、
半月に1度メールマガジンの発行を行っている。こ
のメールマガジンは、会員以外の者でも無料で購読
が可能である。これらの情報については、漢情研の
ホームページ(http://jaet.gr.jp/)を参照して欲しい。
展望と課題
情報技術の進歩は進み、いまやWindowsなどでは、
ごく当たり前に中国語と日本語の混在ができるよう
になった。何のソフト上の工夫もいらず、買ってき
た瞬間に多言語が使えるようになっている。たかだ
か10年くらいのことなのに、かつて多大な労苦を経
験した者にとっては、隔世の感がある。
またパソコンで使用できる漢字数は、Unicodeが
拡張され、約9万字になった。漢籍データベースも、
もはや億字単位のものが続々と出現している。論文
なども、インターネットで発表するのが当たり前に
なった。今後もこの流れは続くであろう。
かつてはコンピュータに対しては、これを神聖視
するものがあり、また害悪視するものがあり、反応
が極端に分かれた。「中庸」とは実に難しいものだ
と思ったものである。ただいずれにせよ、それは主
に情報化に対する無理解に起因するものであった。
さすがに政府が「IT化」を声高に叫ぶ時代、これを
敵視するものは少なくなったが、無理解、というこ
とでは、状況はあまり変わってないような気もする。
コンピュータは「魔法の箱」ではないし、「パン
ドラの箱」でもない。それは「普通の道具」にすぎ
ない。むろん「比類無き力」を発揮する道具ではあ
るが、必要以上に恐れるものではない。教育や研究
の現場において、この便利な道具を活用しない手は
無いのである。
それにしても、中国学における情報化は、他分野
に比して立ち遅れているのは確かである。仏教学に
おいては、日本印度学仏教学会が早くから情報化に
取り組み、論文データベース(INBUDS)や『大正
大蔵経』データベース(SAT)などの充実を図って
きた。また国文学においては、国文学研究資料館が
あり、大型電算機の時代から電子化を組織的に行っ
てきた。
このような規模の組織的な動きがほとんど行われ
ていないところに、中国学の不幸がある。漢情研の
活動は、あくまで小さな研究会レベルのものにすぎ
ない。それは核になりうるものではあっても、大き
なものとはなりえないのだ。今後は、学会レベルの
組織的な、かつ大規模な動きを伴った情報化が期待
される。さもなくば日本の中国学の存在意義が疑わ
れかねない。
東京都の大学改革
南雲智(東京都立大学)
2003年8月29日のことだった。
新宿の都庁第1庁舎11階にある大学管理本部長室は、
管理本部の係長以上のおもだった幹部職員十数名と各
大学の事務局長四人が陪席していることも忘れるほど、
不気味に静まりかえっていた。ただ本部長の低く抑え
た、しかしそこにいる者達すべてを威圧するような声
だけが響き、誰もが息を呑むようにしてその声を聞い
ていた。
今日集まってもらったのは、今後の改革の方向を理
解してもらい、協力を得たいからである。都知事が8
月1日の記者会見で都立の4大学を廃止し、新たな都
の大学を創設することを発表したのを受けて、本格的
に新大学構想を練るつもりである。
管理本部長の話の切り出しはおよそこのような内容
だった。
これより1カ月ほど前の8月1日、石原都知事は記
者会見で、極めて唐突にこれまでの学部構成を廃止し
て都市教養学部、都市環境学部、システムデザイン学
部、保健科学部を設け、さらに全寮制の導入、単位互
換制度など結ばずに専門学校や他大学で履修した科目
を認定する「単位バンク」なる単位制度の採用など、
衝撃的な発表をおこなっていた。これは新大学として
ほぼ骨格が決まっていた人文、法学、経済、理学、工
学、保健科学の六学部とその上に大学院を乗せるほか、
法科大学院、ビジネススクールを新設、四大学で860
余人の教員定数をおよそ350人削減し、スリム化を図
るというそれまで2年上にわたって検討を続けてきた
「東京都大学改革大綱」の完全破棄を意味していたの
である。
管理本部長は、さらにこう続けたのだった。
今後は教学準備委員会と経営準備室委員会を設置し、
教学準備委員会は西澤潤一岩手県立大学学長を座長と
して外部有識者と学内委員で構成する。新しい大学の
詳細設計はこの教学準備委員会がおこなう。学内から
の委員には基本構想に積極的に賛同し、かつ旧大学の
資源に精通した先生方に就任してもらう。したがって
基本構想に賛同しない先生方とは新大学についての検
討をしない。
こういうことだったのである。私を含めて都立大学
の学部長、研究科長5人が大学管理本部長に呼び出さ
れたのは、要するにつべこべ言わずに、黙って言われ
たとおりの大学改革に協力せよと言い渡すことが目的
だったのだ。
しかし「基本構想に積極的に賛同」するか否か、そ
の内容もわかっていないではないか。「旧大学の資源
に精通した」とはなんという物言いなのか。我々は資
源に過ぎないのか。こんな私の内心のつぶやきを見透
かすように、
積極的に賛同して詳細設計に参加してもよいという
先生を推薦しても構わない。教学準備委員会にはあく
までも個人として参加してもらう。
と管理本部長は言ったのだった。
事態は容易ならざる所に来ていた。今後の新大学の
検討は短時日の間に密室で、しかも賛同しない者を排
除して推し進めることを管理本部長は明確にしていた
からである。一気に形を整えてしまおうとする意図の
もと、石原知事の代理人はまさに踏み絵を突きつけて
きたといえるだろう。そして9月5日に第1回目の教
学準備委員会の開催を予定しているので、出欠の返事
を今、ここで聞かせよと迫ってきたのだった。
科学技術大学学長、保健科学大学学長はその場で新
構想に賛同し、出席する旨をあっさり表明。私を含め
た都立大学の5学部長、研究科長は、事前の打ち合わ
せではとりあえず今日のところは話を持ち帰ることに
なっていた……はずだった。
そのため私は、個人の資格でこの教学準備委員会に
参加するつもりはないこと。新構想に積極的賛同はで
きないこと。しかし内容がわからないので、教学準備
委員会に出席するか否かは学部に持ち帰り、教授会で
検討する。したがって返事を保留すると答えたのだっ
た。その時は当然、他の学部長、研究科長も同様の発
言をするものと私は思っていた。ところが、4人の返
事は多少のニュアンスの違いはあれ、全員が教学準備
委員会に参加するというものだったのである。「約束
が違うではないか」これが私の偽らざる思いだった。
新大学構想に積極的に賛同できないという人文学部
には委員会の案内を出さない。ただし会議は予定通り、
9月5日に開く旨がその場で伝えられたのだった。
以上が、私が大学改革に関する石原流トップダウン
方式をまざまざと見せつけられた当日の出来事を、や
や実録風に記したものである。
こうした手法は、まもなくすべての教員にも押しつ
け始められた。2003年9月25日、「新大学構想に積極
的に賛同する。検討内容は口外しない」ことを誓約す
る「同意書」の提出を求めるという愚挙に大学管理本
部が出たからである。この脅しに屈して全教員が提出
してしまった学部も現れた。だが人文学部と理学部は
学部全体一致して提出を拒否(その後この同意書につ
いて、都側は大学の抵抗の前にうやむやのまま放置す
ることになった)。学生、院生からは「これまでの教
育・研究環境を守るためにも絶対に屈するな」という
声が次第に大きくなっていった。またマスコミ関係の
動きが次第に活発化していった。しかも徐々にではあ
るが、大学管理本部の公式発表を鵜呑みにしていた新
聞社までが我々の声に真摯に耳を傾けるようになって
いった。さらに我々が勇気づけられたのは「都立大学
を守れ、人文学部を守れ」という外部の方々や人文関
係の学会や団体からの心暖かな支援の輪が広がってい
ったことだった。
私自身もマスコミを通して都立大学の現状を何度か
訴えることもした。例えば次に引用するのは『東京新
聞』(『中日新聞』)2003年12月16日夕刊「文化欄」に掲
載した一部分である。
「なかでも「都市教養学部」はその名称からして異
様であると同時に、教師や学ぶ者をあまりに無視した
乱暴きわまりないシロモノだった。
しかも石原知事は記者会見の席上“新しい大学構想
がいやな先生には辞めてもらえばいい”と発言し、“ま
っとうな協議”態勢を否定しさったのである。
知事が発表した新大学構想は驚くべきものだった。
1)都市環境の向上、2)ダイナミックな産業構造を
持つ高度な知的社会の構築、3)活力ある長寿社会の
実現、この三点をキーワードに大都市の現場に立脚し
た教育研究をおこなうというのである。驚いた理由は、
これらの項目は行政が目標に設定し、実現に向けて努
力するものにほかならず、大学を行政の単なる下請け
機関としてしか認識していないことをいみじくも示し
ていたからである。私が他のところで、都立の新大学
は“職業訓練学校”と言ったのはそのためだった。」
驚くのはこの学問的にも教育的にも理念が欠落した
大学構想だけではない。都立大学人文学部には専攻と
して国文学、中国文学、英文学、独文学、仏文学の5
分野が設置されており、さらにそれぞれの領域の語学
研究や教育が積み重ねられ、日本の各分野の学会や、
文化界に大きな実績を残してきた。東京都はこれらを
すべて廃止し、しかも併置されている哲学、史学専攻
の教員定数までも設置基準ぎりぎりにまで削減すると
いうのである。
およそ大学がなぜ存在するのか、なぜ「文化」を学
ぶのか、なぜ「教養」を身につける必要があるのかな
ど少しでも認識していれば、現在ほど国際化、情報化
が進む日本では大学における文化、教養教育の充実こ
そ図られても、縮小や廃止などあり得ないはずである。
このような東京都の大学改革に危機感を抱くのは、
単に東京都立大学という一大学での研究・教育環境の
破壊にとどまらず、小泉政権による構造改革論議が経
済効率優先政策にほかならず、国公立大学の独立法人
化の実施がそれを証明しているからである。
大学での研究・教育は経済効率を優先させて“儲
け”をもくろむ営利事業ではない。例えば我々に関係
する文学や哲学そして語学には長い歴史の積み重ねが
あり、それらを理解するには専門的研鑽が必要である。
大学の教員はその蓄積を活用し、新しい発見や見解を
見いだし、次の世代にそれを伝え、さらなる発展を託
す使命を担っているのである。
このような大学の真の使命を理解せず、受験産業の
河合塾に教育課程の設計を丸投げするような設置者の
姿勢に追随する大学の出現を恐れる。さらには東京都
の大学教員との協議を排除した問答無用の上意下達方
式が全国の大学に波及していくことも恐れる。
その意味でも、私たちは石原流大学改革に異議申し
立てを続けていかなければならないだろう。人文学部
としてはこれまで築いてきた財産を守りうる研究、教
育水準を維持できるよう努力しなければならないし、
またそれが学外から応援して下さっている方々への恩
返しだと考えている。
〈付記〉設置者から一方的に行われている都立大学
の改革の現状にご理解いただくため、興膳宏理事長か
ら特別なお取りはからいをいただき、本稿を「学会便
り」に掲載させていただきました。学会会員の皆様に
も都立大学の実情を人文学の危機としてお考えいただ
ければ幸いです。